いつ頃からか、自虐的な展開が人々の好む所となり、耳目を集めたいと思う人は、自分の欠点をさらすことが、最短の道と言われるようになった。笑いを取る職業では、特にその傾向は著しく、常識では考えられないくらい、自分を痛めつけ、無価値な人間であると示すことが、通例となった。これは、おかしくないのだろうか。
本人は笑って貰う為に必死となり、自分の価値がそれで無くなったとしても、笑いに変えることで満足したのかもしれない。だが、笑う側はどうだろうか。誰もやらない馬鹿げた行動をしたり、如何に常識を逸脱してるかを誇示するような人々を眺め、嘲笑にも似た反応を示すのは、何の問題も無いことだろうか。常識という括りが、こういった問題において適切かどうかは、確かではないだろうが、笑いの対象とはいえ、そんなものを眺めることで、笑いという形でストレスを解消するのは、いかがなものだろう。こんなことを殊更に取り上げること自体、下らないことに違いないのだが、それにしても、度が過ぎる見せ物が、世の中に溢れているように感じられる。本人が納得しているし、観衆も楽しんでいるのだから、という考え方は、正しいもののようにも見えるが、このような状況が、違う場面で生じることは、無い訳ではない。とすれば、同じ反応が見られたとしても、それは笑いの対象に過ぎないと、受け取られることも十分にあり得る。だが、当人には、笑いを取るなどという思惑は無く、ただ真面目に振る舞っただけに過ぎないとしたら、果たして、どんな反応が示されるべきだろうか。弱者の保護という言葉が並ぶ一方で、こんな形での虐待が繰り返されるのが、今の世の中の常かもしれぬ。
感染症との戦いは、人類の歴史において、ずっと続いてきたことだ。人の存在がそれ程でもなく、広い地域に点在する程度だった頃には、感染の広がりは、一つの家族、集団に限られ、それが絶えるだけのことだった。それが、何らかの作用により、集団を形成するようになると、被害の規模が一気に広がることになった。
都市国家の形成には、様々な要因があったのだろうが、現代社会では、ある意味当然のこととして片付けられ、考えても仕方の無いことのように扱われる。人の存在も、爆発的な増加を経た後は、点在は一部の極端な気候の土地に限られ、人が住まない地域を探すことが難しくなる。このような状況では、各地に人口集中する場所ができ、感染症の爆発的な広がりが、起きる環境が整うことになる。これまでにも、黒死病と恐れられたペストや、スペイン風邪と呼ばれたインフルエンザなど、恐るべき勢いを得た感染症が、都市部を中心に蔓延したことがある。衛生状態の違いから、現代社会では、全く同じ事態は起きないとされるが、油断は禁物、新たな感染症の登場は、新たな危機の到来を予感させる。SARSと呼ばれたものも、一時的な流行はあったものの、恐れられた程の影響は及ぼさなかった。今、人々が恐れているのは、エボラ出血熱と名付けられたウイルス感染症だが、発見から随分時間が経過してからの、爆発的蔓延に、首を傾げた人も居るのではないか。当時の話では、余りの感染力と劇的な致死率から、感染の広がりの機会を得られぬとの解釈があり、心配は必要だが、初期対応さえ誤らなければ、といった説明があったと思う。それが、今のような事態に陥ったのは、どういう訳か。一つには、医療行為により、患者の病状がある程度の期間保てるようになり、逆に、感染の機会を増やすことに繋がったのでは、と思えること、もう一つは、当時からも予期されていたことだが、移動の速度の上昇が、感染拡大を高める効果を持つらしいこと、があるようだ。ここから、どんな経過を辿るのか、読み取ることは難しいが、運を天に任せる訳にも行かないだろう。
地政学という形で捉えられる変化では、ごく一部の地域に限定されたものが大部分で、本来ならば、全体からすれば無視できる程度のもの、と受け取られる筈だろう。だが、それを殊更に評価し、影響の大きさを過大に見積もるのは、何故なのか。前世紀の大戦の発端を眺めると、それが見えてくるのかも知れない。
きっかけはほんの小さなことから、ということは、教科書から学ばされた気がするが、その時期の情勢を細かに捉えることは、無かったように思う。ある見方からすると、爆発寸前の状態に、微小な針先のような刺激が加わり、制御不能な事態に陥ったとされる。全体から見れば、ほんの短い期間に、二度も同じようなことが起きたのは、ある国の情勢が大きく影響したには違いないが、それにしても、これほど拡大したことについては、それだけで説明できるものではない。世界を二分する戦いへと導く為には、一対多数の勢力分布ではなく、一に与する国の存在が必要となる。それぞれに様々な問題があり、国ごとに異なる課題を抱えていた事情があった為に、こんな悲劇に向かう力を抑えることができなかった、と言えるのかも知れない。そんな経験からか、地政学という括りで、様々な地域の問題を捉え、限定よりも、拡大を優先させることで、その危険性を評価すれば、その殆どが過大なものとなるのもやむを得ない。だが、狼少年の警句から見えるように、何度も空振りを繰り返すことは、危険性の認識を鈍らせ、ついには、不感症へと繋がることにもなる。同じ過ちを繰り返すとは、人間の性のように扱われることだが、こんな所にも、度を過ごした言動が、きっかけを与える事を表すものがありそうだ。危機を確かに捉えることの難しさは、今更言うまでもないことだが、それらが確率的な事象に過ぎないことを忘れ、歴史という確定的な事柄の集まりから見極めようとするのは、無理難題であることを認めておかねばならない。
グローバルという言葉に、強い反発を覚える人は多い。都合の良し悪しで使い分けられ、本質的な意味を成していないとの指摘も、あながち的外れとは言えぬようだ。中でも大きな要因とされるのは、言語学習の問題だろう。共通語という呼び名に馴染み深い国民にとって、強制にも反発しないのだろうが、環境の違いは歴然なのだ。
何故、このような言葉が多用され、利用されるようになったのか。その理由の一つは、産業の振興にあるのだが、一方で、経済の停滞も要因の一つとすべきではないか。振興と停滞は、反語のように映るものだが、地域を限定して使うと、一方がもう一方を誘引する要因となることが判る。ここが、グローバルなる考えが多用される背景となり、より安い品物を手に入れる為に、仕入れ先を限定せず、見知らぬ土地をも視野に入れることとなる。開発などの初期投資を入れたとしても、最終的な儲けが見込めれば、決断を躊躇しないという考えも、この類いの展開を後押しし、売り場は変わらずとも、買い入れ先が次々に変わるという図式が出来上がる。停滞から衰退へと落ち込んだ時代に、海の向こうの国は、そのような展開に熱を入れ、価格の下落こそが使命のように扱われた。だが、ある時点で施政者が気付いたのは、安物が市場に出回ることでの利益より、産業を失うことによる損失の方が、遥かに大きいことであり、それにより国力自体が減退することだった。その後の展開は、よく知られた所だが、自国生産を奨励する動きが強まり、価格のみを基準とする考えを、リスクの一つと見なすことになった。地産地消は、こんな中で、産み出された表現だろうが、これは、グローバルとは相容れぬ考えではないか。身の丈にあった生活とか、分相応とか、そんな言葉が再評価されるのも、リスクを持ち込まぬ為の知恵の一つとの認識があったからだろう。拡大だけを見込む考えに、警鐘が鳴らされるのも、その現れの一つなのだ。
リスクが取沙汰されるのは、そこに回避の問題が重要となるからと言われる。問題として顕在化する前に、それを避ける手立てを講じることで、課題を背負い込むことを防ぐという戦略だが、安定期であるからこそか、現代社会では、必須の要素として扱われる。疑うことを知らぬ人々は、振り回され続けても、避けることに必死となる。
少し冷静になって、過去の経過を眺めてみると、その多くが、実は心配し過ぎの空振りのようなもので、避けた筈の大きな山は、幻に過ぎなかったようだ。それでも、備えが肝心との考えからすれば、たとえ的を外したとしても、危機に面する代わりの手間、という解釈が施される。だが、何度もそんなことばかりが起きていることからは、果たして、この戦略が正しい選択なのか、と疑いたくなる。特に、甚大な被害を及ぼす災害などに見舞われると、それらが予想外の展開を示し、備えが何の役にも立たなかったことが見えてくる。小さなリスクに備える手立てばかりが、大きく取り上げられ、肝心の重大なものへは、無力に終わるような回避策は、無駄と呼ばれても仕方ないものだろう。にも拘らず、依然として、その効果が過大評価され続けるのには、別の要因があるのではないか。回避を謳うことで、利益を得ている人々にとって、この図式は絶対の存在であり、それが描かれてこその利益確保、となる訳だろう。だが、こんな無駄を繰り返した挙げ句、甚大な被害に見舞われては、諦めにも似た感情しか抱けない。安定しているからこその無駄、と言ってしまえばその通りだが、果たして、無駄を無駄のままで終わらせて、良いのだろうか。
上昇を続けていた相場が、脆くも崩れ始めた。その際に取沙汰されたのは、地政学リスクなる言葉である。企業の業績にとって、需要と供給の均衡を問題視したり、購買意欲の上げ下げに注目することは、理解し易いものだが、地政学とは何か、それが危機へと繋がるのは、どんな仕組みによるのか、簡単には理解できないもののようだ。
では、何故、直接には結びつかないようなものを、引き合いに出すのだろうか。これまでに、何度も取り上げてきたことだが、相場の上下に関して、常にその原因を分析するのが、経済を学問とする為に不可欠と考え、それを並べた結果なのではないか。様々な後付けの理論が展開され、分析を繰り返すことで、そこに何らかの規則性を見出したり、小さな兆候を見つけることで、学問として成立するのに必要な論理を組み立てる。一見、当然の筋書きに思えるものだが、所詮は後付けの知恵に過ぎず、何度間違えても、懲りずに続けられる手順に過ぎない。それでも、何らかの拠り所を欲しがる人々には、魅力的に映るのだろうか、毎度お馴染みの分析が披露される。その中で、どちらかと言えば、遠い存在として扱われるのが、地政学なのではないだろうか。ある地域での政情不安が、様々な形で関係国に伝播し、全体の衰退へと繋がりかねない、という解釈は、たとえ無理筋だと思われても、結果としてそんなことが起きれば、可能性は高くなる。そんなことの繰り返しが、歴史上で起きてきたからこそ、こんなことを強い要因と扱うのだろう。だが、歴史上での一大事となったことは、実は、内戦や局所的な紛争ではなく、大戦へと繋がったことであり、その可能性を考慮すれば、世界全体の混乱を考えるべきとなる。こんな考えからすれば、最近の地政学は、少し視点がずれているように見える。どんなものだろうか。
批判的に読み、論理的に考える。情報の収集において、重要となるべき二つの要素だが、それを備える人の数は、驚く程少ないようだ。鵜呑みにし、冷静さを失い、狂気の沙汰を起こす。程度の差こそあれ、危機に瀕した時の人の反応は、所詮こんなものに過ぎない。後付けの分析で、様々に批評されるのも、この程度だからだろう。
何しろ、こんな批評をする人々が、危機に直面すると、傲慢にも見えた態度が姿を消し、不安に苛まれた表情が浮かぶ。当然、冷静な分析はあり得ず、判断の誤りを繰り返す。だからこそ、二つの要素の重要性を再認識すべきなのだが、人はできないとの諦めに走る傾向を持つのだろうか。基本は積み重ねに過ぎず、普段からの意識が徐々にその力を身につけさせる。ごく単純な図式に過ぎないが、これほど多くの人々が、正反対の行動を選ぶ所を見ると、単純であっても、簡単ではないらしい。批判的な指摘も、集団行動を重視する社会では、異端児扱いされ、別の危険にさらされる。だが、その過程を経てこそ、一方的な批判ばかりでなく、改善へと結びつける端緒を見出す手立てを、手に入れることができるのではないか。意外な程、こういった手順を追うことを嫌い、面倒を避ける傾向があるのは、何故なのか。理由を見出すことが難しい。だが、その結果として、損をするとなれば、もっと真剣に考えるべきことがあるのではないか。鵜呑みを常とする人々にとって、多様性を備えた筈のネット社会も、著しい偏りばかりが強められ、操作を目指す人々の思うつぼとなる。そうは言っても、旧来の情報源の代表たる、新聞の凋落ぶりには、目を覆うだけでは足りず、破り捨てる必要さえ感じられる。前言撤回は朝飯前、たとえ嘘を見破られても、懲りることなく、同じ誤りを繰り返す。ここでの批判は容易だが、その前に、欺瞞を見破ってこそ、批判の意味がある。その力の無さに、何かを感じるべきなのでは。