パンチの独り言

(2014年8月25日〜8月31日)
(勿体無い、渋ちん、正義、遥か彼方、もつれ、無用、禍根)



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8月31日(日)−禍根

 病気になりたくない、と考える人しか居ないと思う。以前なら、そんな当たり前のことを、一々話題にすることも無かった。だが、最近は、どうだろう。病気を気にする人が増え、高齢者の集まる場所では、その数の自慢話で盛り上がるらしい。若くして死ぬという状況が、稀になるに連れ、こんなことが当たり前となったのか。
 そう考えることもできるだろうが、それにしては、子供や若者を対象とした、病気の話が巷に溢れているのには、違った事情があるのではないか。子育てに悩む親たちに、救いの声に聞こえるという、病気原因説はその一つだろうし、心の問題を、即座に病気と断定する動きも、一つの例となる。病気という言葉に、死との繋がりから、恐れを抱いた時代と異なり、治療との兼ね合いも含めて、治るものとの受け取りが為される時代には、こんな傾向が高まったとしても、問題と思う人は少ないのだろう。心の問題を克服する為には、自身の努力が欠かせないのと違い、病気と断定されることで、治療薬への依存ができるのは、救いの手と感じられるようだ。ある依存から、別の依存への転換は、所詮解決には繋がらぬ、という考えは、こういう中で触れられることは無く、ただ、現実への直面から、逃れる手立ての提供こそが、急務と見なされる。そんな世相を見渡すと、何故、病気好きの人が増えたのかが、最大の疑問の一つとなるが、違う考えを持つ人間に、思い当たる所は見えてこない。治せるから、という一言が、重要な要素になるだろうが、対症療法に過ぎないものや、症状を隠すだけのものに、根治を期待することはできない。一生背負い続ける覚悟が、あるようには見えないから、多分、現実逃避の一種なのだと思うが、それにしても、こんなものを背負う意味があるのか。

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8月30日(土)−無用

 親の収入の高低や資産の有無が、子供の教育水準に影響を与える、と言われる。確かに、最高学府の頂点に座る学校に、入学した子供の家庭経済水準は、平均からかなり離れた高い所にあると言われる。学歴がその後の人生に与える影響を考えると、親の経済状況がそのままに反映され、貧困からの脱却は難しく見える。
 この手の話は、これまでにも何度も繰り返し流されてきた。調査結果から、経済水準と学歴に相関があるとの結論が導かれると、心強い味方を得た人々は、持論を更に拡大させようとしてきた。公教育への投資が、経済水準に比べて低いとの調査も、同じ解釈から、考えを補強する証拠として、引き合いに出される。貧しいから機会を得られない、という図式は、昔から何度も議論の対象となり、解決へ向けての施策が、様々に講じられてきた。それでも、依然として提起される問題として、居座っている状況から判るのは、これらの施策が効果を上げられなかった現実だろう。何が悪いのか、貧困を問題視する人々は、新たな課題を提示するが、おそらく、それらの大部分は、的外れとの結論に至るのだろう。何故こんなことが繰り返されるのか。識者の見識の無さ、と結論づけるのは、如何にも簡単な作業だが、それとて、何の役にも立たないのだから、無駄となるだけだ。的を外しているのなら、的中させる考えを、誰かが示す必要がある。では、何が問題なのか。これまでと違った考えを、示す必要があると言うのは簡単だが、具体的には、何が的を当てるものか、となると、皆総じて黙りを決めてしまう。所詮、素人考えに過ぎないが、資金援助などの外的要因が功を奏しないのは、内的要因に問題があるのではないか。何が内側にあるか、経済だけでなく、教育そのものに対する考えに、問題を抱える親こそが、元凶なのだろう。教育の必要性を意識できない親に、子供の成長を支える気は起きないのだから。

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8月29日(金)−もつれ

 ある人によれば、「景気」という言葉は、この国独特の表現なのだそうだ。上下共に含む表現に、便利な使い方が期待されるが、白黒はっきりさせたい人々が使う言語では、そんな曖昧なものは、使い難いとなるのだろうか。言葉が文化を作るのか、文化が言葉を育むのか、鶏と卵の関係のように見えるが、そんな繋がりを想起させる話だ。
 その景気の回復が期待される中で、今働く人々にとっては、給与の上昇が第一の対象となるのだろうが、これから社会に飛び出す人たちには、働き口の獲得が、何よりも優先される事柄だろう。徐々に数字が明らかになりつつあるが、求人の割合は、確かに増えつつあり、若者たちにとっては、より大きな機会が与えられているようだ。だが、人を求める側にとっては、複雑に入り組んだ、難しい問題に直面していると、言えるのかも知れない。景気に左右されるのは、大手も中小も同様だが、元となる数の大小は、明らかに異なる。大きな数字を抱える組織が、雇用計画を変更すれば、大きな変動が生まれるから、職を求める側にとって、一喜一憂の対象となる。一方で、小さな組織は、少ない数を調整するから、割合としては大きくとも、実数では大した大きさにはならない。これはごく当然の見方だが、現実には、それらの数の変動が、互いに影響を及ぼすから、個々の対象を見るだけでは、答えを見出すことは難しい。雇用情勢が回復途上にある中、小さな組織程、確保が難しくなっているのは、相互作用の結果らしく、極端な例では、下請けから内定を貰った若者が、親会社からも貰った時、決断の結果、人材を失うのは、下に位置する側となったことだろう。その結果、更なる人材確保の手段を見出す必要があるが、このご時世では、大きな壁を見上げるしか無いようだ。最終結果がどうなるかは、まだ判らないものの、景気回復が、必ずしも良いことばかりではない、と言えるのか。

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8月28日(木)−遥か彼方

 責任の所在も問題なのだろうが、それ以外の問題もあるらしい。そんなことを思い浮かべるのは、報道の扱い方が特別なように見えるからだ。思わぬ事故により、報告の日程が乱れたが、愈々発表の日というのに、各紙にその内容が漏れたと見える。一体全体、どんな情報管理が行われているのか、そこからして異様に思える。
 事の発端は、人間失格とも思える研究者集団の、制動の利かない暴走だったのだろうが、それを加速させたのは、組織の広報活動の過大広告だった。これらも情報管理の一種と見なせるが、あれだけ叩かれようとも、依然として腑抜けな言動を繰り返すのには、症状の重さを痛感させられる。それにしても、あれほどの組織をどう処せば、野次馬共は満足できるのだろう。世界が一つの線で繋がれる時代に、こういった話題が、無関係な国々ではどう扱われているかは、不正発覚直後は、度々伝えられたものの、最近は何も聞こえてこなくなった。それも当然で、あちらでは、大々的な発見発表の報に対して、好意的な反応を示したものの、不正が疑われ始めると、その熱は急速に冷め、こちらが騒ぎ出した頃には、忘却の彼方へと飛んでいたと言われる。議論の価値さえ無いものに、いつまでも食らいつき、責任の所在を熱心に論じるのは、この国のある種の人々の特徴だが、ある新聞の大誤報の話を見るに、他人事だからこその興味、としか思えない。本来、論じるべき事柄は、処理し切れぬ程にあるのに、肝腎なものより、飛びつき易いもの、自らの利益になっても、害にならぬものに、しがみつく傾向にある。今回の事例から学べることがあるとすれば、一つには内外ともに正当な評価を下す必要、責任を取る行為よりその所在を明確にする必要、個人を過度に擁護する不必要、といった所か。

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8月27日(水)−正義

 何か悪いことが起きた時、何故、個人の責任を追及せず、組織全体で責めを負おうとするのか。別の言い方をすれば、こんな時、何故、個人ではなく、より大きな存在に目が向けられるのか、不思議に感じることが多い。個人が責任を負う場合も、その多くは、所謂引責と呼ばれるもので、組織の長が謝罪と辞任で、責を果たす。
 長が責任を果たすのは、組織としての考え方であり、その為に、多くの報酬を得ているとの考え方は、間違っていないと思うが、その一方で、不祥事の原因が、上からの命令でなく、現場の判断によるものであれば、個人に帰すべき場合が多いように思う。にも拘らず、より大きな力を持つものが責任を負う、という図式が、当然のように受け入れられるのは、まさに、力の強弱が最大の理由になっているのだろう。弱者は常に弱い存在であり、何かしらの不祥事を起こしたとしても、そこには避けられぬ事情があったとの解釈が、度々論じられるのも、個別の事例を吟味することなく、全体に通用する考え方に、囚われる人が多い為ではないか。それにしても、不祥事に限らず、何かしらの不都合が起きる度に、大きな存在に責任を押し付けようとする考え方が、これほどに蔓延するのは、庶民の浅はかな考えから来るものとの見方は、如何にも的を外しているのではないか。災害の度に、役所関係の責任を問う声が高まるが、この多くも、難癖にも似たものであることに、気付かぬふりを続けるのは、そろそろ止めにしてはどうだろう。勧告や指示といった、弱い働きかけしかできない環境で、個人の判断を尊重するのは、当然のことであり、悪いことが起きた時だけ、別の論理を適用するのは、余りに理不尽なのだ。個人がそんなことをすれば、総スカンを食らう筈だが、報道という役目を負う輩は、何度繰り返しても懲りずに済まされる。徐々に、その辺りの事情が明らかになり、判断尊重が主体となりつつあるものの、有事には、ころりと考えをすり替える。無駄と切り捨てるのが一番だが、弱い者の味方という役柄を演じる限り、いつまでも居座り続けるのだろう。

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8月26日(火)−渋ちん

 安定と言えば聞こえが良いものの、停滞であることに違いは無く、頭打ちになった状況に、人々は下降への不安を抱き続ける。現実に、成長が続いた時代の後の停滞は、気分的には下降と同じに感じられ、様々に縮小や撤退という施策が講じられ、好転の兆しを見出す努力が続けられた。だが、結果は余りにも芳しくない。
 そんな中では、成長に繋げる試みは歓迎されず、如何に萎む勢いを消すかが肝心となる。先行投資として、多方面に蒔き散らかされてきた開発資金も、専ら現状維持にかけられることとなり、視野は狭まる一方だったのではないか。経済状況が閉塞感に満たされると、各個人の感覚も、同じような不安に苛まれ始めるようだ。家庭での先行投資は、資産の増大などに向けられる一方、人材という形での資産への投資に向けられる。企業であれば、配置換などにより活性化が図れるが、子育てではそうも行かない。限られた数の資産を、如何に充実させるかが、親にかけられた務めである筈だが、不況の影響が、こんな所にも明確に表れ始めた。将来を見据える為には、その場での損得を優先させては、物事が成り立たなくなるのは、当然の話の筈だが、無い袖は振れないとばかりに、子供への投資を渋る親が増えてきた。社会への依存は維持したまま、社会を支える為に必要となる経費を、如何に出し渋るかが問題となり始めたのも、世相の現れと思えるが、それが身内にまで及ぶとなると、何が問題なのか、全く見えなくなる。必要だからこそ、教育の機会を与えてきた筈が、必要でも、出費が痛いから、機会を奪う方に考えを変えるといった姿も、どんな心理から来るものか読み取れない。こんな状況が続けば、悪化の一途を辿っていると言われる状況を、好転させる機会をも失うことに繋がることに、一時の利害ばかりに目が奪われる人々は、気付くことが無いようだ。身勝手も、ここまで来れば、反社会的となる。

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8月25日(月)−勿体無い

 傾向と対策の時代、と何度も強調してきたが、分母の減少には流石に勝てず、撤退を余儀なくされた大手の話が、伝えられている。場と教え込む人材を提供することが、この業態での核を成すものだが、撤退話の詳細からは、そこに大きな問題があったことが窺える。個人教育への投資額の問題も、無関係とは思えない。
 公教育への投資に関して、先進国の中でも、異常に低い割合が問題視されているが、実態はどうなのだろうか。依然として、十分な収入を確保されており、人材確保に問題は無さそうに見えるが、現実には、能力低下が著しく、それに輪をかけるような、意欲減退が更なる問題となっている。無駄金といった見方が押し付けられる中で、公のものより、私的なものを優先させる考え方が、学校とは異なる教育機関への依存へと繋がった。だが、それも場の提供が無くては、実現しない訳だから、通信を介した事業に多くの人が頼るのも、当然のことなのだろう。対面方式に比べ、様々な欠陥を持つ方式だが、無い袖は振れない事情もあり、隆盛を極めていた。情報漏洩が、最大手の足をすくった時、どんな変化が起こるのか、予想もできなかったが、これまでの所、何も起きない、というのが、正解となりつつあるようだ。一方、対面の代表格だった、予備校の業態も徐々に変化し、有名人を抱える組織は、効率化と称して、対面より通信を選び始めた。その中で、前者を優先し、先頭を走っていた組織が、縮小を余儀なくされている。昔は、地方から都会の大学に憧れを抱くのと同じように、その前段階でも、都会へと向かう人々の数は多かった。だからこそ、寮まで整備しての経営もあり、だったのだろうが、今や、情勢は全く異なるようだ。分母を構成する数が減ったことが、最大の要因と見られるが、果たしてそうなのか。教育への依存の形が、徐々に変化し、そこへの投資を渋る親の存在が、実は大きいのではないか。経費の問題は、子供の数の減少に加え、こんな所にも影を落とす。

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