パンチの独り言

(2014年6月30日〜7月6日)
(急変、鸚鵡返し、社会、災いの元、咎、棒振り、中入り)



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7月6日(日)−中入り

 末期との声が聞こえ始めた。何の権利かは、専門家の間でも明確にはならず、何か、事が起きて初めて、何をすべき権利なのかが判るのだろう。それとも、それでも何かが判らない程、骨抜きにされた措置だったことが、見えてくるのだろうか。後者だとしたら、悪足掻きにしかならない。だから、末期ということか。
 矢を放つのに似せた行為は、始めのうちは、効果的に見えた。掛け声と共に、勢いが増す感覚があったが、それも、どこかの時点で萎えてしまった。繰り出された矢は、効果が期待できるものから、何を狙ったものか、見えないものへと変わり、掛け声だけの、空虚なものに成り下がった。表向きは、財界からの協力が得られ、確かな礎を築くものに見えたものの、その後の経過からは、勢いは甦らず、口先だけの約束が、宙に浮いた形となる。どんな形にせよ、皆の期待を満たすものであれば、歓迎できたのだろうが、結果が伴わぬことには、空手形と揶揄されても、仕方がない。それもまだ、確定した訳でもないから、最後の足掻きだろうが、捨て台詞だろうが、勝手にやればいい。目先を変える企てを、様々に弄しているのも、この事態に陥る中では、大目に見てもらえるのかも知れない。今まで政権を握った人々も、多くはこんな形で舞台を降りてきた。前回のような猿芝居はあり得ず、また、何かしらの大道具が引き出されるかも知れないが、何がどうなるのか、見守るしか無いのだろう。

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7月5日(土)−棒振り

 努力が報われなかった話は、きりがない程一杯ある。だが、それを切りなく続けることは、忌み嫌われているようだ。失敗に学ぶなどと言われても、努力を積み重ねたものは、失敗とは言えないとされる。所詮、目的が果たせなかったのだから、何処かに誤りがあり、だからこそ、達成できない羽目に陥ったとすべきではないのか。
 努力の大切さを伝える為には、それが報われなかったという事例は、逆効果と見なされるようだ。夢が実現するかどうかについて、人はそれ程の拘りを見せないが、努力に関しては、強い拘りが示される。何処に違いがあるのか、定かではないものの、無駄な努力という表現は、禁忌と扱われるらしい。だが、正しい方に向かわぬものや、ただ漫然と時間を費やすものなど、周りには、無駄としか思えぬものが山ほど有り、評価の価値さえ見出せぬものまである。そんな現実から目を逸らし、努力こそが評価の基準のように扱う姿勢には、納得できない気持ちが残る。成果主義とは、見かけのものだけに走る傾向が強いだけに、こちらも受け入れ難いものだが、結果を伴わない努力に対しても、同じような感覚を抱く。無駄と切り捨てられては、本人はたまったものではないだろうが、ただ続けているだけのもので、見通しが立たないとなれば、すぐに気付くべきものではないか。勤勉さが殊更に強調されるのは、その姿勢を失った人々が世に溢れているからで、少しでも努力する態度があれば、評価すべきとする向きも、そんな背景から来るもののようだ。だが、それでは、何も達成できないばかりか、達成を第一とする人々の評価を、不当なものにしかねない。となれば、やる気さえも失わせることとなり、組織全体の士気を下げることとなる。正しい評価ができない人程、こんな基準を当てはめようとし、矛盾を強めてしまう。まあ、そんな人が居座る組織では、早晩、凋落に襲われるのだろうが。

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7月4日(金)−咎

 叱る行為が悪者にされたのは、いつの時代からだろうか。一時の怒りをぶつけるのではなく、理路整然とした話を噛んで含んで聞かせ、判らせることの大切さが認められたと言われる。確かに、論理性を重視する見方は、歓迎すべきものなのだが、何故、叱責が怒りによると断定されたかは、説明が施された訳ではない。
 叱るより怒ると表現した方がいい話し方の人は、確かに居る。だが、状況を冷静に分析し、何が悪いかを、的確に指摘しつつ、噛んで含んで叱る人が居ることも、確かではないか。にも拘らず、叱る行為を全て悪いものと片付け、それを排除することに全力を尽くす動きが起きたのは、何故なのか。叱る代わりに褒める方を、という意見が出てきたのは、おそらく、受け手の感覚を重視した為だろうが、悪いことをしたのに無視され、少し良いことをしたからと、褒められることに、変な感覚を抱いた経験を持つ人が多いのではないか。当人の感覚だけが、おかしかっただけなら、今のような状況には至らない。褒められて育った人々の、我が物顔の行為に、呆れた経験を持つ人間なら、褒美を欲しがる人間に、ろくな奴は居ないことは、明白なのだ。一方で、叱られた経験を持たぬ人の行動は、これもまた異常としか評し得ないものが多く、手遅れ感ばかりが膨らみ、諦めに似た感覚が広がる。怒りは無益なものとの扱いに、にこやかに叱る手立てに出た人も居るが、効果の程は怪しい。感情の表れは、余計な思惑を差し挟まず、真っ直ぐに目的を果たせるものだが、受け手の心に寄り添う考え方では、忌み嫌われる行為と切り捨てられる。善悪の区別を明確にする為の、一手段に過ぎなかったものが、極悪と片付けられることで、区別は不鮮明となり、私利私欲を優先する考えが、社会に蔓延することとなる。論理という見方からすれば、褒める行為にも、筋立ての無いものが多く、馬鹿げたものとしか見えない。勝手な理由をつけて、偏った考えを押し付けられた結果、こんな歪みに襲われたとしたら、それを捨てるべき時が来ているということだろう。

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7月3日(木)−災いの元

 独り言は、多くの場合、ぶつぶつと呟くだけで終わり、誰かが聞くかどうかは、関係ない。だが、この独り言と同じように、聞き手が居ようが居まいが、思ったことを書き記す場ができると、多くの人が、備忘録の一つのように扱う。書き手の多くは、意識していないだろうが、口の中のものは、いつの間にか、公のものになる。
 HPという形式が、一つの壁となっていた時代から、簡単に始められる書き込みサイトが設置され、誰もが主義主張をできるようになり、それが更に、短い呟きという形式が採り入れられると、利用者の数が爆発的に増加した。一部には、仲間内での囀り合いのように受け取られたようだが、情報交換を優先させた仕組みでは、井戸端の話が、拡声器に載せられて全世界に届くようになった。気軽な発言が、いつの間にか、軽率な発言へと変貌し、誹謗中傷の一言は、名誉毀損で訴えられるものへと変わる。適応能力の向上が、全ての人々に課せられる中、過ちを繰り返すのは、人の性とでも言うべきか。群衆の中で、隣の人に囁いたつもりの一言が、そこに居ない人の耳にまで届くのでは、意図も思惑もあったものではない。だが、この考え方が明らかな誤りであることは、現状を見渡せば簡単に理解できる。これほど明白な事実に、何故、同じ間違いを繰り返すのか。性であれば仕方ないと、言い切ることができないのは、やはりその影響が大きいからだろう。意思疎通も十分にこなせぬ若者だけでなく、いい大人までもが、この仕組みの罠に落ちるのを見ると、唯一の回避法は、手を出さぬことにしかない。注意深い発言や的確な表現法は、自衛手段の一つに数えられるが、所詮、受け手の判断は別物なのだ。危うい発言に続く、撤回、訂正、削除などの措置も、独り歩きは止められぬ。自分の人となりを知る人との会話が、如何に安全かを痛感する憂き目に、遭わない為には手を出さぬ。

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7月2日(水)−社会

 社会の責任が問われるのは、その構成員の一人一人が、果たすべき責任を放棄しているからではないか。この場合も、個々が対象とされることは無く、集団としての責任が取沙汰される。一見、個人には何の責任も無いかのように扱われるが、現実には、その責任の集積こそが、社会のものになるのだから、見過ごしてはいけない。
 一人一人の関わり合いが、寄せ集められることで、一つの社会が形成される。その規模は、事例それぞれに違ってくるが、協力体制ができることで、互いの関係が明確になる。そこで、老幼の違いがあれば、社会が教え育むことに関わる。自然に、こんな関係が発生してきた歴史があるが、徐々に、分業化が進むに従い、役割分担をはっきりさせ、関わるよりも、任せる姿勢が主体となっていた。効率化も加わり、適切な仕組みが構築されたように思えたが、実際には、各自の関わりは薄まり始め、社会を構成する個人の責任は、一見、軽くなるばかりに見えた。その一方で、社会の責任という考え方が強まることは、ある矛盾を産み出したのではないか。全体責任のように扱われるのに、それを構成する要素には、何の責任も無いという扱いには、大きな矛盾が含まれているが、関係する人々は、それに気付く気配がない。外から見れば、明らかにしか見えないものも、内側では、全く別の解釈が為される。子育てに関する話題もそうだが、最近取沙汰される、徘徊老人の話も、その一つに違いない。個人情報なる言葉で、各人の周りに巡らされた壁は、互いの目を届かぬものにし、社会の中の連繋を失わせる。断たれた繋がりを、どう取り戻すかも、重要な課題に違いないが、個人の感覚として、社会の中の存在をどう意識するかも、無視するわけにはいかないだろう。

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7月1日(火)−鸚鵡返し

 学ぶとは、真似ぶが転じたものと一部では言われているが、真偽の程は定かではない。こんな考えが受け入れられるのは、学ぶ段階で、模倣、所謂、真似が主体となるからだろう。言葉を覚え始めた幼児は、大人の言葉を繰り返し、拙い発音でも、似た音を出そうとする。更に、場面設定も自分なりに施し始める。
 とは言え、真似は真似である。意味を正しく理解しているかは、多くの場合怪しいものだろう。それでも、何度も試すことで、大人の指摘から間違いを意識し、徐々に正しい用法へと近づく。この過程は、学びにおいても当てはめられるものであり、学校でも、模倣を中心としたものが実施される。その一方で、今社会を賑わせている話題の一つに、他人の文章を無断で拝借する、剽窃なる行為がある。確たる地位を占める人間が、そんな行為に手を染めることは、恥の一つと扱われ、多くの場合、職を失ったり、社会的制裁を受ける。生業の一部において、こんな行為をすれば、倫理に反する行為として、厳しい制裁を受けるのは当然のことだが、先に書いた、教育の過程にある人々については、どうだろうか。子供相手の大人の言葉に、著作権を持ち出す人は居ないが、言葉をそのままに繰り返す行為は、確かに模倣であり、無断で拝借するものだろう。こんなことに腹を立てないのは、幼子の行為として、目くじら立てるものでない、との認識があるからだが、それが変化するのは、どの段階にあるべきだろうか。嘗ては、職業上での行為は、厳しい扱いを受けるが、教育段階までは、との判断が大勢を占めていた。ところが、最近の傾向は、厳しさを増すものであり、高等教育では、厳しく扱うべきとの声がある。気持ちは判らぬでもないが、模倣をする為の能力さえ身に付かぬ人々を、目の前にすると、その段階を飛ばして、独自の考えを展開できるのか、疑わしく感じられる。あるべき姿を求めるのは悪いことではないが、一朝一夕に出来るものかの判断も必要ではないか。

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6月30日(月)−急変

 暗雲立ちこめる、と言っても、この国の将来でも、世界経済の成り行きでもない。もっと身近な話題が、この所、巷に溢れているようだ。天候の急変に、人々は慌てて逃げ惑い、頑丈な建物へと入り込む。その瞬間の喧噪は、まさにその通りだが、少し前の気配、所謂前触れに目を向けた人は、どれ位居たのだろうか。
 晴れ渡っていた空に、モクモクと成長する雲の姿を見た時、人は何を思うのだろう。高い空にある絹雲などは、そんな目を向ける対象ではない。比較的低い空に現れた、綿雲のような存在が、上へ上へと広がり始め、その下の面が黒々となりつつある頃、そろそろ暗雲という言葉が、頭に浮かび始める。その下に入らない限り、大事には至らない筈だが、それがどちらに向かうかを予想することは、かなり難しい。その姿を見たら、まずは用心を心がけることが、大切なのではないだろうか。少し前に見た、遠くの黒雲が、いつの間にか頭上に現れた時には、既に、危険は身近に来ていることがある。大粒の雨が落ちてきてから、慌てて逃げ惑う人が居るが、それまで何を考えていたのか、と思う。雨だけならば、雨宿りという方法もあるが、それに加えて、雷鳴が轟くとなると、軒先が安全とは限らない。更に、堅いものまで降ってくるという話には、驚かされるばかりだ。水の粒なら、どんなに大きくても、大したことは起きないが、氷の粒は、石のつぶてと同じ事、その被害に遭った跡を眺めると、ぞっとする。たとえ、危機を伝える警報が流されても、聞く耳を持たないのでは、どうにもならない。いずれにしても、危機回避の為には、少しは様子を窺う姿勢が必要だろう。身を守るとはどんなことか、考えておいた方がいい。

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