移動の季節に近づく危険、皆の思惑とは違う動きに、計画が大きくずれ始めた人も居るだろう。遠出を諦めた人が居る一方、生活の場が乱され始めた人も居る。近くの水場の氾濫を、心配する声も、錯綜する情報の下では、鎮めることもできないが、危険を回避する為には、万全を期すくらいの心持ちが必要なのかも知れない。
危険を知らせる情報にも、様々な段階があり、それぞれに判断を迫られる。未然に防ぐ為という目的もあるから、必ずしも絶対的な危険を表すものではないが、それぞれに割合を示すものと受け取られる。しかし、地域全体がそれに指定された時、何処に逃げれば良いのかと戸惑う人も居る。事前に調べておけば、その地域の避難場所が指定されており、近隣で最も安全な場所、といった受け止め方が為される。だからといって、そこまでの道程も安全か、と言えば、そうとも限らない。何度も間違いが繰り返された為か、最近は、勧告や指示が出されたからといって、闇雲に避難することを、思い留まらせる情報が加えられる。決められない人々にとって、どちらが役立つのか、決め難いものだろうが、ただ責任回避の為だけと、この手の情報の選択が為されているのだとしたら、困ったものと言えるのではないか。言われないと動けない人々にとって、指示は重要な役を果たす。それにより、助かった人の数の方が、もしも、危険を冒した避難で、被害に遭った人の数より多ければ、そちらの選択をさせる必要がある。とは言え、責任の言葉を殊更に取り上げる社会では、危機回避としての言い回しが使われるのも、致し方ないということだろう。だからこそ、判断力が必要となるが、どうしたものか。
ばれなければ良い、という思いを抱いた経験のない人は、おそらく居ないだろう。例外があるとすれば、罪の意識さえ抱かぬ、異常な心の持ち主が、それにあたるかも知れないが、専門家が指摘する程、そんな形で精神を病んだ人が、世に溢れているようには思えない。極端な例は、人の関心を引くが、事実ではないことも多い。
特殊な例に目を向けることで、卑近な例を見失うことは、屡々起きるようだ。皆が同じように経験することとして、嘘を吐いたり、悪さをしたり、様々に小さな罪を犯すことがあるが、その多くは、厳しく罰せられずとも、何かしらの形で、矯正されることとなる。子供の心は、素直であるとの解釈が一般だろうが、上辺に騙されぬように、冷静に分析すれば、そこに、様々な歪みを浮かび上がらせることができる。異常という範囲には至らぬまでも、間違いを繰り返すことは多々あり、その過程で、悔恨や反省を繰り返すことで、人としての道を踏み外さぬ人格が形成される。だが、全てがある形に収まるとは限らない。不正を働き続け、反省より言い訳、正当化ばかりを主張し、歪んだ人格を築き上げる人も、中には居る。それによって、地位を手に入れられれば、不正の積み重ねこそが、功績の根源となったと言えるのだろうが、所詮、砂上の楼閣は、崩れ去る運命にある。そんな不安に苛まれ、より大きな罪を犯す人も居れば、遂に反省へと至る人も居る。どちらが人の道として正しいのかは、改めて論じるまでもないことだが、渦中の人々は、自らが犯し続ける罪に関して、盲目を装うのではないだろうか。その結果として、小さな成功を収めたとして、どんな意味があるのか、本人に聞いてみなければ分からない。同じ小心者でも、罪に手を染める人とそうでない人には、どんな違いがあるのか、人の心は理解の及ばぬものなのだろう。
何故、と思うことは数多あるが、中でも、人との違いに関する話は、どんなに説明されても、理解に至ることは無い。子育ての最中、他の子供との違いに悩む親は多い。僅かな違いを殊更に取り上げたり、成長過程のずれを無視したりと、子供への愛情の歪みに、他人から見れば、違った形の親ばかにしか思えないものだ。
そんな人々に納得の材料を与えるものに、先天性の障害なるものがある。普通の考えからすれば、異常を固定することになる理由に、強い抵抗を覚えるものだが、元々、異常な程の拘りを抱く人々には、全く違った受け止め方があるのだろうか。子育てという過程における、自らの責任の回避という、唯一の目的を果たす為には、先天性という、本来ならば、自分の分身としての責任という意味も、一般の受け入れ難さより、ある責任からの解放という魅力へと、変貌してしまうものらしい。それにしても、身勝手な解釈は、子供の成長に関する疑問という、些細なものから、一生背負うべき障害へと、膨らむことで、納得できるという話は、普通の考えでは、とても理解できるものではない。こんな下らなさに、人の関心は一気に薄れるが、当事者は、障害を糧に、様々な権利を手に入れようと、更に活動の幅を広げる。権利主張が当然とされる時代にあって、異常と受け止められる症状も、障害との解釈を加えれば、様々な支援を勝ち取ることができる。対症療法が、唯一の対応法と見れば、これも最適の選択と見なせるだろうが、根源の、障害の真偽へと目を向けると、話は大きく違ってくる。目の前の問題を解決しようとする動きが、実は、大元になる問題から目を背けていることに、気付かぬままなのだ。突然の解放は、障害との診断を外すことから始まる。そんなことは、起きないのだろうか。
大切なものは、人によって違うのだろう。だが、一つだけの共通点はあるのではないか。粗末にする人は居ると言っても、失えばそれまでとなれば、それだけのことなのだ。これほど単純な図式も無いと思うが、これさえ理解できぬ人が居るらしい。それ以上の圧迫の結果、という解釈は、本当に成り立つものなのか。
名誉を回復する為に、といった説明も、後世への影響を考えても、一部の人を除けば、理解できぬものと映るだろう。侍の時代の象徴とされた、腹切りに比べ、縊死には卑怯という印象が強かったようだ。その選択へと至った過程に、様々に想像を巡らすのも、人の勝手には違いないが、何の意味があるのか、見えてくるとは思えない。機械を相手に暮らす時代には、困った時に電源を切るのが、切り札のように扱われる。そのうち、それとの類似を引き合いに出すようになるかも知れないが、機械は、電源を入れれば、何事もなかったかの如く動き出す。命という接点を切ってしまえば、何も戻せないことに、生き物として何の感覚も抱かないのか、という指摘も、おそらく常軌を逸してしまった人には、意味が伝わらないのだろう。犯罪と認定された訳ではないが、職業というより、人間としての倫理を逸脱した行為には、凶悪な犯罪を実行してしまった人と同様に、常軌では理解し得ぬものがある。既にその域にある筈のものを、まるで理解の範囲にあるかのように、扱い続けようとする動きに、野次馬根性や出歯亀根性を連想するのは、決しておかしなことではない。大多数の正常が、ほんの小さな異常な存在で、汚される状況に、分析や解釈は、役立たずに過ぎない。倫理や道徳も、そんな感覚で考えるべきもので、違う見方を適用した途端に、枠自体が崩壊することに気付くべきではないか。
不思議と表すのが正しいのか、確固たる根拠はないのだが、そんな人に出会う度に、首を傾げてきたことだけは確かだ。与えられたもので満足し、新しいことに挑むのを、避け続ける姿は、学び舎には馴染まぬものと映ってきたが、その反面、知りたがりの出歯亀根性を、発揮する姿には、どんな欲望が潜むのか、見えてこないのだ。
同じ「知る」という行為の筈だが、当人にとっては、全く違った範疇に分けられるらしい。学びに必要となる、知りたいという欲望は、欠片さえ感じられず、資格獲得に必要最小限な要素を拾い集めることに、力を注ぐ。一方で、学ぶという行為とは全く無関係の、知りたい欲は、年を重ねるごとに強まり続ける。どれ程の知識を身に付けたかを、確認される状況では、鳴りを潜めた欲望が、そのたがが外れた途端に、膨らみ始め、弾ける程に成長する。他人の不幸に首を突っ込み、権利の侵害へと繋がる程に至る人々は、それを欲することになったきっかけを、意識することは殆ど無い。理解の程度を試される訳でもなく、何を身に付けたかを確かめられることも無い。それ程に気楽だからこそ、欲望が膨らむのだ、という解釈は、間違いとは言えないだろうが、何が気楽さを決めるのか、という問いに、答えられる人は居ないだろう。これほどに大層に取り上げる必要はないのかも知れないが、例を挙げたら、少し受け止め方が違ってくるかも知れない。誰もが将来への期待と不安の入り混じった感覚を抱き、時に、悩みに沈むこととなるのだが、その一方で、将来が決められているという感覚は、受け入れ難いものとされている。日々の積み重ねが、将来の展望へと繋がるという考え方は、まさに、知りたいという欲の大切さを表すが、それとは違った約束に、一部の人々の興味が集まる。健康に暮らしたいという望みを持たぬ人は居ないけれど、それがどう保証されるかについては、人それぞれに違った考えがある。自制することで、ある範囲に留めようと努力する人が居る一方で、暴挙を繰り返した挙げ句に、反省頻りとなる人も居る。そこに、体質を決める因子を決める技術が提供されたら、果たしてどんな反応が出るのか。未だ不完全なものに、魅力を感じる人は、何が知りたいのか。
増税の影響がそろそろ取沙汰される時期なのだろうか、経済に関わる立場にある人々は、様々に算出された数値を操り、持論を展開させる。だが、庶民にとって何が重要かと言えば、日々の生活しか思い当たらない。財産がどうなるかや、将来の生活は、と問う人も居るだろうが、それ以前に、毎日の生活費は、が肝心なのだ。
提言を示す為には、何らかの根拠が必要となる。そんな立場の人にとっては、数値解析が必要となるのは当然だが、日々の生活に追われる人々には、何処か別の場所の変動など、気になる筈も無い。目の前に並ぶ商品の値段や、日々必要となる経費の変動こそが、実感が得られるものとして感じられる。国や世界を対象とした分析を施す人から見れば、余りに小さな範囲の話だが、一個人の感覚はそこにしか依拠する所は無い。本来なら、その集まりがより大きな単位の状況となる筈だが、現在の分析の結果を眺めると、何処かに乖離があるように思えてくる。その理由は、担当者の持論にあるのではないか。多くの担当者は、出された数値を分析することより、自ら考えた筋書きに合致する数値を選び出す傾向がある。様々な様相を呈する結果からは、正反対の解釈も可能で、それぞれに好ましいと思えるものを選び出し、自分の論を補強する訳だ。色々な主張が聞かれれば、その中から都合の良いものを選び出せば良い、という考え方もあろうが、国策などの議論の場合には、都合で決められては、かなわないと言いたくなる。朝令暮改程には極端ではなくとも、政権交代により、あちらからこちらへと、振り子が振れるように振り回された経験のある人々は、適度な安定を望むのではないか。自らの決断が、そんな混乱を招いたとしても、他力本願を旨とする人々には、理解の及ばぬ範囲の話に映る。楽な方が良いという判断は、昔から続いているが、だからといって、全体が衰える状況は、好ましいとは言えない。この変化が一時的には好ましくないとしても、長い目で見るべきなのではないか。
教え育む現場は、何故、これほどに荒廃してしまったのか。当事者を前に、こんな苦言をぶつければ、当然の如く、山のような反論が返ってくる。だが、それも、最近の傾向は、諦めにも似た、溜め息まじりの呟きが増え、現場の荒廃を実感させるものに思える。本質を見失い、対症療法しかできない人々の、開き直りの姿に見えるのだ。
何故、このような事態に陥ったのか。理由は如何にも単純だが、その坂道を下っていた最中には、誰も気付かぬままだったのだろう。安定の時代には、傾向と対策が最優先され、役に立つ、という言葉が、必須要素として扱われた。その結果、現状のような荒廃を招いたのだ、と指摘すれば、当時、現場で活躍した人々は、遺憾に思うことだろう。最善とされたものが、最悪を招き入れたとの指摘に、反論を唱えたくなるのも、無理もないことなのだ。しかし、そういう人々には、よく考えて欲しいことがある。教育とは、何を施す行為なのか。役に立つとは、どんな状況を意味するのか。多くの人は、そんな疑問を突きつけられた経験さえなく、当然のことだが、自ら、その手の問いを思い描いたことも無い。にも拘らず、皆がするからと、神輿を担いだことに、正当化の為の主張が必要となるのだろう。その程度にしか考えられない人が、現場で活躍したことは、実は恐ろしい状況を示していたのだが、その反省が頻りとなっている現状は、深く考える人だけが、活躍しているのだろうか。これもまた、恐ろしいことに、何の変化もなく、皆が向かう方に歩むという、安易に走っているようだ。例えば、剽窃の禁止に関しても、兎に角、丸写しを禁じることが、最優先とされているのが、現状のようだが、真似ぶ事の基本を伝えぬままの、禁忌事項の提示には、教育の基本の喪失が感じられる。あれも駄目、これも駄目、と言われて、何ができるか、考えたことさえないのだろう。本質を見抜けぬ人々に、現場は荒れ放題となっているが、その中で、目先の誤摩化しが横行するのは、当然なのだ。