パンチの独り言

(2014年5月12日〜5月18日)
(歪、相反、プチ贅沢、巨億、誘導、地道、判ずる)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



5月18日(日)−判ずる

 情報が全ての世界と思い、それを手に入れようと躍起になる。その結果、何が起きたのだろう。実は、何も起きなかったのかも知れない。何も起きず、何も得られず、それでも、何も失わなかったのなら、それこそ、何の問題も無かったのかも知れない。だが、失ったものは、沢山ありそうだ。時間と金、だけでもかなりのものが。
 異常な程の熱意を持ち、情報を手に入れようと奔走する人々、彼らが手にしたものの多くは、単なる幻だったり、誰かが練り上げた嘘だったりで、役に立たないばかりか、それに振り回された挙げ句に、奈落の底に突き落とされた。誰も手にしたことの無いものを手に入れる、という作業は、如何にも魅力的に見えたのだろうが、実在しないものだからこそ、手にできなかっただけなのだ。それを手にした喜びは、宝を手に入れた時に似て、満足感が体中に溢れる。だからこそ、その後に来る衝撃は、より大きなものとなる。だが、繰り返される悲劇を見ると、人間の性なのか、懲りない心根が、見えてくるような気がする。最先端で暗躍する人々の話だけではなく、ごく一般の人々にまで、こんな状況は広がり続け、傾向と対策に追われる人々が、巷に溢れている。老若男女を問わず、誰かの経験を頼りに、自らの行動を決めようとすることに、何の違和感も抱かない。社会構造を考えれば、基本に則ったものに見えるが、情報に踊らされる人々は、その質を見極めようとせず、風潮に流されることとなる。皆で渡れば怖くない赤信号も、交通法規を遵守した車の犠牲者が、ごく一部に出る。大多数は無事でも、自分が被害に遭う確率は、確かにあるのだ。その時、皆がするという条件だけでなく、自らの判断を加えれば、逃れられる可能性は高まるのではないか。元々は、経験を重ねる度に、こんな感覚が養えるはずが、他人の言に惑わされるのみの経験では、何の役にも立たない。失敗に、役に立つものと立たないものがあることに、気付くのはいつのことか。

* * * * * * * *

5月17日(土)−地道

 目標を高く設定し、それに向けて努力を積み重ねる。ごく当たり前のことで、誰もが経験してきた話だろう。だが、高い目標に到達できたかは、当然のことではない。目標は高い程良いとの見方も、努力が無駄に終わった時には、どう感じられるものか。達成感が重視される中では、馬鹿げた見方とされてしまうのか。
 高みを目指し、努力を積み重ねることが、当たり前だった時代と違い、豊かさを手に入れた後では、如何に容易く、夢を手に入れるかが肝心に思われるようだ。自分だけでなく、他人の力を借りてでも、望みを手に入れたいと思う人は、以前より増えたように感じられ、周囲の人々が、他力本願の達成感に浸る姿に、呆れることも増えた。何より、達成感が重要との見方も、自力でなければ、どうなのだろう。様々な環境整備も、その多くが、整えることで達成し易くしている訳で、自力より他力といった考え方が強まる。出来もしないことも、そんな形で達成する喜びを手に入れると、次からは、他人の力に頼ることとなる。丸投げといったことが起きるのも、こんな背景によるものかも知れないが、そこまで行くと、達成感を経験できたとしても、そこに自らの関与は殆ど無く、真の経験と呼べない代物が重なるのみとなる。それでも良いとの解釈が、大勢を占めているようで、お膳立ての中で、貴重な経験をしたとしても、新たな力がつく訳でもなく、努力を積み重ねた訳でもない。そんな人材を育成する制度が、世の中に、様々に溢れているが、現実には、金を捨てているだけに終わっているのではないか。関係者の自己満足も、この手の催しが抱える大きな問題であり、本来の目的が達成されずとも、彼らの心は満たされるのではないか。

* * * * * * * *

5月16日(金)−誘導

 統計は、何かを主張する時に、有用な手法と言われている。最近も、商品の売れ行きの変動を、数値の変化を使って説明し、その原因の分析を施す話が、流れていた。このやり方に、反論を唱える人は少ない。現実の数値を拾い出し、それを根拠として、ある主張を進めるから、確固たる理由があるように見られるからだろう。
 だが、このやり方、一見正しいことを行っているように思えるが、本当にそうだろうか。数値の変化は、確かなものが示されているとは言え、収集法により、違った結果が得られる場合も多い。その問題点は、膨大な数の数値を分析することで、解消できるとの見方があり、おそらく、最近のものでは、余り問題とは思われていないようだ。だが、次に来る問題は、元来、恣意的なものであるだけに、簡単には解決できないのではないか。原因の分析は、数値の結果から、直接導き出せるものではなく、多くの仮定をおいた上で、多方面からの分析を行い、その中から、妥当と思えるものを引き出すことで、結論を得る。この道筋では、重大な問題点は見出せないように思えるが、現実には、仮定そのものに限定があり、あらゆる可能性を検討した結果ではなく、ある程度当たりを付けた上での行為だけに、恣意的なものであることは否定できない。その結果として導かれる原因の特定では、論理は成立していたとしても、出発点の問題が残るのではないか。膨大な数値の分析、という新たな手法に関して、歓迎の声は強いが、その過程において、依然として大きな問題が残ることに、目を向けておく必要はある。所詮、統計とは、そんなものに過ぎないことも含めて。

* * * * * * * *

5月15日(木)−巨億

 景気の回復を実感できているのか。こんな問い掛けが流されること自体、以前とは状況が変わったことを意識させるが、何がどのように、との分析は余り行われていない。この問題に限らず、最近の傾向は、データの羅列であり、そこに並んだ数値が、恰も何かを意味するかのような扱いが続く。現実には違いないが。
 大量の数値を集めれば、何かが言えるに違いない、との期待が抱かれているのは、何となく判るのだが、その並べ方やそこから導き出される分析結果を眺めると、結論ありきの感が拭えない。大量の数値には、様々な要素が含まれているから、それらを眺めれば、見えなかったものが見えてくる、との解釈は、最近の流行であるのだが、現実には、数値から導き出されたというより、提示された考えとの一致を検討しているに、過ぎないような気がする。おそらく、この手の分析に手を染める人々は、自らの考えを補強するものを探しており、雑多な数字の羅列には、その意味で、便利なものが含まれているのだろう。好んで使われる手法も、外見的には、中立的なものを施しているように見えるが、実際には、ある結論への道筋を付けているに過ぎないのではないか。特に、統計的な処理に関しては、以前から、様々な悪評が飛び交っており、好都合な事例のみを引き出す手法が、専ら使われてきた。その中で、巨大な数値群から、あぶり出された結果という触れ込みは、持論を主張したい人々にとって、魅力的なものに映るようだ。それまでの恣意的なデータ収集とは異なり、そこには作為が施されていないという説明も、その後に様々な作為が行われるとなると、一体どう違うのか、と思えてくる。期待を抱きたい気持ちも判るけれど、こんなことを繰り返していては、頓挫するように思えてしまう。

* * * * * * * *

5月14日(水)−プチ贅沢

 生活が苦しい、という声の一方で、贅沢品に手を伸ばす人々が居る。矛盾しているように見えるが、人の考えとは、こんなものではないか。余程極端でない限り、仕事を持ち、ある程度定まった収入がある人にとって、今の時代は、貧困と呼ぶような事態には陥らないようだ。それでも、時により、感じることが変わる。
 日銭を稼ぐという生活形式は、随分昔に無くなってしまい、多くの職業では、月単位の給料が渡される。それをどう使うかは、各個人に任されているから、給料日に贅沢をする人が居る一方、まずは貯蓄に回し、残りで倹しく暮らすという人も居る。どちらが正しい、という訳ではなく、それぞれに、自分なりの計画で暮らしているだけのことだ。それでも、月単位の変動を眺めると、典型的な倹約生活に徹する人も居て、彼らは貧しさを強く感じているようだ。だが、貯蓄の一方で、という事情からすると、将来の為という目標があるだけに、日々の暮らしについては、仕方がないとの感覚を持つべきではないか。日銭の時代に、宵越しの金は持たぬ、と突っ張っていた人々の話題が、今でも、時々語られるが、将来への目をどう持つかも、人それぞれに違う訳だから、その問題を棚に上げて、議論を進めるのは感心しない。それにしても、貧しい中での小さな贅沢、が話題になるのは、何故なのだろうか。贅沢への憧れ、という見方が正しいように見えるが、一方で、貧しさとの判断が、的確かどうかは、余り問題とならない。金の分配は、社会での問題として取り上げられるが、実は、個人の財布の中でも、同じような問題があるように思える。

* * * * * * * *

5月13日(火)−相反

 事実を伝えて欲しいとの声と、不安を取り除いて欲しいとの声は、同じ思いを伝えるものなのか。そう話す人の意見は、一瞬同じもののように見えるが、よくよく聞いてみると、何処か違っているようにも見える。事実を知りたいとの欲求には、それがたとえ不安を招くものでも、との思いがあるから、同じである筈が無いのだ。
 にも拘らず、相矛盾するものを両立させようと、言葉を尽くす人々が居る。始めのうちは、受け入れ易い話が続くから、相手も不安を感じることは無い。しかし、様々な話を紹介し、事実をそのままに伝えようとすると、その中には、容易に受け入れ難いものが出てくる。その途端、不安を抱き易い人々の態度が一変する。知りたくないという感覚は、事実を、という前提があるだけに、口にされることは無い。しかし、一度襲われた不安感を、取り除く為の手立てを、相手に求め始めるのは、当然の帰結と見なされる。だが、ここから先は、事実を伝える人間の責任では無い場合が、殆どではないか。正しい情報を最優先させた結果、相手が不安に襲われたとしても、その責任を提供者に帰すことはできない。伝え方が、との意見もあるだろうが、事実は事実として、正しく伝えるべきことに変わりはない。ここに大きな溝が存在するようで、皆の反応は、不思議な程似たものとなる。一時、不安を抱いたとしても、それを自ら解消する手立てを持つ人々にとって、こんな話はどうでも良いことだろう。だが、不安に苛まれ、騒ぎ立てる人にとって、ここが最も肝心な岐路となる。だが再び、事実は事実であることに、目を向けるべきだろう。どう処すかは、人それぞれであり、事実を前にして、何をすべきかも、それぞれに違いない。全てに通用するものは、やはり無いのだろう。

* * * * * * * *

5月12日(月)−歪

 自負心から来るものなのだろうが、芸術家を気取る芸人の発言に、頷いた人が多く居るのではないか。作品は作者のものであり、他人がとやかく言うべきものではない、という意見には、確かに、作品への責任と誇りが感じられるように見える。だが、それが創作ではなく、現実に基づくものとなると、どうだろうか。
 創作では、事実に必ずしも基づかない話を、如何に展開させるかが重要となる。芸人たちが得意とするパロディは、事実を揶揄するものだけに、その区別は難しい所だが、一線を越えてしまうと批判の対象となる。事実に基づくものでも、小説という形式を用いる場合には、実名や実在する地名などを様々に変えて紹介し、創作であることを主張する。その手続きを怠ると、たとえ小説といえども、事実を歪曲させたとの批判が浴びせられる時がある。始めに取り上げた話題は、ある人気漫画に関するものだが、元々、実名で人物を登場させ、料理に関する話題を、店の名を出して紹介させることで、人気を得てきた事情は、皆が知る所だろう。となると、これは創作とは呼べぬ代物となり、そこに綴られる話は、事実を伝えるものと見なされる。見聞に基づくのだから、事実には違いない、との説明は、いつもの如く展開されるが、この考え方の誤りは、最近指摘されることが少なくなり、言論の自由という権利と明らかな誤解という間違いを、ごた混ぜにする思想が台頭することに、危機感を覚える。作品という括りで、こんな暴挙を許そうとする考え方には、信じる者は救われるとの、宗教に似た強引さが感じられる。所詮、科学を理解できない人々の、戯言に過ぎぬものとの見解も、それに影響される愚かな社会が抱える、病的な行動様式を考えると、何かしらの制御が必要では、との思いが過る。

(since 2002/4/3)