パンチの独り言

(2014年6月23日〜6月29日)
(人の目、初心、ご褒美、成果主義、貧困、筋道、bear)



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6月29日(日)−bear

 三十年程前、路上で燃やされた輸入車は、労働者の反発の現れとされていた。海外から押し寄せる、安価で優秀な車の洪水に、旧来の技術に甘んじていた人々は、自らの努力に目を向ける代わりに、怒りに任せた乱暴に手を染めていた。優位を失いつつある大国の、悩みを表す光景に、様々な思いが編み込まれていたのだろう。
 あの道端の光景が写されていた街は、昨年破産に陥り、凋落の後の回復は、結局夢のまま終わったようだ。その一方、燃やされていた車の生産国は、技術の発展を続ける努力はあったものの、全く別の所から生じた奢りが、天井知らずの価値判断へと繋がり、上り詰めた崖からの急降下に至り、崩壊した経済が、肝心の技術力にも影を落とし、新興国の台頭を許すこととなった。技術の差が縮まれば、経費の差に目が向くのは当然のこと、大国の仲間入りをしたことで、豊かな生活を手にした人々に、貧しい暮らしを続ける人との競争に、勝つ見込みは無かったのだろう。大国の悩みは、まさにこんな所から生じ、追随する国々を、蹴落としたいという欲望に、駆られることも多い。往時の敵は、勢いを無くし、脅威が感じられなくなると、いつの間にか友好国となり、新興勢力に対抗する為の、大切な仲間となる。だが、常に、競争相手としての敵の存在は必要で、戦争へとは至らぬ争いも、様々な形で表面化する。人間による制御が当然だった時代から、機械による制御へと変貌するに連れ、安全性は高まったのかも知れないが、見えない力で、その制御を無力化する手立てが、取沙汰される中では、安全を確実と見ることは難しくなる。仮想空間での戦いが、現実のように扱われるのも、そんな背景から来るものだろうが、あの大国で出版される小説に、そんな話題が頻繁に見られるのも、その辺りの事情からか。それにしても、大国のこんな振る舞いには、実は、気の弱い大男の姿が、重なるような気がする。

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6月28日(土)−筋道

 他人に通じる話を、書いたり話したりする時、何が肝心なのか、悩む人は少なくない。ここでの分かり難い話は、一時棚に上げることにして、通じさせる為に必要な要素について、少し考えてみたいと思う。分かり易さこそが通じる為に必要な要素、と思う人も居るが、すぐに分かる話では、考えが伝わらないことも多い。
 戯言を並べるだけなら、分かり易かろうがそうでなかろうが、殆ど関係ない。独り言を呟くだけなので、相手が必要とはならないからだろう。だが、自らの考えを整理し、それを相手に伝えねばならない状況では、伝えることが最優先となる。たとえ、深慮のあとの考えでも、それを解きほぐして、説明するしか無い。だが、難しく考えた時程、それを分からせることは難しくなる。単純な思いつきであれば、手間をかけること無く伝えられるかも知れないが、複雑なこと程、どう伝えるかが肝心となる。そんな時、一つの可能性があるとしたら、それは、話の繋がりなのだと思う。自分が、その考えに至った道筋を、順序立てて表すことで、相手もその上を進むこととなる。曲りくねった道でも、そこに絶え間ない繋がりがあれば、誰もが受け入れられるものになる。一見、簡単に感じられる手法だが、繋がりを維持することが、意外な難しさを産むことがある。論理の飛躍、と呼ばれる現象が起きるからだが、それを回避する為の手立ては、全ての人が持ち合わせている訳ではない。論理性の重要性が、様々な場面で強調されるのは、それを失った話が、巷に溢れているからで、欠如が意思の疎通を妨げていることに、気付かぬ人が余りにも多いことが、問題視されているのだ。解きほぐす為に、論理を展開することに、手間をかけることが如何に重要か、もっと深刻に受け止めた方がいい。その上で、何をすべきかを考えればいいのだ。過剰な修飾を施した話は、逆に、通じないことも含めて。

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6月27日(金)−貧困

 嘘も不正も捏造も、全てバレなければいいと思っている人が居る。たとえ違法行為を行っても、誰も見ていなければいいとか、見つからなければいいとか、そんな話はよく聞くが、では、発覚した時はどうなるか。それこそ、運が悪かったの一言で済ますのではないか。交通法規を始めとして、こんな感覚が蔓延している。
 何が正当かという点に関しては、社会を構成する人々の総意が、それにあたるべきだろうが、法治国家と呼ばれる場所では、上から降ってくるものとの感覚が強い。だから、押しつけという言い訳が横行し、違う常識を掲げる人も出る。とは言え、法律を適用されれば、犯した罪は償わねばならない。時に、運の良し悪しで片付けられない、重大な不正に手を染める人も出てくる。実社会では、個人が特定され易いから、遵法精神が保たれているとの見方も、仮想社会では、匿名性が強まるから、法律だけでなく、倫理や道徳といった感覚も、自らを律する心を持たねば、保てないようだ。それだけ未熟な人間が活躍できる場が、提供されることになるのだろうが、勝手気侭な言動では、他人の迷惑も気にならず、誹謗中傷もし放題となる。この考え方の、最大の誤りに気付かないのも、大人になれない餓鬼の特徴であり、無知を曝け出しているに過ぎない。如何なる手段を用いようと、痕跡を完全に消し去ることは不可能である。ハッカーと呼ばれる人々も、監視下での不正行為により、特定されると言われるが、多くの暴言の発信源も、そこまでせずとも発覚する。影響が大きい程、運が悪くなる可能性が高まるが、幼稚な心にそんな判断力は備わっていない。実社会での従順さが、仮想へと移った途端に、凶暴へと変わる人の心は、実在の中でも、既に蝕まれている。病んだ心の荒んだ動きには、実か仮かの違いは、存在しないのではないか。匿名の仮面を被る人間は、現実世界でも、異常行動を繰り返すようになる。

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6月26日(木)−成果主義

 一時程注目を集めていないが、依然として拘りを持つ人が多い考え方に、成果主義なるものがある。過程も、努力の度合いも、重視するべき対象ではなく、ただ単に、どんな結果が得られたかが肝心、という訳だが、ある意味当然の考え方なのではないか。どれだけの時間をかけたかを、評価して欲しいと願う人には、厳しいものだが。
 不思議なのは、人それぞれに資質とか才能と呼ばれるものに差がある筈なのに、それを横並びにして評価し、同じ尺度で測ろうとする動きが、教育現場に持ち込まれている点であり、その為には、かけた時間が手っ取り早いものとして、好んで使われるようなのだ。提出物の質を評価する気はなく、単に出したことだけを認めるやり方では、緻密な計画に基づく結果を出した人と、ただ乱暴にやっただけの人に、何の差も認められないこととなる。単純な課題であれば、少しくらい質を見極めてやってもいい筈だが、それだけの自信が無いのか、現場の人々は単純作業に精を出す。そんな環境で育った人々が、突然、成果主義に晒された時、どんな反応を見せるかは興味深い。過程が全てと思わされてきた人が、ある日、結果が求められることを知らされた時、彼らの反応は、大きく二つに分かれるようだ。突然の変更に戸惑い、すぐに対応できないものの、徐々に適応へと進む人々は、結果を追い求めることは当然として、依然として、過程の重要性を忘れること無く、地道な積み重ねを続けようとする。一方、素早く対応する人々の一部には、結果にしか目を向けず、過程を無視する傾向を見せる。貪欲に結果を求める姿勢は、成果主義において、重要な要素と見なす向きもあるが、一時的な効果しか見込めず、組織全体としての成果は、逆に抑えられることが多い。教育と労働の違いは、こんな所に現れており、結果を求める姿勢も、個人と集団の違いが、使い分けられる必要がある。馬鹿の一つ覚えのような主義主張が、こんな形で生き長らえるのは、誤解を拡げるのみに見えるのだ。

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6月25日(水)−ご褒美

 新しい発見を喜ぶ姿が、何故、不正や捏造という穢れに塗れてしまうのか。理解に苦しむ人が多いのは、当事者の心の動きが見えないからだろう。だが、無垢な心に宿っていた、発見の喜びに浸る気持ちは、何処かで打算的な見方へと動き、発見の大きさに心動かされ、その成果を糧に名声や地位を手に入れようとし始める。
 こんな書き方をすると、純粋な世界が薄汚れたものに見えてしまうが、皆がそんな打算に陥る訳ではないだろう。また、たとえ打算に走る心を持ち合わせていても、それが捏造に結びつくとは限らない。これほど確かなことも、一つの事件が報じられるだけで、全てががらりと変わり、必然の如くに扱われる。人間の心は、ある意味弱いものであり、そんな脆弱性に耐える力を、全ての人が持てる訳でもない。弱さだけに目を向ければ、そんな結論を導きたくなるものだが、現実には、別の要素の関わりに、もっと目を向けるべきではないか。発見の喜びは、小さな頃から、自分だけのものではなく、周囲との関わりにおいて、発露することが多い。大人に認められることで、喜びは倍増し、その記憶は次の喜びへと結びつく。無理に褒める必要など無く、自分が意識した気持ちを、少し後押しすれば良い。こんな経験が、徐々に積み重なり、進むべき方向を定めることは、多くの人の知る所だが、だからこそ、誰かに認められることが、喜びに結びつくのだろう。穢れは、後から見れば明白だったのだろうが、その最中には、認められたいとか、注目を浴びたいという心の動きが、その過ちに手を染めるきっかけを与えたのかも知れない。何度も繰り返されるこの手の事件において、純粋な筈の心に、徐々に広がった穢れは、周囲の期待に応えようとする気持ちの、間違った表し方にあり、重大な発見という憧れへの、無謀な接近へと繋がる。

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6月24日(火)−初心

 元凶が誰かは、敢えて書くまでもないだろう。信念を貫く姿に、健気などと惚けた感想を漏らす人々に、如何なる立場にせよ、不見識の言葉を投げたい。結果が全てであり、論理が貫かれてこそ、意味や意義を持つ研究という営みに、夢や希望を優先させる考えは、余りにも乖離した存在であり、消し去られることは当然なのだ。
 失格の烙印を、不条理とか、非情な扱いと、弱い立場に置かれた人々は、声を上げている。だが、ここでも立場の違いに関係なく、筋の通った話のみに耳を貸すべきなのだ。冷たい論理に攻められた経験のある人程、こういう時の反応は激しく、感情的な話題に目を向け、情に流され易い、自らの弱点から目を逸らす。成果が衝撃的であったからこそ、こんな展開に陥り、多くの人の時間を奪い取る、馬鹿げた事件となった。同じような嘘と呼ばれる行為も、小さなものであれば、誰も気付かず、何の影響も起きなかっただろうが、こうなると、甚大な被害は避け難いものとなる。凡人にとって、前者のような小さな嘘は、日常的なものかも知れず、それと同じ感覚で捉えれば、大したものと思えないのも、当然と思えるのだろうが、ほんの出来心も、こんな混乱を導くことになる。組織の問題と捉える動きに、注目する人々も、個人の問題に帰する動きを、止めてはならない。倫理とは、社会の通念だが、構成員の一人一人が、意識してこそのものなのだ。純粋無垢を、きれいな存在と見る向きもあるが、倫理を弁えぬ人は、汚れていないのではなく、何も教えられていない、単なる無知に過ぎないことを、もっと強調していいのではないか。始めの過剰な装飾が招いた偶像化は、個人の責任ではないが、不正や捏造は、あくまでも個人の責任に過ぎないのだから。

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6月23日(月)−人の目

 分かり難い話は、頭を悩まされるだけでなく、別の副作用もある。固有名詞を使わず、関連する単語も殆ど見当たらない内容では、最大の武器の一つである検索も、無力となる。想像力がある程度あれば、推測できる話でも、直接的な言い様にしか反応しない人には、チンプンカンプンだろうし、技術の粋の検索も、拾い出せない。
 連日の批判にも、社会からの反応は無い。意図的な検索では見出せず、偶然の訪問でもない限り、出会すことが無いからだろう。それでも、あと数回は続けておきたい。何の意識も無く、何かを信じながら、捏造を繰り返していたとしたら、希代の詐欺師にも似た感情の持ち主なのかも知れないが、だとすれば、平凡な人にその心理が理解できる筈も無い。極端な例外として処せば、それで十分と思うが、首を突っ込むことが好きな人々は、納得していないようだ。あれこれと分析を繰り返し、原因や理由を並べようとする。人並みでは理解し難い存在とした、始めの話は忘れ去られ、まるで、理解の枠内にあるかのように。同じ事が、専門家の間でも行われているから、この類いの性癖は、一部の人間だけのものではなく、現代社会の宿痾なのかも知れない。研究者の集まりである学会は、この事件の展開でも、様々な発言を繰り返していた。あるべき姿を示すことで、立場を明確に示し、件の人物を異端者と断じたのも、社会の誤解を払拭しようとする意図があったからだろう。だが、同じ組織の副会長が、同じ人物に対して、科学者として、と行動を促す発言をしたと伝えられたが、失格の烙印を捺したのではないか。排除の論理は、時に、忌み嫌われることがあるが、犯罪の分析でも、如何に異常としても、正常な範囲での理解を進める傾向があり、意図が見えなくなることがある。ここでも、排除したから無関係との扱いが、世間からは認められないとの判断から、発言されたものだろうが、見識としてはいかがなものか。批判を恐れていては、組織を束ねられないと思う。

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