衣替えの季節である。だが、それよりずっと前から、既に夏の装いを見かけることが多くなった。温暖化の影響とも言われるが、平均気温の上昇だけで、こんなに季節が変わってしまうのか、と思う人も居るのではないか。体感だけを頼りにすれば、春先から半袖もありうるようなことも起きる。先取りではないのだろうが。
比較的自由度の高い洋服と違い、今では殆ど見かけなくなった和服の場合、重ね着が当たり前だけに、気温の変化にはより大きく影響される。一重とか袷とか、そんな言葉が聞かれるのも、以前ならばこの季節だったのだろうが、最近の傾向は、もっと自由に楽しもうとするもののようだ。伝統を重んじる人からすれば、形式を破る行為は許せぬものかも知れないが、着る人が減ってしまうと、そんな声も聞こえなくなる。絶滅という表現が、こんなものに当てはまるとは思わないが、ここまで少なくなってしまうと、伝統だけを頼りにするのも難しいのだろう。折角のおしゃれも、非常識の一言で片付けられてしまうと、次の機会を楽しもうとする気持ちも失せる。そんなことから減り続けた結果が、今の状態を表しているからこそ、伝統に縛られない着方も、徐々に許されるようになった。とは言え、何処までが許容範囲か、という問題は、簡単には解決できない。型破りも度が過ぎると、嫌みな感じだけがしてくる。自由とは、勝手気侭な訳ではなく、ある許容範囲があるとされる。だが、何処までかという問題は、答えが見つからないものだろう。思い切ることも大切だろうが、その一方で、伝統に拘るのも、自由の一つなのかも知れない。
環境整備は、様々な場所で、様々な形で行われてきた。その目標は、それによって人々が多くの利益が得られるように、といったものだった筈だが、整備が進むに連れて、何か引っかかるものが感じられ、利益とは本来どんなものだったのか、などと考えさせられる場面が多くなる。こんな筈ではなかった、ということか。
また、豊かさの話に触れることとなるが、皆が満足することの無かった時代には、それを目指して、様々な工夫が施されていた。それによって、より良い社会が築けるものと、皆が信じていたのである。だが、徐々に手に入れられるものが増え、それがあることさえ、当たり前となってくると、手に入れる為の努力は、無用のものとなる。そんな時代には、各自の努力より重要なものとして、環境を整えることに目が集まる。努力の素である、意欲ややる気でさえ、環境さえ整えられれば、芽生えてくるものと考えたのだろうか。そんな思いは、整えた筈の環境には届かず、皆が一時の楽しみに興じる。それが機会を与えることであり、それを糧にして成長するものが居る、との信念は、次々に裏切られることとなり、整えた筈の環境は、まるで劇場の舞台が如く、作り物の世界を見せるものに成り下がる。あれだけの資金とあれだけの労力を注ぎ込んだものが、単に虚構の世界を築いただけと判った時、重要な何かを見誤ったことに気付くのだが、それが何だったのかは明らかにできない。では、次に何をすべきか。それが見つからないからこそ、同じ事を繰り返しているのだろうか。
論理の重要性について、もう少し書いておきたいと思う。冷静な論理は、一部の人々から毛嫌いされるようだが、相互理解を目指す時、感情だけに訴える手法は、所謂好き嫌いに基づく判断に陥り、差別的な考え方に陥り易いことに、気付くべきだと思う。彼らにとって、説明は面倒なもので、好ましく思われることが、最優先となる。
この手の人々の扱い難さは、賛否の表明の際にも、明らかとなる。誰かの意見に与するかどうかは、その人物が、自分にとって好ましく映るかどうかで決まり、意見の内容には左右されないからだ。これは、自分の意見に関しても当てはまり、内容の吟味より、自分が他人にどう映るかを優先する。となれば、論理が成立するかどうかは、彼らにとっては、何の意味も持たず、好ましい印象を植え付けるかだけが、問題となる。何を考えるのか、と思う人に関しても、好き嫌いだけを感じれば良い、という考え方は、簡単に思えるのではないか。易きに流れる風潮は、こういう人々にとって、追い風のように働き、物事を説明するのに必要となる、論理性の確立に精を出すべき時期にも、好ましく思われる為の努力に力を入れる。既に、こんなことが繰り返されてきた為に、今や、そちらの方が主流となりつつあるようだが、少数派たる人間たちが、努力を積み重ねつつ、それぞれの組織を支えてきたことに、こんな人々が気づく筈も無い。意欲も無く、本質も見抜けぬ人々に、今更期待をすることも無いが、次の世代を支える人々には、期待だけでなく、伝えるべきことがある。論理の展開が、互いの理解を進め、更に上を目指すことができることを、少数派の先達たちは、伝える義務を負っている。
平和な時代だからこそ、なのか、それとも、別の要因があるのか、真相を見出すことは、難しいのかも知れない。それにしても、信念を持つことが、これほどに注目されるのは、何故なのだろう。教育現場では、とんでもない考えは排除され、論理を重視する姿勢が貫かれていると思うが、この実情からは、疑いが浮かんでくる。
戦いに向かう時、そこに論理は入れられず、何かを信じることを強いられると言われる。冷静な論理より、興奮した信念にこそ、人は魅入られるもののようだ。となれば、平和な時代には、冷静な論理が勢いを増す筈ではないか。確かに、成長を続け、将来が保証されていた、平和な時代には、論理を通す説明が好まれ、それを受け入れることが当然とされた。しかし、将来への保証が消し飛び、不安が殊更に取り上げられるようになると、論理は破綻するものと決めつけられ、それより、何かに縋るが如く、信念を持つ人に寄り添うことが、重要と見なされるようになる。新興宗教が、一部の人々に受け入れられるのも、そんな不安定な時代だからこそであり、冷ややかな眼差しを向ける人間には、奇異にしか映らない事物も、大真面目に受け入れられる。宗教とまではいかずとも、信念への憧れを示す人々には、そんな危うさを見る思いがするが、世相としては、そちらに舵を切っているように感じられるのは、将来への不安が先に立つからだろうか。こんな時代だからこそ、教育現場で論理を教えることは、更に重要となるのではないか。強制はできないものの、他人との関わりにおいて、互いに理解を深める為には、似た論理を共有する必要がある。社会を構成する為にも、論理は重要な役割を果たすから、今のように蔑ろにすることは、分裂を招くことになりかねない。ごく普通のことが、通用しない時代にあって、論理が全てと言われる科学の世界にまで、社会の歪みが広がることに、もっと危機感を抱いた方が良いのではないか。
新たな方策が講じられるとき、多くの人々の関与が前提となることがある。一部の関与では不十分で、より多くの人々が関わることで、全体の活性を上げようとする意図が働く為だが、前提に含まれた人の多くは、自らの関与に興味を抱いておらず、いざという場面で、腰が引けていることが多い。思惑通りの展開は、起きないようだ。
全員参加の前提は、何事にも重要な要因となる筈だが、こんな状況が続くのを眺めると、根本的な問題があるように思えてくる。一つ、大切なことがあるとすれば、多くの人々の心に巣食う、現状維持を良しとする考えが、それに当てはまるのではないか。今の問題を解決する為の方策が、提示される中で、現状を保ちたいとする人々の心情は、改革を目論む人には理解できない。だが、現場で活躍する人々にとっては、全体の均衡より、目の前の問題に気を取られ、狭い範囲での安定を目指す気持ちから、現状を大きく変えることに、躊躇してしまうようだ。一見当然とも言える論理だが、これを許すこととすると、変革は一切不要となり、衰退期に入った時には、回復の機会を失うこととなる。更にこの問題を大きくするのは、現状維持を目指す人々の、守備的な対応にあると言える。守りに入れば、外からの提案を拒否することも難しくなく、維持のみを心がければ、胡座をかくことも簡単となる。一方、変革を迫る側は、攻め続けることを余儀なくされ、矢を繰り出し続けねばならないが、その意義が理解されぬ中では、困難を極めることとなる。策が功を奏するか否かは、結局、参加者たちの心の持ち様にあり、始めから決まっているとも言える。障害物を押し退けるが如く、人々の考え方を変えることから、始める必要があると言われるのは、こんな事情から来るのだろう。
環境を整える動きに、冷や水を掛けたい訳ではないが、懲りもせず、こんなやり方を続けることには、辛辣な批判が必要なのではないか。やる気が起きない人々を、立ち上がらせる為には、その気を起こさせる環境整備が必要、という考えが世の中で目立ち始めてから、既にかなりの時間が経過している。その割に、効果の程は。
成長を続けていた時代には、どん底の状況から抜け出す為に、人それぞれに努力を惜しまなかった。そんな時、やる気の有る無しに関して、人は気にすることも無く、ついていけない人は、そのまま忘れ去られる存在となった。それでも、成長が止まることは無く、成功を夢見る人々の目は、輝いていた。ところが、成長が鈍り、頂点を極めたと思われた後、下り坂に入り始めると、人々の考え方が大きく変わった。成長が見込めず、その勢いに乗った成功も、幻で終わることが明らかになると、意欲の減退が目立つようになる。やる気のみで動いていた人々にとって、この環境変化は大きな影を落とし、将来への期待は、見込めぬものとなった。その一方で、一度手に入れた豊かさを、失いたくないと思う人々の思惑は、後を追う気の無い人々を、その気にさせる為の手練手管を、編み出そうと躍起になっていった。結果は、既に明らかになっているように、環境整備が、思惑程に効果を上げられず、次々に放たれた矢は、すぐに勢いを失い、地に堕ちることとなった。それでも、希望が捨てられない人々にとって、他の手立ては思い浮かばず、手を替え品を替えが、相も変わらず続けられている。女性の社会進出は、まさにその期待の一つなのだろうが、そうする必要性を説明されたことは無い。やる気のある人間に機会を与えることは必要だが、その気の無い人にまで、対象を拡げる意味については、誰も触れようともしない。本質を考えない風潮は、こんな所にも現れている。
暖かさを歓迎する声は、余り聞かれなくなった。寒い日が遠ざかり、徐々に気温が上がっている為だが、この時期、急激な変化に、体調を崩すことが多くなる。もう大丈夫と、暖房機や冬服をしまった人も多いだろうが、地方によっては、まだ油断大敵と、出したままにする。余裕さえあれば、何にでも備えたい所か。
気温の変化は、季節の変化に従って、というつもりで眺めているが、中々その通りには進まない。夏かと思う程の高温があったかと思えば、冷たい雨に悩まされることもある。油断すると、体調を崩してしまい、更には、意外な高温が回復の妨げになる。室内の調整はできても、出かけてしまうと簡単ではない。万人に適合する温度がある訳ではなく、男女差や年齢差が歴然とあるだけに、調整も極端には行えない。となれば、自衛手段として、重ね着での調整となるが、これが意外に難しいことに、気付かされるのが、この季節の特徴ではないか。厚着への重ね着は、服さえ持ち歩けば可能だが、薄着となると、それ程簡単ではない。下着のようなものを重ね着するのが幾ら流行っていても、本当の下着を見せる訳にもいかず、冷や汗を含めて、汗をかくことになる。過ごし易い環境は、様々に整えられてきたものの、全てに適応することは難しい。結局は、体の調整に頼るしか無くなるが、これが体調不良への道となることもある。最近の傾向で、どうも調整力の低下が指摘されるが、快適さがそれの原因だったとしたら、さて、どうしたらいいのやら。