正しい情報の伝え方について、議論は絶えることが無い。その一方で、嘘に惑わされ、被害を受けた人々に、同情が集まることに、異論は多少ともある。騙されない為には、という意見には、情報の吟味を重要と見る向きがある。それにしても、これらの議論は、全く異なる場で行われているが、結局同じ事を論じているのではないか。
情報が正しいかどうかを吟味する力は、当然、その中身を正しく理解することにも繋がる。一見、全く違った話のように扱われるものが、実は同じ範疇に入れられることに、何故気付かないのかは、さっぱり判らないけれど、そんな人間が集まっているから、的外れな議論の末に、方向違いの結論が導かれるのだろう。ここ数年話題にされる「呟き」の問題も、その社会的悪影響の大きさから、情報との関わりを正しく教育する必要性を、主張する人々が居る。鋏の使いようを指摘されずとも、道具は使い方を誤れば、正しい結果が得られぬことは、誰もが知る所だろう。だからこそ、情報の正しい扱い方と、それを運ぶ道具の正しい使い方を、無知な子供たちに教えるべき、というのが、彼らの主張の概要だろうが、表面的なことにしか、目が届かぬ大人たちが、子供に教えられることは、殆ど無いのではないか。あれも駄目、これも駄目と、禁止事項を並べても、それしか頭に残らない。列挙された事例に含まれていなかったから、大丈夫と思った、とは、まさにそんなことが犯罪に繋がった若者の、反省とも言えぬ弁だろう。人間としてあるべき姿を示さず、上辺だけの対策で済まそうとする人々には、大切な要素が欠けているとしか思えない。道徳、倫理といった言葉が、度々目に入るのは、それが忘れられつつあるからで、社会構造の基本が、無くなりかねない事態にある。にも拘らず、道具の使い方を論じたがる人々は、吟味力もないのではないか。
注意を喚起する為の手立ては、数々あるには違いないが、事が起きる度に思い知らされるのは、その効果の程である。気象変動では、注意報や警報が出され、更なる緊急性があると判断されると、別の情報が流される。危険とか危ないといった表現は、既に、警報の段階で伝わっている筈だから、更なる警戒を呼びかける為に。
最近の傾向を見ると、画面に現れる人の多くが、自らの人生で初めての事象といったことを口にする。そう呟いた人を、特に選んで登場させるのだろうが、その意図は、稀なことを伝えようとするものだろう。確かに、人の経験は重要な情報源ではあるが、その期間は精々百年に満たない。天変地異の多くが、稀なものと扱われる所以は、多くの人が経験しないからで、偶々そんなことを口にしたとしても、実は余り意味を持たないのではないか。この話は、結果論であり、実際に起きたことを見せながら伝えれば、それなりの印象を与えることができる。だが、予報の世界では、何が起きるかを予想したとしても、その光景を映すことはできず、言葉という媒体だけで、緊急性を伝達せねばならない。そこに気象予報の難しさがあるが、随分前に書いたことを記憶している、これまでに無い危険性といった表現も、何とも理解不能なものだった。すぐに使われなくなったのを思い出すと、提案は受け入れられたものの、過激な表現の割に、効果が見られなかったからなのだろう。だが、この手の人々は、簡単には引き下がらない。その後も、新たな表現を編み出し、何とか警戒を促そうとし続ける。その中で、最近耳に入る、奇異な表現と言えば、「50年に一度の」が挙げられるだろう。ごく普通の表現に思う人も居るだろうが、例えば、長崎の豪雨にその言葉が付けられた途端に、眼鏡橋の崩壊を招いた豪雨を思い出した人が居ただろう。30年程前の大災害は、先程の表現からすれば、今回のものより小さなものか、と思った人が居ただろうが、ここが統計の不思議なのだ。長い歴史の中で平均すると、という表現と、自分の人生の中での出来事とは、一致する筈の無いことだが、人は、そんな考え方に馴染みが無い。これもまた、早晩聞かれなくなるのだろうが、経験が言い伝えとなり、それが伝承されなければ、危機回避はできない、ということなのではないか。
遠出を終えて電車を降りる際、座席から立ち上がった中年の婦人の様子が変だった。体を支えられず、こちらにもたれかかっただけでなく、手の自由が利かない様子。慌てて支えて、電車から降ろし、改札で救急を依頼して、到着を待った。脳梗塞を疑わせる症状だが、後は隊員に任せるしかない。症状を確認し、随分時間をかけ、病院へ向かった。
彼女との話の中で気になったことがあったので、翌日、心当たりの病院に電話をしたが、予想通り、個人情報を楯に何も判らず、こちらの情報のみを念のためと伝えた。個人の権利を保障することの重要性は、確かにあるには違いないが、こんなことに出合う度に、首を傾げる。突然の電話に驚かされた時も、あちらはこちらの情報を握る一方で、こちらは何も判らぬ状況にある。数日後、その電話の件で、相手を尋ねると、個人情報の一点張りに困惑させられた。必要な時は、他人の生活に土足で上がり、勝手に振る舞う一方で、自らを守る為に、壁を築く。均衡がとれない状況は、様々な場面で構築され、歪みが是正される気配はない。個人情報の漏洩に関する報道は、徐々に明らかになる事柄に、別の歪みを痛感させられるが、管理という根本に、人々が十分な理解を至らせていない現状には、基本的な何かを欠いた社会を、想起させられる。にしても、こんなことが起きる大元には、金銭の絡みがあることは確かだろう。情報の価値は、本来は違う基準で見積もられたが、今や、幾らなのか、と金額でしか評価されない。不特定多数を対象とすれば、やむを得ないものとも言えるが、不特定などと括られるのは、当事者にとって、解せないものだろう。報道での、もう一つの驚きは、登録情報をそれぞれに異ならせる意図が、犯人探しに一役買ったという話で、相互の信用は、既に失われたが故の対策か、と思える。こんな世の中では、悪意を優先する考えに、異論を唱えることは難しい。
熱心に耳を傾ける。どうすれば、窮地を脱することができるのか、目の前の人が説いて聞かせている。ある障壁に対して、どう対処するのかを的確に指摘する。ごく当たり前の助言であり、多くの人は、その弊害に目を向けることは無い。それより、助け舟が出されたことに、感謝の意を表するだけだろう。自らの努力の芽が摘まれたとしても。
安定期に入ってしまうと、変化に富んだ時代のことを、すっかり忘れてしまうらしい。対策を講じようにも、何が起きるのかを予測することができず、多くの試みは空振りに終わった。だが、成長を求める気持ちは冷めること無く、上を目指し続けるから、ある時点までは変化が続く。ふと気付くと、成長の勢いは衰え、一種の安定期を迎えることとなる。それまで、空を切っていた試みは、初めて的を射ることができ、対策の重要性は、成長の勢いとは逆に、その価値が高まり続ける。ある程度の見通しがつくからこそ、それへの対処が可能となるが、的が絞れるに従い、対応の幅は狭まり、表面的には的確な対応がとれているが、少しでも予想が外れると、無力を曝け出すことになる。教育現場では、この傾向が特に目立つが、それは、傾向と対策が直結する世界だからだろう。だが、決められた的にしか当てられぬ人々が、競争を勝ち抜く時代となると、実は、役立たずが増えることに、気付かなかったのではないか。想定されたものへの見事な対応に比べ、埒外にあるものへの無様な対応は、彼らの無能ぶりを表す。大した洞察力も無く、想定を置くことに、未熟な人々は、何の疑いも挟まない。だが、可能性の検討が十分に行われなければ、当然、的外れが増えることになる。こんな人間が、生き残るような競争社会は、真の競争は無く、見かけのものだけの、ハリボテの世界なのだ。競争と選択などという言葉が踊るのも、真の姿を見る気がない中では、害ばかりが残るのではないか。
最近の工業製品で、半導体を含まないものを見つけるのは難しい。以前は電化製品に限られていたが、制御を必要とする機構が組み込まれ、そこに使われるからだ。原理への理解は不要で、ただ便利でありさえすればいい、といった考えが大勢を占める為、次々に採り入れられた機能に、制御が不可欠になるのは、当然のことだろう。
半導体を集積した回路には、純度の高い結晶が必要となる。ケイ素は、この星にある岩石に、最も含まれている元素で、その結晶が、半導体の性質を持たせる為に、重要な役割を果たす。一方で、不純物の混入は、不良品へと繋がるから、純度を高める努力が続けられている。ppbという単位は、9桁の割合を表し、10億分の一の割合となる。よく聞く、ppmはその3桁上の割合であり、100万分の一となる。技術の向上は更なる上を目指し、現状では、15桁まで達成されている。これは、別の言い方をすれば、1000兆分の一ということか。気の遠くなる程の話だが、集積が高まる程、中に含まれる要素が増え、不純物の存在は、常に無視できないものとなるから、純度の追求は止むことは無い。その一方、同じように割合を示すものとして、パーセントがあり、身近な指標として多用される。100分の一の割合で、99.9%とは先程の表現では、1000分の一の割合となる。このくらいまでは想像がつくと思えるが、実際に何を示すかについては、不確かなもののようだ。例えば、雑菌を除去する薬剤の広告で、ここまで減らすことができると言われれば、随分減ったとの印象を受けるのではないか。しかし、細菌は分裂で増え、速いものなら20分で二つに分かれる。1時間で8倍は大したことの無いものと映るが、3時間で500倍程、1000分の一に減ったものが、ほんの3時間ちょっとで元に戻るのである。細菌を培養すると、一滴の液体中に数万単位の数が含まれる。それを3桁減らしたとしても、全てを除けないのだ。不気味に思えるが、そんな話を安心と信じ込むのは、止めておいた方がいいのだろう。
朝、擦れ違う車の助手席に、制服姿が座る。天候の変化に、仕方ない対応もあったのかも知れないが、どうも、そちらではないようだ。毎朝、子供の通学に親が付き合う。というより、自力での通学は、既に条件には入っておらず、そうすることが当然という雰囲気さえある。甘やかし、という言葉も、聞こえては来ない。
運転手付きの豪邸に住む子供たちが、そんな扱いを受けたことは、この国では珍しい光景だろうが、欧米では、時に見られるものと紹介される。だが、庶民がそんなことをできる訳も無く、偶々擦れ違った車も、親が子を、という形でしかない。政策など関係なく、少子化が進んだことから、子供に手をかける親が増えた。塾通いが当然となり、その成果として、少し離れた高校へ通うことになったとしても、毎日の通学を苦痛とさせない工夫を凝らす。当然のこととして受け取る子供に、どんな成長が期待できるのか、尋ねてみたい所だが、そんな機会は得られそうにも無い。だが、彼らが、高校を卒業し、上の学校に入学したり、働き始めた時、どんな状況か見えてくる。依存体質から抜け切れず、誰彼と頼る姿勢が残れば、独立はあり得ず、舞い戻ることさえ起こる。成長を期待する気持ちはあっても、甘えを許す空気が除かれねば、こんなことが起きてしまうのも仕方のないことだろう。だが、原因の多くは、歪んだ親子関係にあるのではないか。依存だけが悪いこととは言えないが、徐々に、そこから抜け出す努力を、両者が積み重ねねば、解決の糸口は得られない。助手席の制服姿が、全てそうなるとは言わないが、予感はする。所詮他人事と思っても、若い世代に期待せねば、社会は崩壊への一途を辿るのではないか。
葛の根を抜き、笹の地下茎を抜く。何か薬剤が撒かれた為か、雑草はすぐに生えてこず、土壌改良に精を出していたが、ふと気付くと、斜面の下の方に土が溜まり、所々に雨による浸食が進み始めた。根を張る植物があれば、表土が流されることも無いが、何も生えていないのでは、こんな変化を受けるのも当然だろうか。
傾斜地では、平らな所と違い、様々な変化に目を配る必要がある。土が流れたことに、気付くまでには、かなりの時間がかかった。徐々に流れていくことに、日々の変化で気付くことは難しい。どっと流れてしまえば、流石に判るのだろうが、ゆっくりとした変化には、何処かに指標をおかねば、判らないのも無理はない。だが、長雨の中では、このままの変化を放置しておくと、かなり難しいことが起きそうな気配だ。囲まれた領域の中だから、変化が起きたとしても、それを元に戻せば、何とかなりそうに思える。素人目にはそんなに映る状況だが、本当にそうなのかは判らない。上から下へ流れるのは、自然の成り行きだから、それを戻すとなれば、下に流れたものを上に戻すこととなる。この作業自体も面倒だが、それが功を奏するかどうかは、不確かな話だろう。自然のままであれば、戻らないものを、人工的に戻したからと言って、元の姿に戻るかどうかは、やってみなければ分からぬ話なのだ。かといって、今のままに放置すれば、悪化の一途を辿ることとなる。人の手を入れることは、自然の中に人が入り込んだ時から、欠くことのできない条件である。それを面倒と思う人は、自然との関わりは、休みの間だけに限り、普段は、人工物の中で暮らすに限る。それがどんなに荒んだものにしても、だ。