パンチの独り言

(2014年6月2日〜6月8日)
(卑賤、知りたい、大人気、無駄、3K、視線、崩壊)



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6月8日(日)−崩壊

 雨の季節、暑さが増してきたと思っていたら、いつの間にか。暑さに慣れぬ中では、ほっと一息とも言えるが、相変わらず、自然は丁度良い頃合いを持たない。梅雨冷えと呼ばれる程、一気に気温も下がり、単に、湿度の高さだけでなく、寒さに悩まされる。こんなことばかり書いては、沈んだ気持ちが、更に滅入ってくる。
 恵みの雨と言われるけれど、度が過ぎると、災害へと繋がる。特に、土の少ない都会では、雨は地面に吸い込まれることなく、表面を流れることになる。普段は、チョロチョロとしか流れない小川が、濁流へと変貌するのも、そんな環境から来るものだろう。それに加えて、蛇行する川を、治水工事によって、真っ直ぐに流れるようにしたことで、流れが早まることもある。蛇行による洪水も、大きな被害を産んできたが、直行も、別の災害を招く。自然を組み伏せようとしてきた努力は、時に、功を奏することも多かったが、逆効果となることも。自然任せで、災害も罰のように受け止めていた時代とは違い、何でも、制御可能であると信じる人々は、こんな時代でも、被害が出る度に、次への備えを唱え続ける。偶に起きる大災害では、想定を超える降雨量や、幾つかの事象が重なった為に、被害が拡大することとなるが、それを防ぐ為の手立てには、ある意味の無駄がつきものとなる。それに対して、頻繁に起きる被害では、ある程度の手立てを講じることが、必要となるのだろう。被害が伝えられる度に浮かぶのは、何故、こんな場所に人が住むのか、という疑問である。崖の下、急傾斜地、様々に危険を孕む環境に、別の事情が入り込むことで、住む人々が居る。危険を承知、とは言わないだろうが、でも、何故なのか。論じても、大した反響は起きそうにも無い。

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6月7日(土)−視線

 知らないことを恥と思うかどうかは、人によることではないか。恥と思わないから駄目な人と決めつける声もあるが、本当に駄目かどうかは、もっと後になって判ることだ。それをその場で決めつけて、二進も三進もいかぬ状況に追い込むのは、他人を見る目としては厳しいものに思う。優しさが肝心とは思わないのだが。
 ごく当たり前のことでも、知らないことが多いのは、本当だろう。だが、その多くは心の中にしまわれていて、他人に気付かれることは無い。だから、恥と思うかどうかは、余り重要とはならないのだ。自分の中にしまい込んで、それをどう克服するかは、他人に知られること無く、日々の隠れた努力でどうにかなると信じる。信じていさえすれば、ある日突然、知らなかったことが、何となく判るようになる。誰にも知られず、目が向けられないままに、成長を繰り返す。こんな当たり前なことが、この頃は難しくなっている。他人に見られることばかりを気にして、色々と見せつけるような努力を繰り返す。それに目が集まれば、周囲の人間も、人の目を気にして、そんな行動に走り始める。自らの努力が、他人に評価されるかどうかで、測られるものと信じるのは、本人の自由には違いないが、それが実るかどうかは、他人の声が聞こえるかどうかではなく、自分自身が努力の成果を、実感してこそ、ではないか。何を手に入れられるか、という肝心の課題を棚上げにして、人の目ばかりを気にする態度には、どうしたものかと思えてくる。

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6月6日(金)−3K

 人手不足の声が、一部の業界で大きくなっている。頭文字で呼ばれた、重労働が障壁となり、更には、徒弟制度に似た上下関係に、若者たちの興味が薄れた、と言われて久しい。ここでも、豊かさが歪んだ形で影響を及ぼし、選択の自由は、仕事の中身より、上辺ばかりに目を向ける。楽で儲かる仕事が、人気を博す訳だ。
 身近な若者たちへの期待は、既に幻と化したのだろうか。外国人の雇用しか、可能性は無いとばかりに、その為の制度改革が喫緊の課題として、取り上げられている。無い袖は振れない、という事情もあり、可能性を模索する中で、近代的な技術を学ぶ為にやってきた人々に、就労機会を与えようとする制度は、期間を限定することで、国内の雇用を侵さないようにされてきた。だが、袖が無いままでは、国内事情に目を向けることは無駄であり、在る所から調達するのが当然、との解釈がなされ始めると、反対の声は殆ど上がらなくなる。やりたい人が居なければ、その機会を設けても無意味、ということなのだろうが、制度を緩和することが、どんな状況を招くのかは、実際には余り考えられていない。今必要なのだから、すぐに対応すべし、との考えばかりに取り憑かれ、後先考えない企てには、これまで何度も悩まされてきたが、学ぶことの無い人々は、またぞろ同じ事を繰り返そうとしている。この業界だけでなく、今の社会では、どれだけ楽な仕事か、ということばかりに注目が集まり、たとえ、高収入でも、職場環境が悪ければ、選ばれることが少なくなる。そんな中でも、それぞれに必要性が高いからこそ、新たな雇用を産み出す訳だが、それが非効率や過剰労働といった問題から、嫌われてしまう状況では、全体の体制が崩れることになる。全体を見る目を持たない人が、発言権を得る環境が、こんな状況に繋がったのだろうが、そろそろ、俯瞰的な分析が必要ではないか。

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6月5日(木)−無駄

 大発見が一面を飾るのは、当然のことだろうが、それが嘘だったという話までが、皆の注目を浴びるというのは、当然とは言えないと思う。こんな展開が、ほぼ半年の間続いたのは、関係者の当初の戦略が、誤っていた為だが、それだけとは言えない事情もある。何にでも首を突っ込む、あの手の人々の存在が、後押ししたからだ。
 発表前夜がどれ程の騒ぎになっていたかは、外部の人間にとって、知る術も無いことだが、部屋の壁が塗り直されたとか、台本を手に稽古していたとか、そんな話が伝わる所を見ると、一種の狂騒が起きていたことは確かなようだ。それ自体が、狂った展開の序章に過ぎなかったことは、半年の経過を眺めれば、誰もが知る所となるが、それにしても、何故という疑問は残る。人の注目を浴びたいとの欲求は、多くの人の心に巣食う。それが一筋誤れば、嘘や欺瞞に満ちた言動へと進むが、尋常な心理では、何かしらの歯止めがかかると思える。にも拘らず、現実は芝居や小説を遥かに超える、想定外の展開を見せる。時間がかかったことに対して、不満の声があるものの、それ自体には無理や無駄は避けられぬものだろう。だが、それに乗じて、更なる検証を求める声には、厳しい批判を浴びせるべきではないか。再発を防ぐ為、との理由は、妥当に思えるようだが、それなら、とうの昔に、そんなことは起きなくなっている筈ではないか。何度も同じ事が繰り返されるのは、欲望に駆られた人々が、盲目的に行動する為であり、検証は役立たずとなる。冷静な論理も、熱烈な欲望の前では、無力に終わるのも、そんな事情から来る。未だに防止策を、と叫び続ける人が居たとしても、手柄が欲しい人々を、止める手立ては無い。各人が、自分なりの倫理観を持ち、欲望を抑え込むことこそが、唯一の手立てとなる。これは、外的な作用では、実現できないものなのだ。

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6月4日(水)−大人気

 大人気無いとでも言うべきか、子供相手に勝手気侭に振る舞う大人が、巷に溢れている。年長者たる言動を、様々に期待されているのに、全てを裏切るような振る舞いに、目を背けたくなる。欲望に走るのは、心が幼いからと、教えられてきた筈が、後先考えずに突っ走る。幼さと共に、ここで問題となるのは、自信の無さだろうか。
 大人になっても、こんな場面に出会すのは、年寄りの自慢話だろうか。同じ話を繰り返し、大したことも無いのに、手柄話のように色をつける。何度も聞かされると、辟易としてしまうのは事実だが、この時も、聞く側の態度に、大人かどうかが現れる。子供なら、まただ、と切り捨ててしまうのだろうが、大人は、相手のことも考えねばならない。頷くだけでなく、合いの手を入れることも忘れず、少しでも話題を変えようと、工夫を施してみる。以前と違った展開になれば、少しは気が休まるというものだろう。こんなこともできず、つまらぬ顔をして、年寄りに嫌な思いをさせるのは、逆に言えば、大人気無いことになるのではないか。これを、子供相手の場でもしてしまうのは、最近の傾向かも知れない。子供たちの希望を引き出し、その中から、活動の場に繋がるものを見出すのは、大人の関与があることで、成立する場合が多い。そんな思惑を抱いて、様々に策が練られているが、どうも、肝心の大人たちに、それをこなす能力が不足している現状があるようだ。子供たちの提案を、頭ごなしに否定したり、真剣に聞くこと無しに、褒めちぎる行動には、大人の態度に欠けるものがある。一方で、子供と一緒になり、自分の話を聞いてもらおうと、躍起になるのも、気になるものだろう。当人は、大人の自覚を持っているのだろうが、それを表現する手立てを持たないことに、大きな問題がある。大の大人に接した経験の無さが、こんな人間を育ててしまったのかも知れない。

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6月3日(火)−知りたい

 知らないものに接した時、どんな反応を示すのだろう。知らないけどいいや、と思うくらいならまだましで、知らないからいいや、というのが、最近の傾向のようだ。何かを学ぶ中で、この姿勢は何処から来るのか、と思うのは、既に古ぼけた人間のようで、新人類たちは、皆で知らねば怖くない、とでも言うように、平気の平左なのだ。
 社会情勢がそうなってしまったのだから、と言われるように、周囲や環境の問題ばかりが取り上げられ、個人の意欲は取り上げられる余地がない。全体の質の向上を目指した結果、多くの人々が上を目指すようになったが、ただ流れに身を任す姿勢では、平均の域を脱することはできない。特に、様々なことに頭打ちが目立ち始めた時代には、それを打ち破る力が、内から出てこなければ、皆と同じ水準どまりの状況は、変えられない筈なのだ。そんな時、知らないものへの接し方が、実は、その人それぞれの可能性の大きさを表すことになる。知らないから判らない、という、如何にも明白なことを呟くのも、自らの限界を、自分で築いているのと同じなのに、それに気付く気配さえ無い。そんな人々が、世の中に溢れ、大多数を構成する時に、社会の発展は望めないと思うのも、ごく当然のことに見えるが、実際には、どんな時代にも、発展を支えてきたのは、ごく少数に過ぎず、彼らを選抜する仕組みを、どう働かせるかが実は肝心なことに、皆が気付いていないことこそ、大問題なのだろう。全体を向上させる手法が、こんな形で限界を迎えたからこそ、次の手立てを講じる必要がある。その為には、特別扱いを躊躇わずに行うことが、第一となるのではないか。選抜を繰り返さねば、真に有用な人材は、掘り起こせない。

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6月2日(月)−卑賤

 大人の対応が、様々な所で求められている。特に注目されるのは、力を誇示する人々の態度であり、時に、実力の無い個人が、権威を笠に着て、勝手な言動を続けるものだろう。心の卑しさや貧しさを、誰に伝えたいものかと思うが、当人たちは、力に酔い痴れるだけで、自らの行動を省みることさえ無い。
 こんな連中を目の前にした時、人々の反応は様々となる。だが、そこでの大人の対応も、本来は重要なものなのではないか。多くは、厳しい言葉を投げかけると思うのだろうが、本当に、力を持たない人を前にした場合には、無視することが第一だろう。所詮、手に入れた地位に頼る、一時的な権威主義だけに、それを失った時には、悲惨な結末だけが待っている。それを恐れるからこそ、力を誇示しようとするのではないか。そんな人と付き合っても、利益は全く無いし、彼らへの助言は、恨みを買うだけになる。さっさと力を失ってくれれば、心配する必要も無いが、地位を利用した暴挙に見舞われる場合がある。その意味では、無視するのが結局適当で、触らぬ何とかとなる。所詮、どんな地位にあるにしても、順番が回ってきただけのことで、それを守る為に過激な言葉を使う人々に、実力が伴うことは無い。隣国の軍人の言葉に、過剰な反応が見られるが、そんなものは何の価値も持たない。暫くすれば、皆忘れてしまい、あの海域での暴挙のみが、繰り返し報じられるだけのことだ。ああいう行為から何かを学べとは言わないが、被害妄想にも似た言動や、過剰反応を繰り返す人々は、あんな風に見られることに気付く、良い機会なのではないかと思う。

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