災害の度に、自然の脅威に話が及ぶ。時に、強い恐怖が心の傷となり、跡を残すとも言われる。確かに、強い衝撃は様々な形で、その痕跡を残すのだろうが、今の扱い方には、違和感を禁じ得ない。ここでも、弱者保護の考えが核となるが、並ぶ根拠には、論理性は感じられず、結論ありきの感は否めない。
自然を怖い存在と見なすことは、時に必要だろうが、普段からそんな接し方をする人は、居ないに違いない。草花が咲き誇り、鳥たちが囀り、季節の虫が鳴く声に、心が和まぬ人は居ないだろう。うるさい程の声を響かせていた蝉たちは、季節の移り変わりとともに、その音量も絞られ、代わって、秋の虫たちが昼間ではなく、夜の演奏会を奏でている。こんな変化を楽しめぬ人は、居ないと思うけれど、人の世は、理解の及ばぬ世界かも知れない。大災害の後、平静を取り戻すまでの間、山積する課題に戸惑い、些末な事物には目が向かない。自然の脅威ばかりに怯える中では、動植物たちが示す動きにも、目も耳も働かない。いつの間にか、徐々に落ち着きを戻し始めると、そんな方にも心が向き、ふと、変化に目がとまる。忘れてならぬことばかりが、並べ立てられる中では、心の平安は、訪れる筈も無い。だが、生き物としての人間は、論理ばかりを振り回す、理性を持つ存在だが、その一方で、様々な災難や障害の中で、生き抜いてきた力を持つ。これは、理屈では理解できないものらしく、多くの人は、自分では気付かぬうちに、いつの間にか、対応しているものなのだ。理詰めで考えることの大切さは、当然あるものだが、その半面で、考える事無しに、自然と為す行動も、大切なのだろう。不安という面倒な感情ではなく、別の感情が、心の平安を取り戻させる。
この国の人々は、分相応をどんなものと思っているのだろう。膨らみ続ける欲望が、ある頂点に達した時、それが弾け飛ぶこととなった。所謂バブルと呼ばれる現象だが、それを経験した人々は、自らのあるべき姿を、どう描き直したのか。羹に懲りて、とあるように、用心をするようになったのかも知れないが、欲望は以前のままではないか。
こんなことを書くのは、もっともっとという勢いがあった時代に、膨らみ続けた欲望は、不相応なものまで、手に入れられていた。それが夢か幻かのように、一瞬で消え去った後、痛い目に遭った人々は、それぞれに用心を心がけるようになった。用心は、時に、過剰反応へと変貌し、安心への過剰な期待も、その一つとされる。一見、確実な道を歩むように見えた人々も、実は、欲望を抑える術を持たず、膨らみ続ける存在に、手余す状態にある。こんな状態は、ある意味、矛盾に満ちており、期待と現実の乖離は、更に広がることになる。単純に、収入の多少へと反映されるものもあるが、事はそれ程簡単ではない。期待は、自己評価の膨張へと繋がり、現実は、縮小へと結びつくように見える。しかし、それぞれの存在の評価は、主観だろうが、客観だろうが、同じものとなるべきだろう。その差が開き続けているのは、他人という存在と、自分という存在に、二つの基準を設けるからであり、それに気付かぬ人々が、大勢を占めているという現状にある。値段の交渉など、あるべき価値の見極めに不慣れな国では、二つの基準を一つに融合させる遣り取りの機会が無く、別々のものをそのままに抱え続けることになる。だが、始めから二つではなく、一つにすべきという考えが、出てこないのは何故か、不思議な思いが過る。
業績の評価は単純だが、将来性の見極めは難しい。こんな話が、若手の登用を試みる組織から、度々漏れてくる。昔は、地位を与えれば、それに見合う仕事をする、という見方があり、大抜擢という声が聞こえる、登用が様々に行われた。不釣り合いな状況に、多くの歪みが生じ、全体の均衡が失われ、失敗に終わった話も多かったようだ。
それでも、強い刺激を与えなければ、停滞感や閉塞感を吹き飛ばせないとの判断が、上に立つ人間から出された訳で、時に、効果を上げていたことも事実だろう。ただ、数を打てば当る方式で、確率を狙ったものだったのも事実だ。確実な手法など無い現場で、試みることの重要性を、身を以て示したという点で、評価に値する。だが、最近の若手登用の傾向は、少し事情が変わりつつある。試すことばかりが優先され、人の評価が二の次になっているからだ。数字はある程度の水準を上回っても、その成果の背景を見極めようとせず、単純に登用の判断を下す。将来性の見極めに、何が重要かの判断は、皆無に近いようだ。そこで、もう一度原点に戻ると、業績評価は常に正しく、単純だったのか。昨日の見直しの話で、槍玉に挙げられたのは、発表の場の評価の適用範囲についてだが、その代替として、目が向けられているのは、それぞれの発表論文の被引用数らしい。研究の世界でしか通用しない話なので、よく解らない部分もあるが、価値の高い論文は、多くの人が挙って話題にする、という図式なのだろう。だが、この指標についても、全面的信頼を得ている訳でもないようだ。少し判り易くする為に、実例を引いてみたいが、遥か昔、60年程前に発表されたものの、その後の被引用の経緯を示した図が、こちらのサイトの5頁の下にある。小さくて見難いが、縦軸は被引用数、横軸は西暦年である。発表直後の1958年から、およそ30年は殆ど反応無かったものが、その後急増し、一級の水準を上回ってきた。この経緯から判ることは、時代に先駆けて行われた仕事への評価は、すぐには下せない、ということだろう。単純に思えた数値化による評価も、結局は、的外れとなることも多い。人そのものを眺め、仕事の内容を見極めることが、登用の目的である、将来性の評価となることに、もう一度目を向けねばならない。
評価は確かに難しい。成果を見極めることは、それまでの業績を眺めれば、何とかできそうな気配だが、将来を見据える為の、実力を測ることは、簡単にはできそうにも無い。誰しも、自分のことを振り返れば、運に左右されることもあり、結果が良好だからといって、将来も保証されるかと問われれば、何とも言えないとなる。
だが、人の登用にあたって、過去の業績を評価するだけでなく、将来への見通しを吟味する必要がある。その重要性は、誰もが認める所だが、その指標は、となると、怪しげな意見ばかりが目立つ。結局、やらせてみれば判るとはよく言ったもので、試すしか、確かめる方法は無い訳だ。だが、提供できる席は只一つ、試すことができたとしても、後戻りはできない。業績を重視する見方が、大勢を占めるのは、不確かなものに頼るより、確かなものに、という思いの為だろう。だが、肝心の業績評価が、揺らぎ始めたとしたら、どうか。捏造や改竄など、様々な手立てで、業績を積み上げた人が、他人を追い落とす時代に、不正の発覚は大打撃を及ぼす。研究の世界では、評価の基準は厳密に決められ、長年適用されてきた。耳目を集める課題を、解決に導く成果は、確かに高評価を与えるべきだが、内容の吟味は容易くなく、それを見極める基準として、評価の高い発表の場を得たものに、高い点を与えるとされてきた。その見直しが話題となるのは、肝心の場が、不正の温床となりつつあり、功を焦った人々の、喧噪の場と化したからで、信頼を失いつつある中では、正当な評価と見なせないとする意見もある。更には、場の評価は、必ずしも全体に適用できる訳ではなく、一部の高水準を、他の全てに当てはめるのは、無理があるとの意見も加わり、見直しが取沙汰されているようだ。だが、これとて、代替策は個々の評価を別の指標で下すだけで、頼りとするものは、何らかの数値にならざるを得ない。個別の吟味の手段を失う中で、評価を断行するのは、無理なのではないか。
適応力を備えた人材を、渇望する声が高まっている。教育の効果を信じる人々は、現場での対応を訴え、如何にその力を身に付けさせるか、などと論じているようだが、効果の程は、相変わらずの状態にあるようだ。自らが携わる業務に対し、責任を強く感じ、役割を十分に果たそうとする動きだが、笛の音ばかりが聞こえ、誰も踊り始めない。
従来、学力の向上を目指すのが役割と、見なされ続けてきた現場に、それとは異なる務めを導入する。決まったことを覚えれば、目標を達成できるものと違い、何の準備も無く、不確定な対象へと挑む力を、どう身に付けさせるかは、王道が無いもののようだ。だからこそ、新たな試みが続出するが、元々固めた基盤の上でのみ成立する、教育という働きかけでは、ただ出鱈目の繰り返しに終わることが多い。それでも、要求される成果は膨らみ続け、供給が追いつかないとなれば、厳しい批判が繰り返される。所詮、個人の力を引き出すのが精々であり、無いものを突然芽生えさせることなど、誰もできやしない。潜在的な力にしても、まだ不足する力にしても、その芽はそこに存在する。それを成長させることが教育であるなら、教え育む前に、見出す必要がある。そのきっかけを与える試みも、様々に為されてきたが、期待された人材は見出せず、見かけ倒しに終わる人々の山が築かれただけのようだ。選ぶ側の責任は大きく、見抜く力を備えた人を、その役に就けねばならないが、教える力ばかりに目が集まり、肝心要の役は、空席のままとなる。このような状態では、技術ばかりに目が行き、結局は、傾向と対策の枚挙に終わるだけだろう。現状打破は、望めぬ話となり、ただ、手をこまねくのみとなる。本質の見誤りは、悲劇に終わるだけなのだ。
空気が読めない、という表現は、傲慢な態度を示すものとして、否定的に受け取られる。自己中心的な考えが、その基盤にあるからだが、この表現を使いたくなる程、対応や適応に力を示せない人が、増えているようだ。一見、優秀に見える人々に、この傾向が目立つのは、宝の持ち腐れとも思える傾向があるからだろう。
景気が悪い時代には、求人の数が少なくなっていたから、こんな問題に注目が集まっていた。少ない人材で、ある水準を上回る仕事量をこなそうとすれば、それぞれにかかる負荷は、当然大きくなる。だからこそ、即戦力と呼ぶ人を求める訳だが、事はそう簡単には行かない。突然の方針変更に戸惑うのは、双方共にであり、どんな人材を求めるべきかは、不確かな状況に陥り、何が求められているかは、焦点が絞れない事態となる。実力から見れば、未経験な人間が即座に戦力に数えられる筈も無く、無い物ねだりとなるのは当然だろう。だが、その中でも、足りない分を埋める必要があり、現場では、その為の人狩りを強いられる。その中で、一つの答えとなりうるのは、適応力や対応力と呼ばれる力で、未経験なものに接した場で、どんな行動が起こせるかが試される。それまでに無い想定に、戸惑う人々が居る中で、正答とは限らぬものの、何かしらの答えを導く行動に、期待が向けられる訳だ。これは不景気だから必要になったのではなく、現実にはどんな時にも必要とされるものだが、求められる数が減ることで、その存在が目立っただけのことだろう。だが、その中で、思いが通じず、職探しが暗礁に乗り上げた人は、やはり、歯車の一つにはなれても、中心的な役割を果たすことは、できそうにもない。求められぬ人材、とは歓迎されぬ言い方だが、そんな感覚を抱いた時、空気の話が出てくる訳だ。
大誤報で揺れる「新聞」の役割は、実際、何なのだろう。情報発信の速度で、明らかに遅れを取る媒体として、昔から、様々な利点が強調されてきた。音声や画像の一時的な流通と異なり、文字による伝達では、内容把握が確実になる、という意見もその一つだった。しかし、ネット社会では、文字という媒体も、利用される。
一見、それまでの優位が揺らぐような事態に、危機感を抱く向きもあったが、従来から築かれた信頼こそが、新聞の持つ最大の評価項目とする意見もあった。だが、今回の総攻撃に、反撃の糸口は見出せないのではないか。それ以前にも、事件報道が裏付けなく垂れ流されたり、他紙の記事を剽窃するなど、道徳や倫理の見張り役たる矜持は、失われたと言われていただけに、独自記事に関する不手際は、失われつつある信頼を、完膚なきまでに叩き落とした感がある。その攻撃の矢を放つのが、同業者たちであり、別の媒体として、同様に没落の一途を辿る「週刊誌」だけに、業界の状況は、混沌の極みを迎えているように見える。情報社会と呼ばれるものの実態は、未だにその真の姿が明らかにならず、今や、何処に向かっているのかさえ、判らない状況にある。迷走を繰り返した挙げ句、興味を惹く話題を提供する役に、様々な装飾を施し、事実を歪曲する台詞まで飛び出す始末。これでは、揺るぎかけた信頼を取り戻すのは、遂げられぬ夢と終えるしかない。だが、それ以上に深刻と見えるのは、そんな虚飾に、いとも容易く騙される存在ではないか。それも、国を動かす人々が、世論という圧力に扮した、誤報に惑わされたとしたら、国の終わりを意識せざるを得ない。まして、一般社会の庶民たちは、日々、そんな不確かな情報に振り回され、ある人々の思惑に、まんまと乗せられる。ネットという繋がりは、デマを流すことに、最大の効果を上げ、批判を忘れた人々は、鵜呑みを繰り返す。