個人主義の台頭、この言葉が何度使われようとも、この国の奥底に染み込んだある考えが、消し去られることは無い。ご都合主義とも思えるような、勝手気侭な大人たちの言動に、次代を担う人々は、諦めの境地に陥っているのではないか。異常とも思える過大評価の直後、不正を暴く指摘が寄せられ、毀誉褒貶の嵐となった。
評価が集まる最中では、まさに個人主義の権化とも思える、異常な評価が、異常な形で声高に伝えられていた。だが、研究の成果を論じる際に、個人の能力を評価の対象とするのは、ごく当然のことであり、そこで、個人主義を改めて取り上げることは、実は馬鹿げたことであり、その手の人々の無知をさらしたに過ぎない。だが、騒ぎがこれで終わることは無く、不正の疑いが強まるに連れ、反動が大きくなり続けた。この馬鹿騒ぎの中で、個人の評価に精を上げていた人の中に、もう一つの下らない考えが過ったらしい。こんな不祥事を起こしたのは、個人ではなく、組織の問題であるとするものだ。個人を保護しようとする考えには、こういったご都合主義が蔓延る。成果の評価では、個人を徹底的に持ち上げ、問題が生じると、組織に厳しい目を向ける。こんなことの繰り返しが、不正を働く個人を野放しにする。確かに、組織に何の落ち度も無かったかと言えば、馬鹿騒ぎの端緒を作った広報活動に、手柄を焦ったことによる、明らかな事実の歪曲があった。この責任を、組織が取りたければそうすれば良いのだが、世論は、そんな方には目を向けない。組織に責任があるのなら、その長の首を取れという話は、直後から燻っていたが、次は、組織そのものを標的とし始めた。全体を対象とするのは、話が大きくなりすぎるとばかり、尻尾切りに目を向けるなぞ、知性の欠片も感じられない。組織論にしがみつく人々にとって、個人の評価のぶれは、無視できるものらしい。所詮、身勝手な考えを押し付けるだけの人々、こちらが無視すべきなのだろう。
長雨のあと、日が射してくると、植物の芽が顔を出す。スギナやノウゼンカズラなど、この所、せっせと抜いてきた雑草たちは、この時ばかりと勢いを増す。地下茎など、根が居座る形の植物は、少しくらい抜いたとしても、駆除できる訳ではない。そういえば、この手の植物を駆除する薬物が売られていたから、困っている人も多いのだろう。
恵みの雨という感のあった雨も、暫く降り続くと、鬱陶しいものとなる。洗濯物が乾かず、室内干しでは匂いが籠る。そんな沈んだ気持ちも、からりと晴れた空を眺めると、一気に浮かんでくるような感じだ。しかし、庭の植物たちは、全く違った様相を呈している。確かに、日光の有る無しは、成長に大きく影響を与えるのだろうが、それより、水分の関与の方が大きく見える。この時期、一杯の恵みを受けた土に、緑が目立ち始めるのは、地下で待ち構えていたものたちが、急に活動を始めるからだろう。そんなものは常に歓迎される訳ではなく、またせっせと引き抜く作業に勤しむ人が庭に出る。きりのない遣り取りに見えるが、それにしても、根こそぎの駆除は難しい。目についたものを摘み出し、少しでも減らそうと努力する。光合成が成長の糧だとすれば、緑の部分を除くことで、地下茎への蓄積も、少しは減らせるのだろう。確かに、手間のかかる作業であり、強い日光の下では、厳しい作業とも言えるだろうが、少しずつの積み重ねで、何とか減らす努力をするしか無い。庭の管理の難しさは、こんな所にも現れているのだろう。中休みの中で、こちらも日の光を浴びながら、動き回ることになる。
責任とか、原因とか、そんな言葉が飛び交う場面が多い。不祥事が起きる度に、誰が悪くて、何がいけなかったのか、そんなことを追求する声が上がるが、同じようなことが繰り返されるのを見ると、あれほどの労力を費やしたのに、と悔やむ声が漏れる。だが実際には、原因が明らかでも、防ぐ手立ての無いことも多い。
こんなことを書いてしまうと、解決への道を閉ざすものと受け取られ、排除の対象とされてしまうだろう。だが、ある程度の経験を積むと、そんな気配を感じることが多く、無駄なことの繰り返しに、溜め息しか出ないことも多い。責任追及、原因解明、といった言葉は、如何にも正しい道を示すかの如く、掲げられることが多いが、反省した筈の組織が、同じ事を繰り返すのを眺めると、顕在化が、必ずしも功を奏さないことが、見えてくる。これもまた、折角の活動に水を差すと受け取られかねないが、結果として無駄なことは、やはり無駄なのだ。悪い方に向かっていることを察していながら、未然に防ぐことのできなかった人々は、厳しく責任を追及される。だが、渦中の人々が、どんな行動をとったかを検証すれば、彼らの判断が、全て間違いだったと断定することは難しくなる。にも拘らず、悪者を見出そうとする動きに負け、それを断定することで、解決を図ることは、結果的には、無駄を増やすだけとなり、核心から目を逸らすだけとなる。その程度のことなら、いっそのこと、何もせず、教訓として、その記憶を残すだけにしても、同じ事ではないか。手数を尽くすことで、如何にも責任を果たしたとする考えも、その後の不完全な対応を招くだけに見える。そんな時間があるなら、さっさとやり直せば良い。それができない理由がそこに在り、それを隠蔽する為の儀式なら、成る程と思えることかも知れない。
学問の府と呼ばれた存在は、その姿を大きく変貌させたのだろうか。就職予備校とまで言われるようになったのは、少し前のことだが、その言葉が使われるようになった、原因は何だったのか。予備校は、そこに進学する為に通う場であり、その目的は、学ぶことではなく、入る為に覚えることとなっていた。
この見方は、社会情勢からすれば、正しいように見える。あらゆる場所に、客と店といった見方が適用され、店側の責務は、客の要求に応えることと見なされる。予備校は、その意味では、まさにその通りの役割を果たしており、多くの若者は、自分たちの目標達成の思いに、応えてくれるものとの期待を抱いて、短い期間通う。だが、そこでの成果が上がり、いざ進学した先が、実は、次の目標への一段に過ぎず、再び、自らの要求が満たされるものと見るようになると、学問の府の本来の役割は、何処かに投げ捨てられてしまったかのように映る。ここでの最重要課題は、学生という客の要求に応えることであり、彼らの目的は、就職の二文字だけとなるという訳だ。全てがそうなった訳ではないが、こんな言い回しが使われること自体、それが多数派を構成する証左であり、客の要求は更に増えているように見える。教えて貰うという欲求もさることながら、役立つことばかりを求める風潮には、学問というものへの誤解というより、そんなものを気にもかけていないことが見えている。こんな所に、客の権利などというものは無く、本来の「学びたい」という欲求が、前面に出てこそ、その存在の意義が出てくる。にも拘らず、現状は、単位という通貨にも似た存在を、如何に手に入れるかということだけに、目が向く人々が溢れ、それに必要なことだけをこなそうとする。社会だけの問題ではなく、要請に基づく動きにも、大きな問題があったのだろう。今更、先祖返りは期待できないだろうが。
根回しが嫌われる理由は、何だろうか。表に出ない中で、暗躍する力が発揮され、何処か勝手に決められた感覚が残る。そんな印象を抱いた人が、多かった時代もあったが、その批判から、根回しを排除する動きが強まり、議論が正常化すると思われた。だが、現実には、別の極端な行動が、目立つことになっただけではないか。
爆弾発言には、予期せぬ内容に、驚かされたという気持ちが込められている。根回しにより、関係者のみが知る所となった内容に、蚊帳の外に置かれた人間は、強い疎外感を抱いてきたが、それが、突然の発言によって、払拭された訳ではない。誰もが知らぬ中で、議論があらぬ方に向かうことが、度々起きるようになると、予備知識も無く、準備もせずに、議論を始めることの難しさが、表面化するようになる。少し考えれば、簡単に気付ける筈の展開に、疎外感を排除しようとする欲求が、強まり過ぎた為に、気付くことさえなかったようだが、手遅れの感はあるものの、そろそろ、新たな対策を講じた方が良いのではないか。おそらく、それまで、発言権を得られなかった人々が、勝手気侭な議論の成り行きにより、その機会を得ることができたことが、唯一の利点だったのだろう。だが、発言すべき内容を持たずに、口を滑らせてしまうことは、まともな論理を期待できない状況を招く。これが更なる混迷を呼び、議論は堂々巡りを続けてしまう。議論の場も、こんな問題を抱えているが、一方で、日常の遣り取りにも、根回しの排除が、問題を招き入れているのではないか。事前の打ち合わせは、事を円滑に進める為に、重要な手順の一つとされてきたが、それを省くことが効率化とばかり、出鱈目な言動が横行している。人間関係において、最も重要となるのは信頼であり、それなくしては、物事が進まないことが多い。それを知らぬ人々は、勝手な思いつきを押し付け、無理を通そうとする。ここでも、意思疎通が芳しくないが、その原因は、肝心な手順の省略にありそうだ。
課題解決型ではなく、課題発掘型を、という声が聞こえ始めてから、随分時間が経過したが、状況に変化は現れているのか。教育現場では、その為の方策が様々に講じられ、効果の程が売り込まれている。一見、対策が功を奏しているように見えるが、そこから出てくる人々の、その後の状況は、余り伝えられていない。
与えられたものは、それなりに、巧く片付けられる。そんな人材が、社会から歓迎されたのは、成長が続く時代だったろうか。傾向に対する研究が進み、それへの対策が十分に講じられる中で、如何に巧みに実行するかが、才能の程度を測る指標となり、それに従って、人材登用を繰り返してきた。だが、混迷の時代と言われる中で、傾向は失われ、対策を講じるべき対象が、姿を消してしまった。そうなると、何をすべきかさえ、自分の考えに基づいて、掘り起こす必要が出てきて、その能力の有無が、人材としての不可欠な資質と見なされるようになる。だが、傾向と対策の、線に沿った形で育まれた人々に、その才能を期待することは難しい。指示を守ることを最優先とする教育法では、そこから外れた考えは、一方的に排除される。他人との違いを、突然、そんな所に求められた時、本当に資質のある人であれば、別の自分を見せることもできるが、大多数は、そんな水準に達しておらず、指示待ち姿勢を崩せないままとなった。そこから、社会からの要請として、教育現場に、発掘型人間の養成を、求める声が届いたが、肝心の育成側にさえ、そんな考えを持つ人物が少なく、結局、目先を変えただけの方策が講じられた。他人との違いを、殊更に強調する動きは、その一つだろうが、結局は、勝手気侭な行動しかできず、役立たずを量産するだけとなった。次は、との期待は、まだ叶えられていない。始めの二つを、どちらもこなす人間こそが、人材であるとの認識が、広がらない限り、実現は難しいのではないか。
株価が上がり始め、景気の回復が実感できそうな空気が流れてきた。だが、個人の範囲では、昇給もさほどでもなく、景気のいい話は、他人事のように流れている。更に、国の単位での話となると、増税が見込み通りに、冷や水とはならず、上昇の勢いが衰えなかったとは言え、肝心の税収は、十分な水準には達しそうも無い。
消費にかかる税金により、国民全体での負担を増やすことで、税収を増やすという政策は、均等負担という観点から、受け入れ易いものとなるし、先進国が挙ってこの政策を採用していることから、世論の受けも悪くはない。しかし、必要十分な額の確保となると、この程度の率の上昇では、まさに、焼け石に水といった態を脱することができない。その一方で、景気回復を更に進める為の施策として、法人にかけられる税金の率を下げようとする動きに、注目が集まっている。確かに、世界的に見れば、少しでも低い地域に本社を置こうとしたり、国の間で資金を動かすことで、少しでも税負担を軽くしようとする動きが、目立つようになってきた。多国籍企業などと呼ばれるものも、その為のものとなると、賢さも過ぎたものに見えてくる。その防止策とも呼べる、法人減税も、見方を変えると意味が違ってくるのではないか。収入にかけられる税金では、様々な経費を除いた後でのものが対象となる。現状では、依然として低いと見られている給与も、控除すべき対象であるから、これを上げることは、後に残る収入を減らすことに繋がる。本当に、税金を納めたくないと思えば、そういう工夫も有りなのではないか。これにより、給与が上がれば、法人から得られなかった税収が、そちらから所得税として入ってくる。所得増税が好まれない中で、こんなことを考えるのは、正攻法でないことは判るが、多様な考えを持たずに、唯一無二に思える答えにしがみつくのも、間違いに思う。