パンチの独り言

(2014年7月14日〜7月20日)
(変容、宿痾、最優先、布施、尚早、人の為、蔑称)



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7月20日(日)−蔑称

 言葉の印象は大切であるという考えは、誰もが抱いているものだろう。軽率な一言で、相手の心証を悪くした経験は、多くの人にあるものだろうし、その逆が起きて、気分を害したこともあるに違いない。だが、印象を良くしようと、飾り言葉を鏤めるなど、努力を重ねても、大した効果が得られないことも多かったのではないか。
 慇懃無礼で口先だけの表現に、嫌気がさした経験は、誰もが持つものだ。それより、暴言とも思える言葉遣いの裏に、真剣な考えが見え、更に、こちらへの気遣いまでが垣間見えると、心証は良くなるのではないか。丁寧な言葉や的確な表現に、人は心がけるものだが、その前に必要なことを、つい忘れてしまうものらしい。口先だけの誤摩化しに、幾ら磨きをかけたとしても、早晩見破られることになる。それより、問題に真摯に向き合い、相手の気持ちを慮ることこそ、何より先に必要なことだろう。こんなことを思うのは、言葉遊びかと見紛う程の、呼び名の変更という、狂った行状が世に溢れているからなのだ。例えば、普通との違いが見える人々に、まるで病名かのような呼称をつけ、何かしらの処置の必要性を強調する。××障害、などというのも、その代表格として扱われるものだが、根拠は薄弱で、続出する新種に、戸惑うことも多い。欠陥を表す為と、人に貼付ける行為に、どんな意図があるかは知らないが、病気と呼ばれた方が安心する、という不思議な心理を味方に得て、普及の速度が高まる。だが、大衆心理はそれ程単純ではなく、普及した途端に、反論が顔を出す。障害という呼称は差別意識を助長するとの指摘も、そんなものの一つだが、差別の根源を考えれば、勝手なもの同士の争いにしか見えない。障害には支援が必要との考えも、始めから歪みを含んだものであり、言葉遊びの一種に見える。特別支援などと、一見穏当な表現を使い、その実、区別を明確にし、隔離を目的とした動きに、違和感を覚えるのも、遊び呆ける人々の身勝手さを理解できないからではないか。本質を見抜けぬ人々の、無能な活動は、無視するのが一番なのかも知れない。

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7月19日(土)−人の為

 情けは人の為にならない、とは間違った解釈と言われるが、今の世の中、間違っていると思うことに、人から情けをかけられるのは、当然の権利と思う人が居ることだろう。施されることを当たり前と思う人に、人にかける情けの気配は微塵もなく、ただ単に一方的な搾取に似た行為を、如何に正当化するかが肝心らしい。
 見せかけの努力や、隠蔽された不正など、こんな人々が装う行為には、それと判れば、反吐が出る程の思いが過るが、この手の人々には、反省などという言葉は存在しない。当然の権利を、不条理に妨げられたと、その多くは逆恨みを募らせ、時に、事件を起こすことになる。だが、重い病に罹った現代社会は、こんな人々を弱者と見なし、救済の手を差し伸べるのだから、呆れ返るしか無い。この歪みが何処から生まれたのか、これという原因を示すことは難しいが、加担した人々の不見識を指摘するのは、簡単だろう。人権という言葉の意味も知らずに、それをかざして彼らの「正義」を押し通し、論理の欠片も無い、感情的な判断を繰り返した結果、歪みが強まり続け、無謀な行為が正当化されるに至った。社会に問いかければ、彼らの権利は保障されたかのように映るが、現実には、個々の範囲の中で、それを妨げようとする動きが残っている。集団の不正は通用することもあるが、個人の行為に対しては、厳しい対応が為される。一見不条理に見える行為だが、どちらが正しいものかを考えれば、少数派の行為は、もっと評価されるべきものに見える。無駄と理解しつつも、これを続ける人々には、何かしらの拘りがあるのだろうが、拘りという言葉も、悪い印象を与えるものとなってしまった。これも、多数派の、自分たちとは違う考え方を、一様に否定する戦略によるものだが、その不見識が通用することに、危機感を抱くからこそ、拘り続けるのではないか。まあ、無駄な人間に、無駄な労力を費やす必要は、実は無いのかも知れないが。

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7月18日(金)−尚早

 背伸びしようとする子供たちの姿に、微笑ましく感じる人は多いと思う。少し生意気な子には、厳しい声を浴びせ、からかいの入り混じった応援をする人が多いのも、自らの昔の姿を重ねるからだろう。だが、昔とは大きく変わった事情もある。誰の助けも借りず、背伸びを繰り返した時代と違い、今や、差し伸べられる手が多いからだ。
 子育てが人材育成に直接繋がるかは、明らかではない。しかし、健全な心の持ち主に、という思いがあれば、子育てを蔑ろにする訳にも行かない。だが、ここでも、手をかけさえすれば、思い通りの人間ができるかと言えば、そうでもないと答えるしかない。それでも、何の余裕かはっきりしないが、何処かで手をかけようとする動きが急である。何故かという理由は定かではないが、以前から取り上げてきたような、傾向と対策の方針が定まったから、ということも、その一つになるのかも知れない。ただ、これで十分といったものは見かけられず、どちらかと言えば、可能性の一つを試すといったものが殆どだろう。その中で、特に注目されるのは、早めの対応と括られる試みではないか。お腹の中に居る頃からの教育は、流石に度が過ぎるものだが、早め早めの対応ということが、鍵となるものが多く見られる。ただ、効果の程も定かでなく、多くは空振りに終わっているのを眺めると、時期を的確に捉えることが重要に思えてくる。背伸びをしたい子供に、早めの機会を与えることは、一見、効果的なものに見え、それが、「飛び」何とかに見られるような制度の整備へと繋がる。ただ、これまでの状況からは、期待した程の効果は見られず、逆の結果を招いたものの方が、目立つ結果となっている。以前の背伸びとの違いは、駄目と反対される中での抵抗と、褒めちぎられるの中での歓迎では、本人の心持ちが大きく変わる所にある。どちらが良いのかは、現時点では明確だが、懲りない人々の動きは、緩まることが無いようだ。

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7月17日(木)−布施

 昔は、夏休みと言えば、まさに遊び呆ける毎日となり、終わり近くに、宿題と格闘するのが常だった。計画の重要性は、終わりかけた頃に見え始め、結局、毎年同じ経過を辿るだけで、近くの魅力に目が向き、遠くを見通す力の無い子供にとって、学ぶことの無い日々が続いた。だから、今の大人は、と言うのは筋違いだろうが。
 休みは誰にとっても楽しいものだが、最近は、そんな日々が続く訳ではないそうだ。休みとは名ばかりで、毎日のように学校に通い、休みの前と何ら変わらぬ日々を過ごす。メリハリのある生活を、とは、大人相手に言われる言葉だが、これほど区別のつかないものに、直面した時の子供の気持ちは、理解されているのだろうか。昔、休みの中での一斉登校日は、給料日と決められていたのも、振込などという制度が無かった為であり、子供への配慮という訳ではなかった。それが、生活の計画性や学習の継続性など、何やら、子供たちへの配慮が殊更に取り上げられ、まるで、教育の充実を、休みと定めた期間にまで、拡げようとする意図が感じられる。この世相は、実は、子供の都合が無視された時代より、子供の事情を考えなくなっているのでは、と思わされるものの現れであり、言い訳ばかりが先に立ち、本質に目を向けることの無い時代の象徴のようだ。全く違った話のようだが、子供の興味を惹く為の催しが、目白押しとなるのも、この時期の特徴だろう。ここでも、教育重視の観点からか、多くの催しが無料とされ、誰もが参加し易い形に整えられる。一見、社会制度として、成熟したもののように見られるのだが、「ただ」に問題は無いのだろうか。当然の権利として受け取る向きには、何を言っても届かぬ話だが、何かを手に入れる為に、それに見合う費用を負担することこそ、当然なのではないか。与えられるものばかりに目が行き、探そうとする気持ちが起きないのは、何かが欠けているように思える。豊かな時代だからこそ、社会からの施しではなく、自らの身を削ることで、本来の意味が出てくるのではないか。

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7月16日(水)−最優先

 国民性の違い、そんな言葉が浮かぶような話は、毎日のように流れている。そんな話題を選んで、好んで流す人々が居るから、こんなことが起きる訳だが、種が無ければ起こせないのは、当然のことだろう。安全安心を、当然の権利として訴える人が居るのも、その基盤があるからであり、危険不安の環境ならば、思いつくことさえない。
 先日流されていたのは、海の向こうの人が穀物の山の中で失った、携帯電話が戻ってきた話だ。穀物の貯蔵タンクの上で、滑り落ちたスマホは、あっという間に沈んでしまい、諦めざるを得なかったと話す、その人は、まさに諦めてしまった頃に、この国の業者からの電話を受けた。戻ってきた電話は、今の通例と違わず、写真などのデータを含んでおり、大切な思い出の容れ物だった訳だ。盗みと転売が当然の環境では、こんな拾い物も、そんな扱いを受ける訳だが、この国は違う、という主張がそこに在る。そんな話を、どんな思いで眺めるかは、人それぞれには違いないが、他国の人の方が、珍しい話と思うのではないか。その環境の中に暮らす人々には、当然のものでも、違う環境では、奇異なものと映る。流石に、この国でも、様々な嘘や欺瞞が満ちてきて、それに基づく犯罪が、日常的に起きていることに、嘆く人も増えている。だが、事故の連鎖に悩む隣国では、今更のように、安全と成長を天秤にかける話が出ている。経済成長の為に、少々の欠陥はやむを得ない、という考えは、建物の崩壊へと繋がり、多くの死者を出した百貨店の話は、まだ、忘れ去られる程の昔になっていない。今回話題に取り上げられていたのは、建設最終段階に入ったマンションの崩壊であり、入居後になっていれば、と恐れを抱くのは、当然のことだろう。こんなことが起きるのは、天秤の問題とする考え方に、驚く人が多いのは、この国の特徴かも知れない。何より優先すべきものが何か、考えたことの無い人が、命の重さを量っているのだから。

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7月15日(火)−宿痾

 工業製品であれば、欠陥品は捨てられる運命にある。検査に不合格となったものは、組み立て過程を戻され、やり直しとなるか、場合によっては、廃棄となる。ある性能を謳う製品において、それが実現されなければ、製造側の責任となるのは当然だが、それ以外にも、傷などの見栄えが影響することもある。売る為に必要なことなのだ。
 厳密な検査でも、時に見落としはある。そんな製品は、返品という扱いもあるが、時には、傷物として、特価で売り出される。性能に欠陥があれば、流石に買う人も少ないだろうが、見栄えだけなら、気にせぬ人も居る。そんな人々にとって、良い買い物だったとなるのだろう。売り買いの対象となる製品では、こんな話が、何の抵抗も無く交わされるが、これが、人間の話となったら、どうだろう。人それぞれに、才能や資質に違いがあり、向き不向きがある。これが、ある範囲内に収まっていれば、その違いも受け入れられるが、埒外のものについては、厳しい意見が添えられ、排除の対象となる。製品のように廃棄するわけにはいかないから、別の可能性を、といった言葉が付けられ、対象外の札を付けるが、この辺りの事情に、かなり大きな変化が起きつつあるのではないか。基準外のものを、異常と片付けるにしても、その原因を、個人に帰するのではなく、不治の病のように、外的な要因を引き合いに出す。これにより、個人攻撃は起きず、丸く収まるかのように言われるが、果たしてそうなのだろうか。犯罪を犯すのは、壊れた心のせいであり、病気なのだから、治療が必要であり、罰は無意味との判断も、そんな考えから来るようだが、本当にそうなのか。病気の一言で、異常を片付けることは、何とも簡単なやり方だが、納得しかねる。不良品は廃棄、の代わりに、治療を施し、何を目指すのか。それが見えない中で、障害やら病気やらでは、何の解決も無い。

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7月14日(月)−変容

 様々な場面で、人を選ぶことの難しさが取り上げられる。あらゆる競争において、誰かを選ぶことは当然の帰結で、それを目的に競い合わせることが殆どだろう。だが、選抜の目的は、選ぶこと自体にある訳でなく、その後の展開こそが、本来の目標となるべきものだ。そこでの経過が、思惑通りとなれば、選抜が上手くいったとなる。
 選抜後の経過、という観点から、重視しなければならないことは何か。人を選ぶ段階で、そちらの展望を中心にすることもあるが、潜在力を評価することの難しさは、表面的な評価より、格段に高いものとなる。人を見る目と呼ばれるものも、こんな力量を指したものだろうが、見る側ばかりに注目が集まり、選ばれる側の問題とされないのは、どうなのだろう。これでは、選別の瞬間で全てが決まり、その後の経過は概ね無視される。だが、多くの場合は、機会が与えられた後の、各自の努力と精進が鍵となり、辿る経過が大きく変化する。その変化さえも、見抜く力が必要との意見がある訳だが、現実には、目標達成の為の努力や意欲を測るだけでは、達成後の変化を推測することは難しい。それは、見られる側にも当てはまることで、目標に向かって邁進する中では、すべきことも明確で、進捗も測り易い。それに比べ、達成後の展開は、様々な変化があり得、進むべき方向も簡単には決まらない。その中で、先の見えぬ努力を重ねることは、以前とは違った意欲を必要とする訳だ。新しい人が現れる度に、その変化を目の当たりにして、それぞれの違いに目を見張るというのも、人それぞれの差異からすれば、当然のことなのだろうが、先を読むことの難しさを痛感する。やらせてみることの重要性は、こんな所にも現れ、任せることも、時には必要となる。人の扱いは、その難度が様々に変わり、悩みは尽きないものなのだ。

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