若年層の犯罪の凶悪化、と書くと、こんな所でまで、と思う人が居るだろう。実は、無垢だと大人が信じたがる子供という存在は、打算や思惑に満ち溢れるだけでなく、無垢なだからこそ、残酷という姿を表に出すことも多い。寛容に接することは、育てるという面から重要なのだろうが、果たして、それだけで十分なのか、今問われている。
凶悪な犯罪に手を染める子供たちに、責任が無いと問えば、多くの人が否定するだろう。未成年者と言えども、何かしらの責任を負うべき、という考え方は、法整備が進んだ後になって、再び強まっているのではないか。その一方で、その子を育て上げた親の責任はどうか。一方的な力の行使で、欲望を満たす人格には、親としての資格はある筈も無いが、今の時代には、こんな人でなしでも、大きな顔をし続けることができる。その圧力から、歪んだ人格が産み出されたとしても、それは個人の責任に帰するものであり、圧力をかけた人々の責任は問えない、という風潮が強い時代には、暴力の継承の責任も、問えない対象となるようだ。一方、甘やかしという正反対の対応も、同じような歪みを生じることにも、犯罪者の責任を問うばかりで、伝えることをしなかった親の責任は問われない。社会的制裁は、様々な形で下されるが、未成年者の例では、被害者の悲劇ばかりに目が集まり、保護という観点から、親の責任を問えない状況が生まれる。ここに大きな矛盾を感じる人も多いと思うが、他人の不幸に関して、首を突っ込むことに躊躇いを感じ、見て見ぬ振りをする。この問題に関して、更に強く感じられるのは、大人の犯罪に関するものだろう。猟奇的な犯罪に手を染めた人格が、如何に成人が有するものとは言え、それを育んだ親の責任は、これもまた問えないものなのだろうか。ここまで異常も極まり始めると、こんなことにまで思いが及ぶ。答えは見出せないのだが。
豊かな時代だからこそ、なのかも知れないが、人々の要求は高まり続ける。確かに、余裕が感じられる時代には、社会制度だけでも、様々な仕組みが設けられ、個人はその恩恵に浴す。一つが手に入れば、もう一つと、要求は膨らみ続けるが、その最中にある人々にとって、それらは当然のものと映るもののようだ。
だが、実際には、当然の権利でも何でもない。施しを受けると揶揄されると、心外との反論が戻るのだろうが、一体、何処が違うというのだろうか。皆がそれぞれに負担をしていた時代と違い、最近は、施しばかりを追い求め、出すべきものには躊躇いを感じる。応分の負担と言われたのは、既に遥か昔のこととなり、豊かだからこそ、それなりの負担も可能となったにも拘らず、財布の紐は堅く締まる。皆がやっていることに、自分が加われないのは、差別に違いないとの考えも、応分の負担に適用されること無く、ただ施しを受けることだけに向けられることに、何の違和感も抱かないのだろうか。まして、これを施しと見られることに、抵抗を覚えるのでは、社会の構成員としての務めは、何もないと思っているのか、とさえ思えてくる。無料と聞けば飛びつき、有料と言われると無視する。そんな心持ちの人々に、機会を与えることの必要性は、明らかに無いのではないか。自らの権利ばかりを主張する人々に、他人を交えた社会の仕組みを説いても、理解に至ることは殆ど無い。だから、諦めるべきという考えが、今は大勢を占めているようだが、それでは全体の均衡は崩れるだけだ。権利主張には、それなりの責任を果たす必要があることを、全ての人が理解してこそ、社会が健全に保たれるのではないか。税金も当然の存在だが、応分の負担という考えで見れば、多くのことに、出すべきものがあることに、気付かせねばならない。
最近はものを書くのに、筆記用具を使うことも少なくなった。メモを取るのも、電子機器を使うのが主となり、字を書くという感覚は、大きく変化したと言えるのだろう。そんな中で、機械に頼ることの問題を意識させられるのは、malfunctionとも呼ばれる、機械の故障ではないか。思わぬ動作に、仕組みを考えざるを得なくなる。
これは文字入力に限ったことではなく、機械を使う上では、何処にもある問題である。ボタンを押せば、決まった動作をするように設定された機械に、日常で接しない日はないが、それが機能不全を起こし、言うことをきかないのも問題となるが、誤作動を繰り返されると、もっと大きな問題となる場合がある。普段は当然のことと、意識することさえないが、押したボタンと違う動作が起きたら、やはり困ったとなるに違いない。文字入力では、キーボードと呼ばれる装置を使うが、これもよく考えたら、多数のボタンの集積であり、それらが正常に機能するのは、不思議と思えなくもない。実際に起きてみると、それを意識せざるを得なくなるが、一つのボタンを押しているのに、二つも三つも文字が表示されたり、連続入力の状態となり、止めることができなくなるなど、その事態に陥って初めて気付かされることが多くある。そうなると、二つのボタンを同時に押すなどという動作は、更なる複雑に思えてくる。設定の一言で片付ければ、どんなことも可能に思えるが、意外な複雑さの末、という見方もあり得るのではないか。仕方なく、画面上の表示を使っての入力を、ここ数日繰り返してきたが、頭で思いつくのに追いつけない状況に、苛々が募りかけたこともある。正規製品でないものでは、色々な違いを押し付けられるから、また苛立つこともあるだろうが。
名簿情報が漏れ、不安を口にする人が沢山居ると報じられる。秘密など大して無いのに、何故不安を感じるのか、違和感を抱く人は居るに違いないが、話題に上ることはない。弱者を思い描けば、当然と思えるのだろうが、それが間違いなのではないか。個人情報の保護の問題で、的外れな議論が盛んなのも、本質が見えないからだろう。
もっと不思議なのは、これほど、自分のことを知られたくないと思っている人々が、他人のこととなると、何でも首を突っ込みたがることだろう。何が真実なのか、判断材料さえ持たぬ人が、噂話を種にあれこれ意見を出す。画面の向こうで、常識も見識も持たない人が、したり顔で持論を展開するのを眺め、自分も、とでも思ったのだろうか。愚の骨頂とも思えるが、当人はいたって真面目なようだ。野次馬は、迷惑な存在として批判されるが、その場の混乱を招かぬとも、他人の話に首を突っ込むことは、様々な迷惑を招くことはあれ、何かの役に立つことなどは殆ど無い。にも拘らず、事件が起きる度に、その大小に関係なく、動機は何かとか、背景はどうかとか、うるさい程に口を出し、他人の生活に土足で上がり込む。特に悪質と思えるのは、重大な事件に関して、まるで自分が取り調べに参加し、裁判に関わっているかの如く、あれこれと知りたがることだろう。人を裁く上で、動機を知ることは確かに必要かも知れないが、他に役に立つことはない。よく引き合いに出されるような、悪質犯罪を未然に防ぐ為、という理由は、犯罪が常軌を逸している程、成立しないことに気付かぬ愚者の戯言に過ぎず、時間の無駄でしかない。無駄と言われると、余計に知りたくなるなど、まさに愚の骨頂であることに、この手の人々は気づく筈もない。もし、狂気が理解できたのだとしたら、自分がその域にあることだと忠告したとしても、そんな人には何も届かないだろう。
どこに住みたいか、そんな調査は度々実施されてきたが、時代の変遷に従い、大きく変化してきた。都会への憧れが強まり続けていた時代には、地方からの移入者が増え続け、供給が間に合わない程だった。少し事情が変化すると、地方への移動が見られるようになってきたが、まだ少数派に過ぎないようだ。
都会でも、なるべく自然のある環境を、と望んだ人々は、郊外に一戸建てを買い込み、子育てや庭いじりに精を出した。だが、子供が離れ、体力の衰えを意識するようになると、便利な場所に住みたくなるらしい。冷たく感じられるビルが建ち並ぶ風景も、買い物に便利な立地を優先し、まさかの時の為の備えを意識すれば、大病院がそばにある都会に、魅力を感じるようになる。終の住処と折角建てた家も、誰も住む人がいなくなれば、ただの箱のようになってしまう。ずっと昔に、若者たちが出て行った田舎の家は、既に、もぬけの殻となり、荒れ果てた廃屋と化していたが、彼らが夢を実現させた都会の新居も、こんな事情で主を失うこととなる。時代の移り変わりは、自然より便利さを求める、環境への意識の変化を起こさせ、主を失った家は、そのまま打ち捨てられ、荒れ果てていく。この世代は、気付かぬうちに多くの廃墟を産み出したのかも知れない。今、これらの廃屋が町にも田舎にも目立ち、大きな問題となっている。その背景には、様々な課題が示されているが、解決の糸口さえ、見出せぬ状況にある。全てが、金で片付くものならば、補助金は確かな手立てになるに違いないが、住む場所への関心という見方からすると、それ程簡単な話では無いようだ。自治体の提案を待つだけでなく、周辺住民の考えも重要になってくるのだろう。まだ、これといったものは出てきていないようだが。
自宅に居なくても、電話連絡ができる。こんな当たり前のことを書いても、誰も不思議に思わない。だが、ほんの四半世紀前には、そんなことが起きるとは、誰も思わなかったのではないか。技術の発達は、夢の実現ばかりに目が集まるが、実現後の環境整備にこそ、重大な役割があるのではないだろうか。
夢にも思わなかったことが実現したことの一つに、この独り言を覗いている人たちが利用しているインターネットがある。これも皆が当たり前と思うのかも知れないが、今や何処からでも利用できると言われる。携帯できる電話が、接続の為の端末となったばかりか、それ自身が入出力の機能を備えることで、電話回線として整備された仕組みを、そのまま利用することができるようになり、一つの当たり前がもう一つの当たり前に置き換わった。これが何処からでもを実現したと思っている人も居るかも知れないが、実際には肝心の機器の普及が不十分で、まだ誰もがというわけにはいかない。勝手にそう思い込むのは、それぞれの自由だが、反応できなかったことを、批判された方はかなわない。事情を説明しておけば、と思うかも知れないが、こんな状況は互いに理解しておくべきなのではないか。最新と言われた時代には、気がついたのに、今は何故、ということ自体、おかしなことかも知れない。そんなこんなで昨日はアップできずじまいだった。やれやれ。