パンチの独り言

(2014年7月21日〜7月27日)
(理詰め、事実誤認、弱者救済、反応、読書、躾、極端)



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7月27日(日)−極端

 何故、と思うから、書き残すのだが、肝心の何故、が理解されないのは、何故なのか、と思うことが度々ある。視点、観点、様々な違いが産み出す違いには、理解が及ばぬものも多い。同じ考えを抱いていれば、成る程と思える部分でも、思いもよらぬ考えに、反発が先に立ち、受け入れることは難しくなる。
 人は所詮判る範囲でしか、理解できないものと思えば、こんな状況も納得できるが、それでは、判らないものを理解する、という肝心なことが、不可能にならないのだろうか。納得するというのが、必ずしも理解とは限らないが、反論を含め、様々な反応を示すことで、次の一歩を踏み出すことができるのは、余り知られていないことではないか。議論が苦手な国民性、と片付けてしまえば、簡単に見えることだが、現実には、それでは片付かない状況が生まれている。好き嫌いに似た形での反応では、互いの意見交換は起こらず、単純に、言い放つだけの繰り返しとなる。議論も何も、単なる平行線を辿るだけで、互いの意見に歩み寄りは無い。これでは、相手の言葉から学ぶことも無いし、こちらの言葉が相手に届くことも無い。理解などという表現は、有り得ないものと同義になりかねない訳だ。これでは、自分が抱いた独自の考えを、そのままの形で持ち続けるだけだ。だが、これは実際とはかなり違った状況に見えないか。つまり、誰かの意見を鵜呑みにするのが、現代人の特徴と捉えると、自分の意見に固執する人とは、一体どんな存在なのか、ということになる。他人の意見の受け売りに過ぎないものに、何故、固執する必要があるのか。鵜呑みか、拒絶か、ここでも極端な反応しか無い。これでは、何も始まらない、のではないのか。

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7月26日(土)−躾

 危険な製品が出回ることは、誰もが避けたいと思う所だが、その危険性が、製品そのものの問題と取り上げられることは、実は少ないようだ。使い方を誤ったとか、本来の目的とは異なる使い方をしたとか、その多くは、作った側が考えたものから、ほど遠い見方が適用され、その結果、重大な事故へと繋がることとなる。
 責任の所在を明らかにする為、法律の整備までが行われてきたが、実際には、事故が減ることは無く、却って、説明不足を指摘され、責任を負わされる事例が増えている。想像力を試されるような事態に、製造者の責任は強まるばかりで、様々な可能性に思い当たらねば、どれほど役立つ製品といえども、世に流通させることは難しくなる。一見、消費者を守る為の唯一の手段のように見られるものだが、現実には、無知を放置し、誤解を許す雰囲気を強めることで、消費者の権利ばかりが強調されることになる。ここでも、どちらが弱者と見なされるかが、最も重要な要素になる訳だが、今の社会の趨勢を見ると、誤った解釈を押し付ける空気を強めているようだ。確かに、危険性を少なくすることは、様々な場面で重視されるべきだが、それが度を過ごすようになると、権利の名の下に、過剰な要求を通す雰囲気が作られ、歪みが深まることになる。子供の事故に関する話も、様々に注意が促されているが、その多くが、子育てでの躾に関係するもので、親が果たすべき責任が、もっと重視されるべきと思われる。ただ、ここでも、事故に遭った人々が、弱者と見なされるだけに、結果論として、この扱いが正当と見なされることが多くなる。論理は常に冷たく映るものだが、この手の問題を扱うのに、情に流されてばかりでは、やはり問題を解決することは難しくなる。何を重視するかも含め、目を向けるべきことは、沢山ある。身近な所から、何が大切か、考えるべきだろう。

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7月25日(金)−読書

 本に読み方があるかどうかは、定かではないのかも知れない。だが、人それぞれに違ったやり方がありそうに思える。特に、本嫌いの人たちにとって、読む行為は手間がかかり、面倒だと言われる。書いてあることを正確に理解し、それを記憶することが大切となったら、とても、楽しく読める筈もないものとなる。
 では、楽しく読んでいる人たちは、どんな接し方をしているのだろう。一つだけの型があるのではなく、おそらく、人それぞれに違った読み方を持っているようだ。だから、ある人が好む方法が、必ずしも、他の人にも当てはまる訳ではない。それにしても、本に書いてあることを鵜呑みにするのは、少し考えただけでも、危なげに映るのではないか。特に、以前のように、編集に携わる人々の力が、ある水準にあった時代には、何の役にも立たないばかりが、害悪を撒き散らすような代物は、出回ることが殆ど無かったが、最近のように、玉石混淆どころか、石にもならぬものが並ぶようになると、読む側に何らかの見識が不可欠となり、騙されぬ為の手立てを身につけることが、何よりも先に必要となる。だとしたら、どんな接し方が良いのか。一つの例を挙げるとしたら、ただ一方的に内容を読み取り、吸収するのではなく、読み手から疑問を呈する形で、働きかけつつ読み進むことが、思い当たる。そんなやり方では、既存の知識に基づく考えに固執し、新しい知識を得ることは難しくなると思うかも知れないが、余程の頑ささえなければ、出した考えとの比較で、新たな考えが芽生えることも多い。そうでなければ、読む行為は全て無駄となり、そんな手間をかける意味は無くなるだろう。そんな手間をかけ、何の価値も見出せぬものに接したとして、何か得られるものはあるのか。これもまた素直な問い掛けだろうが、実際には、残るものがあるようだ。人との会話だけでなく、本との接触も、人としての広がりを確保する為に、必要なもののようだ。

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7月24日(木)−反応

 長い期間、リストから外されていた。サーバーの不安定から、接続できないことが多く、徘徊の対象から外れた為だったのだろうが、その影響は、確かに小さくはなかった。殆ど居なかったとは言え、ほんの偶に訪問してくれていた人々も、足が遠のき、覗くこともなくなった。唯一の例外は、もう一つの検索エンジンだった。
 情報社会において、その源が重要となるのは、当然のことだろう。だが、各自がそれなりの努力を続けていても、肝心の徘徊が、何らかの事情で行われなければ、その情報は、無いものとなる。印刷物であれば、読む人が居なくとも、それなりの場所に保存されれば、情報は生き残る訳だが、電子情報は、接続の機会が得られなければ、その存在そのものが無くなる。偏りが生じないように、との配慮はあるのだろうが、無尽蔵にあるものとなれば、目に触れぬものが出ることも致し方ない、と思われているのではないか。そんな時期が過ぎ、接続が安定すると、やっと徘徊も定期的となってきた。その結果、少ないとは言え、日々の訪問者の数は回復し、情報源としての役割は、細々ながら果たせているようだ。そんな中、久しぶりにある訪問者があった。例の研究所の構成員だが、全く別の部署だろうし、あの騒ぎに巻き込まれた訳でもないだろう。だが、当事者の一人に数えられぬ訳でもないから、独り言のそれに触れた部分に、どんな感想を抱いたのか、聞いてみたい気持ちは起こる。この場所も、一応、意見や感想を送る手段を設けてあり、メールという形では、すぐに公開することもできないが、何かしらの意見があれば、それを聴かせて欲しいと思っている。以前は、そんな場も設けていたのだが、余りに閑散としたので、止めてしまった。書き散らかすとは言え、反応は見てみたいものなのだ。それが訪問者の点検であり、メールを待ち焦がれる心理となる。

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7月23日(水)−弱者救済

 成長期には、強い者に引っ張られ、全体が動いていたようだが、停滞期に入ると、その様相が大きく変わってきた。強い者の存在は、疎んじられ始め、弱い者の権利が、尊重され、強調されることとなる。強弱の違いは、依然として存在するとの主張もあるが、問題は、その扱いの違いにあるのではないか。
 この変化は、無視されていた人々に、権利が保障されたことにあるようだが、現実には、ぶれは大きく働き、弱い者の勝ちのような状況が生まれた。権利を保障することで、存在は確かなものとなり、無視できないとする方向へ動いたが、そちらへの振りが更に大きくなることで、弱者の権利が、一般の人々のそれと比べて、遥かに大きくなったように映る。始めのうちは、遠慮がちに享受していた人々が、要求を当然のことと受け止め、それまでの不遇な扱いに反発するが如く、追い求めるようになる。社会も、それまでの不当な扱いを反省し、可能な限りの対応を目指すが、いつの間にか、過度なものへと移り、以前とは逆の不平等を招くことになる。平等とは何を指すのか、いつの時代も答えを見出せないが、今も、そんな状況が続いているように見える。弱いことを殊更に主張し、不平等を前面に押し出すことで、権利を与えてもらおうとする訳だが、それに見合う役割を、社会の中で果たすことは、この手の人々には起こらないようだ。何もしなかったからこそ、社会の中から弾き出された人々は、正当な扱いを受けていないことを訴えるが、すべきことをせずに、構成員であることを主張するのはいかがなものか。責任を果たさずに、権利のみを主張することは、以前は、とんでもないこととして扱われたが、それが強弱に影響した途端、別の扱いを受けられるとなれば、社会の規則は通用しないものとなり、構成員たちは、集団より個人を優先させる。元々、欲に走り易い動物なのだから、こんな状況は、当然の帰結として、破滅を目指すことになるが、どんな歯止めがかけられるのか。恥も外聞もない人々に、届く言葉はないのだろうか。

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7月22日(火)−事実誤認

 イジメというのは、それを受ける人間にとっては、何の理由もなく、辛い立場に追い込まれるから、どう対応したら良いのか判らない、と言われる。確かに、一対多数という状況からは、劣勢に陥るのは当然で、数を頼むのが社会の趨勢である時代には、それだけで、立場が厳しくなると言っても良いのだろう。
 では、何故、そんな立場に追い込まれたのか。攻める側には何らかの理由がありそうだが、些細なことという場合が多いらしい。そんなことで、深い悩みの淵に落とされたとしたら、偶々被害に遭った人は、不運だったとしか言い様が無いのだろう。こんなことが珍しいと思われた時代から、日常的な時代へと移り変わり、世の中は、弱者を救済しようと、様々に方策を講じ始めている。簡単には取り除けないものの、以前に比べれば、差し伸べられる手の数も増え、一人悩むという図式は、減り続けてきた。だが、この状況が、正反対の力を及ぼし始めたことに、多くの人が気付いていないのではないか。弱者は保護されるもの、という考え方の定着は、常識となるに連れ、自らを弱者にする心理が、強まることへと繋がった。虐められる側にあれば、責められることなく、何事においても許される、という考えに至った人たちは、時に、弱者を装うことさえやってのける。事実ならば、救いの手を伸べる必要があるが、多くは、偽装によるものであり、加害者とされた人物に向けられた疑いは、謂れの無いものに過ぎない。今読んでいる本も、攻撃的な性格の持ち主への警戒を説いた内容だが、多くが伝聞に過ぎず、それも被害を受けたと主張する人の見解を頼りとする。不安に陥れられた人の話は、それを聴く人物によっては、真実と断定され、もう一方の意見に触れなければ、断定的に扱える。現場の声として尊重されることも多いが、偏りが歪曲を招き、事実誤認に至る例があるのではないか。こんな本に振り回される人々は、おそらく、弱者を演じることに酔えるのであり、それもまた、別の被害を招くこととなる。

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7月21日(月)−理詰め

 論理的思考の重要性を強調し、論理性の吟味を不可欠なものと主張する。こんな意見は、様々な所から出てくるが、それが広がる気配が見えない。だからこそ、大切と考える人の意見が、何度も出される訳だが、その効果は殆ど見られないようだ。必要ならば、身に付けていて当然との考えが、何故通用しないのか。
 これ自体が大した問題を生じていないから、重要とは思わないとする反論が出されるのも、結局は、感情に流され、同情を誘う話に、何度騙されても気付かぬ人が居る社会では、ある意味当然のことなのだろう。論理の欠片も見えぬ話に耳を傾け、我が意を得たりと言わんばかりの表情で引き上げる。情に訴えることは、時に必要となるには違いないが、全てがそれで片付く訳でもない。一方、先入観で物事を決めるやり方では、同じように情に訴えたとしても、端から信じられないと切り捨てられる。冷静な判断は無駄なことと決めつけられ、直感だけに頼る人々が殆どとなる。経過を眺め、始めの考えを見直すのも、論理性を身につける為に必要な手続きだが、直感が尊重される中では、そんなことを無駄と切り捨てる。これほど嫌われる存在の「論理」とは、一体どんなものなのだろうか。その正体を知ることなく、ただ忌み嫌うだけの人々は、何故試そうともしないのか。実は、その背景となるものがあるようだ。嫌う人々の多くは、論理にやり込められた経験を持ち、反論の機会さえ与えられぬ状況に、辱めを受けたとの印象を持つ。非論理的な考えを、打ち砕かれた経験では、それを補う力の必要性を痛感しても良さそうだが、そんな面倒を手にする気持ちは、中々起こらないらしい。まあ、そんな心理の持ち主が、こんな考えに至るのは、当然のことだろうから、議論をすることの方が、無駄なのだろう。論理で理解できない物事に、異常な程の興味を示す人々も、そんな中に沢山居るようだ。彼らをどう教育するかは、その糸口さえ見出せないようで、何度繰り返しても、徒労に終わっている。

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