パンチの独り言

(2014年5月19日〜5月25日)
(世も末、言葉の綾、庭いじり、有りの侭、集まる、弱気、やらされる)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



5月25日(日)−やらされる

 経験の重要性が強調される時代なのだろう。何かをやらせた、ということが、何にも増して重要と見なされ、その為の準備に注目が集まる。経験の無さが、大きな欠陥として指摘されて以来、世を挙げて、場の提供を最優先とする。だが、この動きは、効果を上げているのだろうか。騒ぎは依然として続いているのだが。
 こんなことを書き始めると、また冷や水を浴びせている、と揶揄されそうな気もするが、気になっているのは、経験とは何か、という点である。自らが経てきた道筋に並ぶ、何かしらの事物であることに、異論は無いとは思うが、自分から首を突っ込んだものと、誰かの手で差し出されたものに、違いは無いのだろうか。今気になっているのは、まさにその点であり、経験する人々の心の動きに、幾らかの違いがあるのかも知れない、と思うのだ。若者たちに、経験不足が露呈しているのは、否定できない程に明らかだが、その原因に目を向ける人は少ない。対症療法とばかり、経験の場を提供し続けるが、効果が上がっているように見えず、場の作り方に問題がある、との指摘までが出てくる始末なのだ。本質的な問題は、経験と呼ばれる学習において、当人の関わりは如何なるものか、という点にあるが、場の提供という安易な手法に比べ、人それぞれの違いに始まり、状況の個人差にまで、思いを馳せると、その複雑さから目を逸らしたくなる。積極的な取り組みの大切さは、徐々に理解を獲得しつつあるものの、肝心の人物たちの動きは鈍い。彼らの意欲の減退が、真の原因であり、それを更に助長しているのが、場の提供にあることに、今中心に居る人々は、気付かぬふりを続ける。金をつぎ込む場の提供とも重なる、現行の手法に関して、もっと批判の声が高まっても良いのではないか。それも、無理強いの経験を押し付けられる、渦中の人々から。

* * * * * * * *

5月24日(土)−弱気

 身勝手な言動は、自信の無さの現れ、と言われたら、どんな反応を示すだろう。世の中に溢れる、この手の人々の勝手気侭さに、腹を立てた経験は、誰もが持つのではないか。だが、勝手な言動の横暴さの、その裏側に、弱気が潜んでいるとしたら、どう感じるだろう。自分と同じと、同情する気持ちになるだろうか。
 流石に、そんなに寛容な態度はとれないのではないか。何しろ、勝手な人々は、他人の迷惑も顧みず、好き勝手に振る舞い、巧く運べば自分の手柄、失敗は他人の責任、となるのだから、周囲はたまったものではない。先手必勝の教えの如く、この手の人々は、人の先をいくことで、自分の権利を守る。そんな大人の勝手を見て育った人々は、毛嫌いするのも一時で、自分がその立場を手に入れられると気付くと、同じ事を繰り返す。再生産の工程ができれば、抑えることは難しくなる。上の世代からの圧力に苦しむ人も居れば、同世代の中での横暴さに辟易する人も居る。いずれにしても、弱気を見抜かれぬようにと、身勝手を演じるのだとしたら、何と情けないことではないか。自信が身に付くような努力を嫌い、上辺の飾りに精を出す。そんなことを繰り返しても、成長は見込めない。分かり切った話にも、面倒が先に立てば、気付かぬふりを続けるのだろう。最近の傾向は、どうもこういった形に固まりつつある。厳しい批判も、所詮は防衛の為となると、意味を成さないように思える。やはり、自信を養う手立てを身につけねば、こんな負の連鎖から脱することは難しいようだ。

* * * * * * * *

5月23日(金)−集まる

 ハブと言っても、蛇の一種ではない。拠点とか中心という意味で、ネットに繋がるパソコンでは、何処かにそんな装置が置かれている。これにより、多数の機器を繋ぎ合い、外部の回線との連結を図る。一方、最近よく聞かれるハブは、運輸の中心となる存在で、世界各地から集まる路線を、効率よく捌く場所となる。
 たとえ、人々が訪れなくとも、拠点空港で乗り換えれば、それで大きな収益が上げられると言われる。そんな考えから、高額な使用料を下げ、多くの航空会社に乗り入れを検討させようという案が、何度も取沙汰された。だが、拠点は地域に一つあれば十分であり、長距離輸送を常とすることとなれば、その数は限られる。これは、逆の見方をすれば、過当競争を招く状況と言え、その競争が、利用者にとって利益を産むものであれば、歓迎されるものとなる。だが、競争が続くことには変わりがなく、弱肉強食の状況も続く。業界再編が、問題視されてきた世界だけに、更なる圧力は、どんな結果を招くのだろうか。既に、多くの企業が合併を繰り返し、巨大化を続ける。それにより、利便性が向上するのなら、誰もが歓迎すべきことだが、現実には、効率化が優先されることにより、便利さが失われつつあるようだ。ハブの話も、巨大空港が作られることで、便利さが増すとの解釈もあるが、実際には、乗り換えの為の時間が延びるだけで、必ずしも、効率が増したとの印象は残らない。最近注目される砂漠の中の存在も、実際に使ってみれば、乗り換えだけが目的で、他にやることが見つからない人々が、通路脇に寝転がり、異様な光景が広がる。便利とか格安とか、そんな言葉が飛び交う中で、利用者にとって、それと引き換えに降り掛かる試練は、人それぞれに、違った印象を抱かれるのだろうか。

* * * * * * * *

5月22日(木)−有りの侭

 事実を伝える役割を果たしただけ、とでも言うのだろうか。一つの事件を追い続け、その中で起きたことを伝える。当然に思える手法だが、報道の基本とは何か、と問いたくなるような気配もある。起きた事実を繋げ、時系列に並べ、発言をその時々に合うように鏤める。何の問題も無さそうだが、どうなのだろうか。
 真犯人からの便りが届いた、という報に接した時、多くの人は、今度も誤認逮捕だったのか、と思ったのではないか。その理由は簡単で、犯人とされる人物は、まだ鉄格子の向こうに居る、と思っていたからだ。詳しく読めば、気付くこともできただろうし、この事件の話題を追い続けていたら、その矛盾を指摘できただろうが、次々に起きる事件に、そんな対応は、一読者の能力を超えている。長い沈黙を破り、突然の告白に、愈々警察権力の綻びが、といった扱いがあったのは、事実を伝えるべき人々の、ある思惑が働いたからだろう。如何にも、作り話のような展開も、当事者の置かれた状況を付け加えれば、多くの人が様々に思いを巡らせることができただろう。事実を伝える役割とは何か、そんなことを改めて考えさせる課題だったろうが、当事者たちは、弁護をする人も含め、自分たちの問題とは、受け取る筈も無いことだ。だからこそ、懲りもせず、同じような間違いを繰り返す。社会の為との責任感も、こんな形でしか発揮できないようでは、その存在意義は認め難い。発表を鵜呑みにする姿勢も、相手が変わろうが、何が起きようが、全く変わらないのでは、捏造された事実を見破ることは、まずできない。またかと思える、精神鑑定の話も、伝える価値があるとは思えず、無駄な追加情報でしかない。こうなれば、彼らの存在自体が無駄、との結論にも、触れたくなるのでは。

* * * * * * * *

5月21日(水)−庭いじり

 草花を楽しみたいと願う人は少なくない。家々の前に、様々な鉢が置かれ、春の訪れとともに、町並みに彩りを加えている。欧州の町では、窓を飾る花々に、道行く人の目が奪われる所も多い。規則として、飾り方を決めている所もあるようだが、自由を重んじる土地柄からは、何かが違うのでは、と思えてくる。
 道路に面した方に飾るのは、自分の楽しみを分け与えようとの意図だろうが、裏庭は全く違う事情がある。自分だけの景色を楽しむ為に、様々に草花を植え、季節の移り変わりを味わう。誰かが作ったものではなく、自分なりの構成を工夫できるのだから、それを楽しみとする人にとって、時間や手間をかけることは、余り負担と感じられないのだろう。だが、植物園とは違い、庭では、思い通りに植物が育つとは限らない。雑草ばかりが蔓延り、肝心のものは期待通りに育たない。そんな経験を持つ人は多いと思うが、その解決法に関して、知識を持つ人は少ない。土壌の問題は、様々に改良することで、偶々解決することもあるが、偶然は、思い通りにはいかないものだ。時に、土の入れ替えをする人が居るが、細々とした工夫より、確実な方法なのだろう。しかし、小さな楽しみ程度では、そこまでする気が起こらないのではないか。除草剤を使ってしまい、肝心の草花まで枯らしてしまった経験や、やせた土地を肥やす為に、様々な土壌改良を試みた人も、答えに行き着けるかは、運にも似た状況にある。雑草たちは、これほど簡単に育つのに、と思う人は居るが、それらの植物も、実は、生えることのできる条件が揃ったことで、そこに育っているのだ。多種多様な雑草の植生の中で、生き残ったものを見たとしても、それが蔓延ったという印象だけが残るから、そんな思いを抱くのだろう。それにしても、次々と枯れる植物に、首を傾げるだけでは、いけないようだ。

* * * * * * * *

5月20日(火)−言葉の綾

 真意が伝わらず、悩みに沈んだ経験を持つ人が多い。不用意な一言で誤解を招き、失われた関係の修復に、思わぬ時間がかかったという人にとって、言葉は恐ろしいものと映る。その一方で、言葉を便利な道具として使い、巧みに操ることで、思い通りに事を運ぶ人が居る。同じように口から出るのに、この違いは何処から来るのか。
 言葉の力を信じる人々にとって、何か絶対的なものがあると思うのは、当然のことかも知れない。だが、もしそうだとしたら、発する人間により、結果が違ってくることは説明できない。言葉巧みに人の心を操る、と言われる人の多くは、単に言葉の使い方だけではなく、相手の心の動きに合わせた、微妙な調整を施すと言われる。言葉の選び方だけなら、誰もが真似できるように思えるが、そう簡単な話ではないようだ。同じ言い回しでも、受け手によって、正反対の反応が起きるのも、そんな事情から来るのだろう。ただ、そうは言っても、真意を汲み取る力は、養っておかねばならない。その目的は単純で、ただ騙されない為に、だけなのだ。相手を操ろうとする人々の多くは、不安をかき立て、そこに断定的な表現を継ぐことで、思う方に導こうとする。不安を解消することは、一時の話であると、中々に難しいから、その後の対処に、力を注ぐべきだろう。そんな時、相手は断定により、方向を定めようとする。まさに、「筈である」とか「べきである」といった表現が並ぶのは、こんな瞬間であり、その場で、相手の意見に引き込まれず、一呼吸置くだけで、随分と様相が変わるのではないか。不安が過る中で、批判を貫くことは容易ではないが、引き込まれないように、と心がけるだけで、騙されることは少なくなる。この言い回しは、特に、弁護士と呼ばれる人々が多用することで知られる。彼らも、雇い主の利益を求めて、欺瞞を並べるのが役割だから、こんなことは朝飯前なのだろう。

* * * * * * * *

5月19日(月)−世も末

 これほど批判される言葉も珍しいと思うが、実態を前にすると、厳しい言葉もやむなし、と思えてくる。任せるとの一言は、相手の力を尊重し、それに期待する態度として評価を受けるが、それが任せっぱなしとなり、更に「丸投げ」となると、もう、評価の上でなく、何の責任も無いこととなる。無責任の権化に見られる訳だ。
 上から下りてきた命令を、そのまま下の者へ回す時に、押し付けられた仕事を、他に回すといった態度が、評価の対象となる。無理強いされたのだから、事情はある程度理解できるとする向きもあるが、現実にはどうだろうか。仕事の流れは、最近は下から上への動きに目が集まり始めたとは言え、基本的には、上から下へと動く。この基本を忘れ、全てが押しつけと受け取ることは、社会に蔓延する被害者意識の現れと思えるが、それを適切に処理しない言い訳に使うのは、身勝手なだけでなく、能力低下の現れと見ることもできる。こんな状況が更に極まると、と思えてくるのは、お仕着せではなく、自ら欲するという形での提案によるものにまで、「丸投げ」が横行していることだろう。案は出すけれど、自分では何もできない、という人が増えた結果かも知れないが、できないことを提案する態度には、何か別の要因があるように見える。それぞれに事情があるとの話も、如何にもといった内容が多いが、自分でできないことをやると主張すること自体、人間としての存在を否定することにならないのか。品格がこれほどに取沙汰される時代も無かったのだろうが、それはそれを備えるべき人々の、下劣な実情から来るものだが、範となるべき人々のお寒い状況は、社会全体に病いを拡げるのだろう。指導者たる人だけでなく、人を教え育む存在に、無責任な「丸投げ」が蔓延するのは、末世の現れと見るべきか。

(since 2002/4/3)