パンチの独り言

(2014年8月18日〜8月24日)
(基本、滞留、誤解、組織、罪と罰、不安材料、資格)



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8月24日(日)−資格

 資格は必要だから取得する、という考え方は既に古いらしい。必要になる前に、準備を整えておく、という考え方が、自信が無く、不安に苛まれる世代に、蔓延しているのだ。その辺りの事情の変化が、どんな影響を及ぼすのか、すぐには理解できないが、よく考えると、その波に乗り、事業を興し、繁栄を手に入れる人々が居る。
 傾向と対策の時代が長く続く中では、こんなことも当たり前の成り行きであり、それを揶揄したとしても、何の役にも立たないだろう。だが、踊らされ続けた人々にとっては、思わぬ出費が重なり、その中で手に入れたものが、何の役にも立たずに終わる、といったことが起きるのだ。不安を材料に、人の弱みに付け込むと言っては、心外と言い返すに違いないが、この手の商売においては、目的を外した話がよく聞かれる。不要なものでも、羅列させれば、相手に対する好印象に繋がる、という説明を聞く限り、反論はし難いものだし、堅い財布の紐を緩ませるきっかけになるかも知れない。そこに乗じるのは、資格ビジネスと呼ばれる商売の手練手管であり、時に、新たな資格の創出さえ目論むのだから、気をつけるべき対象ではないか。ただ、不安は常につきまとうものであり、それに乗じるのだから、苦もなくつけ込む余地が見つかることの方が多い。これでは、単に、騙されているだけではないか、という意見もあろうが、当事者にとっては、資格という形のあるものを手に入れさせたのだから、との説明が施され、不当なことは何も無いと結論づけられる。真実はどうであれ、免許と呼ばれる本当に必要な資格以外は、その場になってから試みれば良いと考えれば、もう少し事情が変わるだろう。

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8月23日(土)−不安材料

 もう、訪ねてくる人も居なくなった為に、閉じてしまった掲示板がある。就職活動をする人々の意見交換の為に設けた場所だが、景気が回復するに従い、そんなことに時間を費やす人は減ってしまったようだ。現実は、全く別の事情があり、閑散としてしまったからだと思うが、当事者たちの話を聞いていないから、事実は判らないままだ。
 それまでの遣り取りに関しては、旧サイトの掲示板たち、という項目から、読みに行くことができるから、もし、関心のある人が居たら、ぜひ覗いてみて欲しい。閑散となってしまった理由の一つに、盛り上がりに欠ける状況があったと思うのは、不安を中心に質問に来る人々に対し、このサイトに関わっていた人々が、ごく冷静に回答していたからだ。盛り上がりは、その内容がどうであれ、兎に角、的外れなことでも勝手な発言が繰り返される場に、起きるものとされる。それに対して、無知な故に、不安を募らせる人々に、噛んで含めるように、教え諭すような場は、参考になる事柄があったとしても、それによって、不安が解消されるから、それまでとなる。騒ぎが広がるような状況に無いから、面白くなることも無いし、放言、暴言が許されないような空気を持っていた。掲示板としての本来の姿を示していると、管理する立場からは思えていたが、そんな所を必要とする人は、実は少ないのだということが、何となく判り始めていた。だから、結果的には、閉じることとなった訳で、成り行きとしては仕方ない部分がある。ただ、今読み返しても、同じような不安を多くの人が抱き、その過程を経て、何かしらの到達点に向かうことが判る。そこでの話題の一つに、資格の取得の意義があるが、これは、ある業種に限ったことでなく、実は様々な職に就こうとする人々の共通の話題のようだ。まるで、資格が武器のように思う人々には、その取得は死活問題のように映るが、現実には、必要に迫られてからでも、間に合うという回答は、不安を解消することに繋がったのか。

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8月22日(金)−罪と罰

 理研、リケン、りけんとの名が付いた企業やその製品を目にしたことのある人は多いだろう。だが、それが件の研究所から派生したものであることを、知る人は余り多くないのではないか。百年程前に作られたもので、優秀な学者を輩出したとされるが、戦後に解体の憂き目に遭い、研究所自体も消えかねない状況にあった。
 理由の一つは、収益を上げる産業に手を広げていたからであり、それが、現在その名を継ぐ企業の分離へと繋がった訳だ。だが、研究自体にも厳しい目が向けられ、特に、戦時中に行ったものが、広島長崎の悲劇を産んだものとも結びついたことから、大型設備が海に捨てられたと言われる。この際に、研究所の存亡も議論されたようだ。戦前の拡大を続けた勢いが失われ、強い逆風の中で、構成員たちは基礎科学の振興に力を尽くしてきたことが、再拡大に繋がったとされるが、今の状況は、責任を果たす気配もなく、総括を断行する力さえ失った、ある種、情けない姿を晒しているように見える。勢いを増す人々は、廃止を口にしたり、再編を口に上らせているようだが、無能な彼らに、期待する声は聞こえてこない。不祥事に飛びつき、勝手な発言を続ける人に、自身の責任を意識できる能力は無く、目を向ける価値さえ見出せないのだ。だが、そうは言っても、変えねばならない圧力に対し、大したこともせずに、有耶無耶にしようとするようでは、組織としての格など論じることもできない。不正を行い、自らの利益のみを追求した人々は、捏造、改竄などの行為を繰り返し、真実を追究すべき役割を蔑ろにした責任を、それぞれに負わねばならず、今後も厳しい批判に晒されねばならない。一方、組織としての責任は、加担したという事実から、何かしらのものがある筈だが、どうにも煮え切らぬままに見える。確かに、研究者と違い、組織の構成員は、自らの利益には直結しない環境での行為だけに、不正と断定することの難しさがある。しかし、過大広告とも呼ぶべき広報活動は、まさに捏造、改竄と同等の不正行為であり、その責任を負うべき人が必ず居る筈なのだ。これらの人々も、ある意味、同罪として処分する必要があるが、何処か歯切れの悪さが感じられる。監督官庁の役人にとって、仲間とも見なせる人々に、厳罰は、厳しすぎるように映るからか。

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8月21日(木)−組織

 トカゲの尻尾きりとか、生け贄を供えるとか、どちらかと言えば、悪い意味で伝えられることが多く、その意義は当然評価されることは少ない。組織を守る為に、個人を切り捨てる行為は、理不尽に映る場合が多いが、何故そうすべきなのかが論じられることは殆ど無く、個人の責任を問う声も、聞こえてこないようだ。
 では、何かしらの不正を犯した組織の責任は、何処にあるというのか。全体責任を問う声も、時に聞こえてくるようだが、不正に加担してこなかった構成員にとって、巻き込まれること自体、理不尽にしか感じられないだろう。それでも、本体がそれまでの形を保てない程の、大きな影響を及ぼすとなれば、致し方ないと見なす必要がある。このような事情は、それぞれに異なることが多いから、一概に決めつけることはできない。にも拘らず、世論というものは、一様な反応をしたがるものらしい。研究という、遠い場所での営みに対して、時に、憧れにも似た反応を示した人々が、不正発覚を境に、身近な話題として取り上げ、下世話な取り上げ方に終始する。問題が起こる度に、対応を誤った組織にとって、当事者たちの個別の対応には、苦慮することが多いのだろうが、全体としては、組織を守ろうとする動きが強いようだ。ただ、この中でも、邪悪とも呼べる動きが目立ち、本来の姿に戻すことは、難しいままとなっている。肝心なことは、組織を守る為には、不正を働いた個人の責任を明確にすることなのだ。誰も悪い人はいない、という論を展開したいのなら、全てが灰色となり、名誉が回復する機会は失われる。たとえ、生け贄を出したと言われようとも、不正を正当に吟味し、その責任を個人に負わせる必要がある。組織論を展開する人間の中に、この肝心な問題を理解できない人が居るのは、この国の最大の欠点であり、それを補う為に、訳の分からない論を展開する人は、何の責任も負わないものだ。たとえ、死を選んだとしても、責任が消えることは無い、という事実も、もっと意識されるべきものだろう。

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8月20日(水)−誤解

 活字離れの話題は、もう遠い過去の話となりつつある。漫画を読み耽る姿に、苦言が呈されたのも、遥か昔の話で、今はそんな状況には無いと言われる。しかし、最近売れている本の紹介で、驚いたのは、その一部が活字での説明より、漫画での説明を優先させていることで、字より絵の状況は何も変わっていないようだ。
 字と絵の違いは何処にあるのか。想像を巡らす必要がある、文字による表現に比べ、即物的な伝達が可能となる絵の力は、確かに大きなものとなる。だが、直接的な表現は、そのままに伝えることは得意でも、そこからの展開を妨げる副作用を持つことに、もっと注意を払った方が良いのではないか。また、本との関わりについても、受動的な態度が主体となりつつあり、読み手からの働きかけは殆ど無いと思われる。書いてあることを理解する、という方法には、何も間違いが無いように思われるが、読書において、そうしている人はどれ位居るのだろう。自らの経験から言えば、読むという作業の最中にも、こちらからの話しかけを続け、遣り取りを繰り返すこととなる。本からの働きかけは既に形となっている訳だから、変わる筈はないのかも知れないが、現実には、読み手の関わりが、様々な変化を産むと見るべきだろう。その意味で、多くの読み手が、内容を正しく受け取らないのも、働きかけの的外れが一つの要因となるだろうが、実は、その前に書いたように、理解しようとするだけで、こちらからの働きかけをせずに、鵜呑みにした結果が、最大の要因となるのではないか。鵜呑みは、書き手の思惑を、何の疑いも挟まずに、受け取った結果と見られているが、本当は、受け取りたいように受け取った結果、であることの方が多いようだ。先日読み終えた本では、翻訳者として活躍する著者が、科学における誤解を如何に防ぐか、という内容を論じるかのような題名が付けられていたが、それ自体が誤解を招くものとなった。実際には、限られた話題を論じるだけで、科学全般を論じたものでないばかりか、翻訳という作業との関わりが主体となり、趣旨が異なっていた。こんな本が増えたのも、活字離れの為との解釈は、確かにあり得るものだが、そんな片付け方が、間違いを招くのだろう。

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8月19日(火)−滞留

 独自に対する評価が上がる一方で、普通という括りが拡大してきたのは、理解し難い状況だったのではないか。特殊性を尊重する一方で、平均に留まろうとする動きが、強まってきたのは、どういう理由によるものか、説明できる人は少ないと思う。逆の見方は、論理的であり、容易に理解できるから、要するに、順序の問題のようだ。
 平均に留まることが優先されると、他との差を見極めることが難しくなる。だからこそ、特殊な能力を持つ人材を、発掘しようとする動きが急となるのだ。だが、その企てが進められる中で、依然として平均に留まり続けようとする人の数が、減らないのは何故なのか、そこに問題があるように思える。おそらく、一番の要因は、自信の無さにあるのではないか。他との違いを主張できる程の状況にあれば、それなりに処すこともできようが、その自信も無く、評価を待ったとしても、自己主張が大勢を占める環境下では、機会を失うことになる。だから、平均に留まる方が、有利な選択と見なされるのではないか。ここまでは、ある意味妥当な流れとも見えるが、残った問題があることに、気付くべきと思える。というのも、平均とは、あくまでも集団の平均であり、同じ表現を使ったとしても、同じ水準を指すかどうかは不確かだからだ。実は、平均に留まるという現象が続いても、その水準は、下がり続けていることが大きな問題であり、それを解消する手段として、特殊性への注目が集まった、という背景もある。その中で、逆への動きが強まったということは、結果的には、水準の向上にはつながらず、下降傾向は更に強まっただけのようだ。時代の流れ、と言ってしまえば、その通りなのだろうが、これが続く限り、人材確保の困難は、解消されることは無く、衰退は、様々な場面に現れることになる。何をすべきかは、依然として判らぬままに。

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8月18日(月)−基本

 独自性を評価する時代なのか。そんなことが取沙汰されてから、既に十分な時間が経過しているが、依然として、皆と同じを選択する人が多い。となれば、独自より普通とか平均が評価されると言うべきではないか。ただ、逆の見方をすれば、そんな状況だからこそ、独自が評価されるべき、とされるのかも知れない。
 いずれにしても、教育現場で、独自性が尊重されていた頃、的外れの指導と、思い違いの表出が、頻出していたことだけは、確かなようだ。その結果、独自とは名ばかりの代物が横行し、誤った評価が下されていた。この時代を経験した人々は、ある意味、被害者だったのかも知れないが、これに乗じて、上昇気流に乗った人々も居るだろう。だが、中身の無い独自性は、早晩馬脚を露わし、何処かで壁に当たることになる。基本を蔑ろにし、奇異なものに擦り寄る手法では、奇抜な提案は可能となる一方、確実な方法を地道に進めることは、苦手なようだ。そんな人々が、そろそろ世の中の中枢を形成するようになっているが、最近の傾向は、余り芳しくないように映る。他との違いばかりが強調され、妥当な道が排除されると、確実さは低くならざるを得ない。このまま行けば、不確実な時代へと、再び舞い戻ることになりそうだが、果たして、社会はそれを許すのだろうか。面倒なことに、四苦八苦した時代を経て、漸く確実な時代へと移ってきたものを、再び手放すとは考え難い。そうなれば、梯子を上り続けてきた、独自な人材を、放り出す方を選ぶのではないだろうか。真意が伝えられぬままに、放置してきたツケが、愈々回ってきた感があるけれど、当事者たちは、そんな責任を感じる筈も無い。つまらない基本に戻ることは、確かに、面白くもない話だろうが、基本こそ大切、という考えに戻ることに、何も悪いことは無いのではないか。

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