パンチの独り言

(2014年9月8日〜9月14日)
(多様、排除、猫の目、為替、妄人、好き嫌い、大事)



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9月14日(日)−大事

 偽造、捏造、歪曲、創作などなど、この所、社会を騒がせる話題の多くには、こんな言葉が添えられる。事実をそのままに伝えるものでも、その根源には、誰かの作為が施され、人間の暗い部分ばかりに焦点が当てられる。注目されたいという欲望は尽きること無く、事件を起こす者も、誤報を作り出す者も、何かに憑かれているのか。
 虚実入り混じる情報の氾濫に、受け手の検証力は、必須の武器とならざるを得ない。にも拘らず、現実社会は、嘘やデマに振り回される人々に溢れ、騙されたことに気付かされた後も、異常行動は収まらない。実は、嘘の核となるべき事柄に、感情的な同意を持つが為に、こんな顛末に陥ったことに、多くの人は気づく筈も無い。何故、有りもしないことが、世の中に流されるのか、と問えば、その多くは、確かに歓心を買いたい欲から発するものだが、それに飛びつく人々が、欲しいと願うものを、作り出したからとの答えが返ってくる。つまり、大衆の欲するものを、ただ与えただけとの言い訳が、当然の主張となる訳だ。いやはや、矜持も何も、あったものではない。耳を疑ったのは、例の命令違反の誤報に関して、件の新聞との強い繋がりが知られたテレビが、そこから生まれた他国の誤解を紹介する際、隣国の船の事故の顛末と結びつけ、責を負うべき人間の義務放棄として、その国の新聞が報じたことが、画面に映し出されたことで、年単位の時系列の乖離に、戯言にしか思えなかった。何をとち狂って、自らの過ちを、他国の不見識で、覆い隠そうとするのか、と思った訳だが、実際には、他人の不幸を喜ぶ国民性が、「誤報」を基に、隣も同じと解釈しただけのことのようだ。それにしても、こんな誤解を産む程、今の情報メディアには、まともな考えが通用しない。記者の矜持より、新聞の売れ行きが大事とは。

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9月13日(土)−好き嫌い

 評価について、何度も書いてきたが、尽きることは無いようだ。自分に対する評価は、正当なものを望む一方で、他人の評価は、勝手な思いつきに過ぎない。一つの指標に基づき、同じ扱いに気をつけるのは、評価の過程における、大切な事柄の筈だが、感情に走る人の多くは、その場の気分に応じて、扱いを使い分ける。
 主観と客観の違いのように扱われるものだが、現実には、誤解に基づくものなのではないか。客観を主観とは全く異なるものと見なすのは、一つの見方には違いないが、それ自体に大きな誤解があるように思う。客観は、皆が同意するものであり、主観はそれと違うもの、などと乱暴な分類を論じる人も居るが、皆が同意するのは、皆の見方が一致している訳で、それぞれが異なる場合には、そんなことは起きない。一致したからといって、突然見方が変わる訳ではなく、それぞれが別々に判断したものが、当然の帰結として、一致に至っただけのことだ。となれば、同じ主観の集まりが、客観へと変貌するだけで、大元では、自分の考えと見るべきものだ。他人と一致しない考えは、独自のものとの受け止め方が、一時期、大流行したようだが、今はずっと下火になっている。独自に走る動きは、いつの間にか、独創的というより、独走と見なすべきもので、勝手な行動に過ぎないとの見方に戻ってきたからだ。異様なものが並ぶ中で、まともなものを選び出すのは、並大抵の努力では済まない。独創に走った結果、そんなものが羅列されては、取捨選択の手間ばかりがかかることになる。面倒を目の当たりにして、流石に拙いと思ったのか、過大評価は、投げ捨てられた。元に戻って、評価に対する問題だが、依然として不慣れで無責任な人が多いと感じられるのは、国の政治の頂点に立つ人々の評価が、顔ぶれを変えた途端に上がるのも、新しい構成員の吟味の末ではなく、男女比などの表面的なことだけに、左右された結果だということだろう。好悪を基に、判断する人の数値は、信頼できる筈の無いものなのだ。

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9月12日(金)−妄人

 自分で火をつけて回り、それを自ら消しに走る。正義を謳う業界の不祥事は、そんなことを想起させる事件だが、批判を常としてきた人々は、その矢面に立たされることに、不慣れだったようだ。だから、間違いもやむを得ない、とは誰も思わない。謳うなどとはとんでもなく、騙る以外の言葉が浮かばぬ程の体たらくなのだ。
 それでも、恥部を暴き、批判を繰り返し、巨悪を挫いてきたとの誇りは、糾弾し続けた組織に酷似した行動へと変貌し、下劣とさえ言い放った茶番を演じるのだろう。人の歓心を得たいと望む、妄想に憑かれた人々を信じ、作り上げた筋書き通りの話を展開させる。事実を伝えるという本来の立場からすれば、著しい逸脱と断じるしかないが、そこでの仕上げには、尤もらしい事実と思わせる脚色さえ、施す始末だったのだろう。たとえ、一つ一つは、実際に起こったことだとしても、それを時系列で並べた時に、正反対の結論さえ導けることは、こんな事例を見るまでもなく、当然のことなのだが、負い目を感じた人々には、嘘吐きと断定することさえ、憚られたのかも知れない。矢面に立たされた時、攻守が入れ替わったことに、気がついていれば別だろうが、その事にさえ気付かず、攻め返していると信じた人たちは、対応を誤り、自ら付けた傷口を広げることに繋がった。今更の反省は、おそらく何の役にもならず、混乱はそのままに放り出される。創作に耽る人々は、ひょっとすると、作家へと転身した先輩への憧れを抱いたのかも知れないが、誤認も度が過ぎる。逆の見方をすれば、作為的に誤報を流し、それをきっかけとして、鍵をかけられた調書を公開へと導いた、ともできるのかも知れない。ただ、これほどの騒動では、そんな遠望は望めない。

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9月11日(木)−為替

 グローバルというまやかしの言葉が流布されるよりずっと前から、この国は、他の国とのモノの遣り取りで力を伸ばし、潜在力の顕在化により、急激な成長を続けてきた。国を跨ぐ取引では、金銭の遣り取りが必要となるが、そこでは共通通貨の存在が重要となる。グローバルと同様に、その地位を占めた通貨が、世界を牛耳ってきた。
 その変化の流れは、国力の急激な増大に従い、強まるのが常だが、両国間の為替水準は、360という固定されたものが長く続いた後、不公平感が理由でもなかったのだろうが、現実との乖離が問題視されるに従い、固定という枷を外すことが決定され、急速に、約三分の二の水準まで移行した。取引がその比率に依存し、最終的な収益が左右される業界では、この移行は、是正とは映らなかっただろうが、乖離を解消する為の手立てとされては、反論の余地はなかった。その後、変化は更に加速し、ついに、元の四分の一にまでなると、流石に、異常な感覚が全体に漂うことになる。高い安いの変化は、その後も波のように続き、それに一喜一憂する姿が、画面に映し出されてきた。だが、その当時から、入って来るものと出て行くものが、一概に、区別できる訳ではなく、その遣り取りの結果として、最終製品が出て行く場合に、単純に、交換比率の変化を当てはめるのは、おかしいとの声が出ていた。ここでも、経済特有の、身勝手な論理が跋扈しており、ご都合主義の解釈が、非論理的であるにも関わらず、拡散されていた。どちらにも言える、といった感のある分析結果は、何を主張したいかにより、都合良く使い分けられ、結論ありきの論法に付け加えられた。忘れっぽい人々にとって、正反対の主張にも無理は無く、場当たりが常となる。これが経済を化け物とする訳で、結局、人の手で作り出された想像の産物に過ぎないのだ。

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9月10日(水)−猫の目

 経済という化け物に、恐れを抱き、苦しめられる人々が居る。確かに、何をきっかけとして、どう動くかに関して、予想を立てることは難しく、先の読めない状況は、不安ばかりを膨らませる。だが、これを食い物にし、そこから様々な利益を上げている人々が居ることに、多くの人は気付いていないのではないだろうか。
 分析を生業とする人々は、何故、その現象が起きたかの説明を施す。一見論理的に思え、理解し易いものに映るけれど、その殆どが、場当たり的なものであることに、目が向く人は少ない。数多ある要素の中から、一部を抜き出し、それを並べることで、原因を突き止める作業にも、結論ありきの感は否めない。それはある意味当然のことであり、結果を眺めてから、原因を探る訳だから、全ての要素が関わるようには見えず、原因と結果の結びつきが、説明可能なものだけを拾い出せば良い。となれば、そこには、結論が先に立つことが、当然の流れと見え、こじつけに近い論法も多用される。だが、結果を見ずして、原因を探れない分析では、予想は、叶わぬ夢と終わる。経済の動向を、何とかして見極めたいと願う人々にとって、この現状は、受け入れ難いものとなる。最近注目が集まる、ビッグデータと呼ばれる代物も、確率を若干上げることができたとしても、目標達成には、程遠い状況にある。分析対象を増やす努力は、怠るべきではないが、それへの全面的信頼へは、安易に走るべきものではない。人間の行動から見れば、多くの可能性から一つを選び、それを試した上で、次の方策を検討する、という手順が繰り返される。試行錯誤という言葉は、絶対的な決断には、馴染まないものだろうが、現実は、こちらの方にあるのではないか。その過程で、揺れ動く経過に、更なる分析を重ね、変更が加えられては、予想の寿命は、長くなる筈も無い。

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9月9日(火)−排除

 多様性は、魅力的な言葉ではある。だが、自分と異なる人を受け入れられるかどうかは、簡単な話ではない。意見の違いは、議論を盛り上げる為には重要だろうし、それにより、新たな提案に結びつくことも多い。しかし、平行線を辿る議論では、終着点が見えず、焦りだけが膨らむことがある。誰もが歓迎しないことだ。
 社会や組織にとって、異端を抱えることは、様々な軋轢を産む。全体に余裕があれば、軋轢も目立たず、何事も無かったの如く、時間が流れて行く。しかし、一旦、問題として捉えられる程になると、急激に衝突が増え始める。それも、時間の浪費ではなく、単純に、多くの意見の提示となり、議論が膨らむのであれば、成果が上がるから、問題と見られることも無い。しかし、何処からか停滞感が忍び寄り、閉塞感へと繋がると、話は大きく変化する。無駄ばかりが目立ち始め、議論の為の議論のみとなり、成果が上がらなくなる。壁が感じられると、それを打ち破る力が必要となるが、その為の結束は、多様性が優先された結果、実現しないものとなる。となれば、様々な考えは、邪魔者扱いにされ、異端の排除に精を出す人の登場は、一部で歓迎される動きに受け取られる。だが、これは、本当に歓迎されるべきなのか。多様性を重視する考えからすれば、異端の排除は、歓迎すべき代物ではない。にも拘らず、一部にそんな感情が芽生えるのは、閉塞や停滞といった悪い印象を打ち破る為に、結束が優先されるからで、一時的な多様性の喪失は、致し方ないものと扱われる。だが、その後の展開を眺めると、たとえ、一時的にせよ、捨ててしまった多様性は、簡単には取り戻せなくなる。元に戻すだけのこと、という考えは、余りに安易であり、現実に直面すると、浅はかな考えであったことに気付かされる。何故なら、偏りを招いた人々が、中枢に居座り、それを維持しようとするからで、そんな環境では、異端が許容される筈も無いからだ。失ったものは大きい、ということか。

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9月8日(月)−多様

 生き物から学ぶことは多い。ただ、その多くは、人間の勝手な解釈によるもので、誤りとして、後の時代に正される。擬人化は、その最たるものであり、人間の論理を、生き物の行動に当てはめることで、学び取った何かが、社会に流布される。生き物の不思議は、その途端に、全く別のものへと変身し、意味あるものにすり替えられる。
 何かを学ぶ過程で、自分の考えと比較し、記憶として定着させる手法は、確実な方法として、好んで使われ、多くの人に勧められてきた。だが、個人の範囲での適用とは異なり、社会全体に、一つの解釈を拡げることは、更なる誤解を招き、本来の不思議は、全く違う姿に置き換えられる。一時流行ったものとして、最適化という解釈があるが、進化の結果は、適応へと繋がり、淘汰を勝ち抜いたとの話は、一部の人々の圧倒的支持を得ていた。だが、少し考えれば判るように、ある環境への最適化は、そこからの変化への脆弱性を示し、繰り返される変化の中では、生き残る確率は低くなる。これほどに単純なことに、熱狂的な人々は気付く気配もなく、自分たちの中だけで、満足を得ていた。流石に、今でもこの手の考えに取り憑かれている人は少ないが、時に、少し姿を変えた考えに、惹かれる人が居るようだ。画一の効用は、固定された環境下では、十分に期待できるが、変化に対しては、多様性が一番の効果を示す。その中では、当然、有利不利が表に出るから、利益を得られぬ者は出るが、それでこそ、全体としての繁栄が維持される。利他主義とは違うが、多様になることが、全体の利益に繋がる訳だ。これは人間社会にも当てはまり、組織についても、同じ事となる。だが、指揮系統や制御を考えると、画一の方が遥かに楽だろう。浅薄な人は、そんな思いで悦に入り、異分子の排除に精を出す。何処でも起きることだけに、過ちから学べることは少ないようだ。それが破滅への道に繋がったとしても。

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