パンチの独り言

(2014年6月16日〜6月22日)
(限り、解放、過干渉、苦言、馘首、卑怯者、代作)



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6月22日(日)−代作

 この事件は、人物像を考える上で、面白い事例を与えてくれる。特に、心の動きが安定しない人々の、利己的な言動には、まさに人間社会の縮図を見るようで、興味深い。何処で掛け違いがあったのか、当人たちは犯人探しに躍起になっているのではないか。自分を棚に上げての行動に、何の違和感も抱かずに。
 不安定な心理を覗かせる人々の中で、冷静で理知的な存在として、遅れて会見に臨んだ人物に関して、直後の評判は高かったらしい。だが、情に流されている場面で、理路整然とした態度が、新鮮に映ったのも束の間、彼の為した役割に、分析の目が向けられると、その異常性が露呈された。審査に通るべく、後から参加した人物の役割は、中身の正当性を如何に築き上げるかにあり、研究成果の価値を審査員に理解させる為に、論理性を整えたことが功を奏した。このまま、その評判が高まるばかりなら、彼の功績も、光り輝くものとして、後世に名を残したに違いないが、地に堕ちた評判は、彼の価値をも下落させてしまう。成果が捏造によるものであり、実験結果は確かなものでないと言われる中で、論文作成前に、その真偽を確かめること無しに、筋書き通りの論理を構築したのは、やはり、捏造に加担したこととなる。如何に、理路整然としていようが、理知的であろうが、行為の正当性は一切認められない。著名人の代わりに文章を書く人々は、その名を掲げる機会を与えられないが、彼の場合、共著者として名を連ね、業績に加えられる機会を得る筈だった。だが、その役割は、まさに名を伏せた人と同じであり、著名人の話の真偽に目を向けること無く、名文を書き連ねたのと、何ら変わりのないものだろう。誇りを捨て、倫理を踏みにじった行為に対して、知性が為せるものは無い。名誉も地位も失った上に、罪の償いに残りの人生をかけても、この過ちは消し去れない。

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6月21日(土)−卑怯者

 判り難い書き方を続けるけれど、中身は核心を突くものとしたい。口先だけの行動に、重い責任を負わせるべきと書いたが、話を拡げる為の手立てでは、ある程度の誇張は許されるといった風潮があることも、こういう無責任の暴走を引き起こしているのではないか。要求が強まるばかりで、何が核心なのか、見失っている。
 口先だけと言えば、もう一人、重い責任の鎧を、さっさと脱ぎ捨て、善人ぶった振る舞いに専心する、性悪な人物が居ることを、忘れてはならない。共同研究者として、論文の著者に名を並べ、大々的な発表の直後は、自らの功績を誇らしく述べていた人物は、逆風が吹き始めた途端に、仲間を裏切るともいうべき行動を選択した。彼の問題は、今始まったことではなく、目立ちたがりとも揶揄される言動は、大学へ移る前に属した、件の組織に加わる際にも、一番を強調するなど、特異なものと映っていた。その頃から、手柄を殊更に強調するのは、一種の顕示欲の現れと受け取られていたが、移籍後の成果は前評判には遠く及ばぬものとなった。それでも、というつもりか、更なる転身を続け、大学に移ったらしいが、既に過去の栄光は錆び付いていたのではないか。ただ、最後の輝きの一つとして、あの発表に参加したのも、ある種歪んだ性格が関係したのではないか。だが、更なる異常を見せたのは、不正発覚への道を歩んだ中で、著者の責任を放棄し、撤回をいち早く提案するなど、世間の風を意識した変わり身の速さには、矜持なぞ感じられる筈も無い。著者の責任は、研究遂行から執筆時まで、全てに関わる訳で、今更、惑わされたとは、若気の至りなどと言える筈も無い。その責任を放り投げ、善人を装う姿には、卑しい根性が見え隠れする。あの人々の中で、実は、悪意を一番強く感じられるのは、この人物なのだ。もっと罵声を浴びせられるべき人間なのだろう。

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6月20日(金)−馘首

 直接的な表現は、好みではないので、相も変わらずはっきりしない話が続く。だが、ここ数日、触れてきたのは、ある研究者の問題を、ずっと大きく捉えて書いてきたものであり、そんな目的があろうとは、書いていた本人も、殆ど忘れかけていた。既に終わったことであり、もういいではないか、と思うことだが、纏めていこうと思う。
 あの問題の発端は、確かに、真実を伝えねばならないのを、偽りを鏤めた夢物語にしたことなのだろうが、それをこれほどの大きさに膨らませたのは、所謂広報活動に、問題があったからである。姿の見えない最先端の研究に、どれだけの血税が使われるかを眺めた時、無能な政治家は、二番は駄目かと叫んだが、それまでも広報の重要性が取沙汰されていたのが、一気にその役割を高めることへと繋がった。もし、彼らの勇み足が、あの女性の思いつきを端緒としていたとしたら、単なる無能ではなく、それこそ、百害の病巣と見るべきだろう。にしても、この事件の異常さの原因は、研究者の異常行動、異常心理に責任の多くはあるが、一方で、情報伝達者たちが、目を向けていないことの一つに、広報担当者が採った異常手法がある。衝撃的な研究内容に合わせた訳ではないだろうが、過剰な演出が発端となり、時の人となった女性に、羨望の目が向けられた時、彼女の心は踊っていたのだろうか。そんなことは、研究そのものとは無関係であり、広報の目的は、本来のものから大きく逸脱することとなった。当初からこの問題はもっと大きく取り上げられるべきであり、組織そのものの問題も、実は、この部署の下らない提案が、火をつけたと言えた。自画自賛に似た過大評価は、派手な演技を好む人々には、受けたのかも知れないが、中身の乏しさは、継続を妨げ、単発の花火に似た様相を呈した。となれば、一発の大きさを競えば、という考えは、無知な彼らの思いつきそうなこと。尻尾切りと言われようが、真摯な反省の態度は、彼らの退場だけで示せたと思う。

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6月19日(木)−苦言

 この独り言は、読み難いと考える人も居ると思う。直接的な表現が少なく、何を指しているのか、すぐには判らないものが多いからだろう。判る人には判る、とは言わないが、ただ鵜呑みにさせるような内容を書こうとは思わず、その人なりの解釈で構わないと考えるから、こんな半端に見える表現を多用することとなる。
 確かに、直接的な表現で、批判を繰り返せば、こちらの思いは伝わり易いのかも知れないが、ここでの意図は、こちらの思いを伝えることではなく、様々な可能性を示すことで、人それぞれが、自らの考えを拡げるきっかけを与えることだ。だから、考える気のない人に、読んで欲しいとは思わない。自分の考えも無しに、誰かの意見をそのまま鵜呑みにする人が、多数を占める時代は、悪い方向に盲進する傾向にある。それが、人から人への口伝えであっても、凄い勢いで広がることは、歴史が様々に証明しているが、情報伝達が高速化し、不特定多数への拡散さえ、不可能でない状況となると、悪化の傾向は、更に強まると言わざるを得ない。その中で、そんな愚行に与すること無く、自分なりの判断を下す能力を身につけることは、社会の暴走を食い止めるより、自らの身を守る為に、必要不可欠なこととなるだろう。だが、今の体制では、それを教える仕組みはできておらず、逆に、指示に素直に応じる人々を、歓迎する向きが多数を占めている。敵味方の考え方は、区別を明確にする為に、便利な方法であることは確かだが、どちらとも言えない話こそが、判断を必要とするものではないか。これほど明らかなことに、目を向けず、判り易いことばかりに触れようとする感覚も、こんな時代に、目立つ話に違いない。異論を排除し、仲間を囲い入れようとする。愚かな指導者の典型だが、こんな困った人々が大勢を占めるのも、この時代の特徴なのだろう。

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6月18日(水)−過干渉

 真理を探究することは、学問の世界では、当たり前の営みだが、それを職業とする人が登場するより、ずっと昔から、庶民にとっては、崇高な営みとして、理解を超えた彼方のものであった。だからという訳ではないだろうが、高みに棲む人々は、お高くとまり、他人の理解は眼中に無く、唯我独尊を地で行くようだった。
 時代は大きく変わり続け、高い壁の向こう側での営みは、あちら側の隔離された世界のものではなく、こちら側の人々の関心を集め、関わりが強まり続けている。となれば、理解を超えた代物ではなく、誰もが分かるものとして、扱うべきとなる。分かり易くする手立ては、それぞれに違うのだろうが、基本となるのは、世の為人の為であり、その道筋を示すことが、身近な存在を作るものとなった。関わりはあらゆる形が試みられ、解説や説明が施されることで、誰もが理解できるものが出来上がる。だが、最先端にあるものが、誰にも理解できること自体、矛盾に満ちた話ではないか。どれ程分かり易くしたとしても、越えられぬ壁が在り、その前で立ち尽くすしか、庶民にできることは無い。その代わりに、伝達者たちが見出した手法は、学問そのものでなく、その人となりを伝えるもので、超然とする姿より、身近に感じられるものが優先される。井戸端での話題に似た筋道は、多くの共感を産み、憧れにも似た感情が盛り上がる。そんなことに苦言を呈する人が居たとしても、空気を読めぬとか、嫉妬の現れとか、勝手な暴言を浴びせられ、冷静な世界に、場違いな熱さが持ち込まれたことが分かる。愚行は更なる愚かしさを招き、留まる所を知らぬ態だが、既に、元々の世界とは、違う所に饗宴の場を移している。崇高なる世界では、過ちを犯した人間は、自らの罪を悔い改めていくものだ。他人の関与は、干渉に過ぎず、害有って益無し、ということだろう。

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6月17日(火)−解放

 能力に差があるのか、と問われたら、一概には言えない、と答えるしかない。だが、現時点でも、同等の機会を、という話が殊更に取り上げられる所を見ると、依然として、差はあるものと見なされているようだ。更に言えば、現状は、その差を無くす為に、反動を加えることさえ行い、逆差別なる批判までが出る状況となっている。
 この状態をどう見るかは、人それぞれなのだろうが、懸念は、思わぬ所に向いている。つまり、機会を得た人の将来にこそ、不安材料があり、特別扱いが裏目に出ねば良いのだが、ということになる。四半世紀を優に超える程昔、女性の権利を主張する運動が、盛んに行われていた。闘士と呼ばれた人々は、性差から来る差別を全て排除し、能力や資質には、何の違いも無いとの主張を繰り返した。だが、生物学的な差は歴然とあり、それをも排除しようという動きは、月のものまでも消し去る処方を手に入れ、本来の薬効とは違う目的に用いた。権利を得る為に必要ならば、生物としての役目を放棄してでも、という動きには、欲望に心を奪われた人間の性が垣間見え、おかしな考えとしか映らなかったのではないか。だが、そんなことを、恰も正しい考えのように見せる、独特の論理展開が、こういう過程で多用され、それに魅せられる人が増えたことは、常識が通用しない時代には、当然の成り行きだったのかも知れない。働き盛りには、仕事に全力を集中し、邪魔者を全て排除する為に、出産子育ては、先送りするという考えも、そんな権利主張を中核とする考え方から来るものなのだろう。だが、子供が欲しいとの願いは、投げ出すつもりは無く、結局、体外受精などの技術で、凍結保存の後に、誰かの子宮を借りるという方法で、仕事に一区切りができた頃に、子供を得ようとする話が、魅力的なものと扱われている。子供との年齢差が招く問題だけが、重大なように見られるが、実は、保存の期間に、受精卵に何が起きるか、に関するデータは殆ど無い。高齢出産による問題と同じことが起きないとの保証は、誰ができると言うのだろう。自由を勝ち取る権利は、個人にあるものだが、この場合には、生まれてくる子供にもあることに、何故気付かないのか、愚かな話だ。

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6月16日(月)−限り

 人間の能力に限界はあるのか。この問題が真剣に議論されたことは無く、ただ、何の根拠も無く、その可能性が無限かのような主張が展開される。例えば、脳が果たせる機能のうち、ほんの一部しか、普段は使われていないという話は、たとえ事実だとしても、全開の状態とは何かが、示されることは全く無い。
 可能性を矮小化せよというつもりは無いが、まるで限りが無いような話が、実しやかに伝えられるのを眺めると、この手の人々の発言の真意は何か、疑問の矢はそちらに向けられる。肯定的な話であり、楽観的な展望を示すことは、成長の過程にある人々にとって、夢を膨らませるものとなるのだろうが、その夢が早晩砕かれるのが明白な場合、ただの心地好い言葉だけで、騙しているに過ぎないものではないか。運動能力を見た場合、そこに限界があることは、始めから明らかなように扱われる。だからこそ、その能力に秀でた人々が、競い合うものに対して、人々は憧れを込めた視線で、応援の声を上げるのだろう。その一方、頭脳を扱うものに対する能力に関しては、比較の指標を設定することも難しく、抽象的な比較が多用されるだけに、限界が見極められることは少なく、その結果、到達点は遥か彼方の、見えない所にあるように受け取られる。これは、遠すぎてやる気が失せる、との見解に結びつくようにも見えるが、一方で、可能性が無限であることの証左のように見せる。長い道程をどのように歩むかが、成長にとっての必要条件となるが、そこに限界が示されないことは、期待を膨らませる為の必要条件ともなる。この手の誤解は、様々な場面で出会すが、当人たちは、大真面目で信じている。これが、まさに成長に繋がるのならば、誰もが幸せとなるだろうが、現実は、逆の目を示している。人それぞれに、決まった限界があり、そこに向けての努力を惜しむべきでない、という一言を、そろそろ与えるべきではないか。

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