パンチの独り言

(2014年9月15日〜9月21日)
(欲目、確かめる、科学報道、不服従、決意、異議有り、転嫁)



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9月21日(日)−転嫁

 一方的な言説しか出回らない市場では、敵味方の区別ばかりが主題となる。味方の話は、殆ど全てを鵜呑みにするのに対し、敵の話は、目を通す必要さえ無く、唾棄すべきものと扱う。これほど楽な選別は無く、思考は欠片も見えないから、機械的な扱いで全てを済ませる。無能な人々にとって、何とも気楽な世の中なのではないか。
 大多数を占める、こんな人々にとっては、楽園に違いないのだろうが、ほんの一握りの、有能な人たちにとって、議論の場が奪われ、考えを披露し、その吟味を繰り返す、大切な時間を失ったのは、まるで、手足をもがれた感覚ではないか。対立する意見が飛び交う中で、妥協点を見出すことは、集団を単位とする組織の運営において、必須の過程となるのだが、現代社会は、一方的な意見の投げ合いのみで、偏った感覚の現れにしかならない。こんな環境では、均衡のとれた運営は望むべくも無く、多数の利のみが追い求められる。満足を数字で表せば、多数の論理は、ここでも通用する訳で、一見、妥当な手法に見えるのだろう。能のない人々にとっては、ただ判り易いだけが、重要な要素であり、正当性などが吟味される機会はあり得ない。誤った操縦により、様々な被害を受け続けた人々も、自らが多数に属するとなると、その地位に安住するのだろう。こんな状況では、本質的な議論は皆無で、様々な思いつきから、判り易さで、極端なものが選ばれる。それが妥当な道である筈もなく、結局、間違いを重ねるばかりとなるが、多数を優先する考えでは、選択時には何の議論も無く、結果が誤れば苦情が並ぶ。何とも不思議な状況だが、まさに、そんな所だろう。大誤報の新聞に、全ての責任を負わせようとする政治家も、愚者に違いないが、それを指摘することで、威厳を示したと思い込む評論家も、愚の骨頂だ。彼ら全ての関わりが、誤りを導いたのであり、そこには一方的な関与は、あり得ないのだ。

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9月20日(土)−異議有り

 民主主義の根幹を成す、多数決という仕組みにおいて、決めることばかりに目が集まるが、その後の手立てに関しては、殆ど関心が集まらない。決める過程での盛り上がりは、議論を含め、様々に広がる一方で、決まってしまえば、後には何も無い、といった感覚があるからで、拮抗した賛否さえ、すぐに忘れ去られることとなる。
 現行の民主主義の欠陥があるとすれば、まさにこの点なのではないか。決めることばかりに力が入れられ、決めた後の進め方には、誰も関心を持たない。決定が一大事と見なされ、その後の進め方では、大筋が決められた中で、大したことができないとの見方があるからだ。だが、現実はどうだろうか。自分たちの為に自分たちで決めることは、決めれば終わりではなく、所期の目的が果たされてこそのものがある。にも拘らず、その運用に魅力が感じられないのは、重要性を認識できないからだろう。物事には、事毎に様々に変化する様相があり、たとえ、方向を定めたとしても、勝手に進むという代物は無い。この誤解が、色々な問題を産み、その対応に苦慮するのは、現場の人間だろうが、決め事程の注目は浴びない。事後の議論を重視しないのは、実は、二項対立の議論に比べ、対処としての選択の議論は、簡単ではなく、種々の調整を必要とするだけに、逆に責任が重いからなのではないか。より良い結論を導く為に、対立だけではなく、寄り添った形で、正解に至ろうとする議論では、いがみ合いよりも、同意形成が必要となる。議論下手の人々は、相手の意見の傾聴も、個々の項目の検討も、苦手であり、一方的な言い捨てばかりが主体となって、協調は望めない。原発の問題を論じた内容の本も、一方の意見だけのものとなり、たとえそれが吟味されたものとしても、読者に全容を与えることにはならない。これも議論とは呼べず、ただの放談会に終わる。双方の参加を促してこそ、この手の本の意義がある筈だが、編集にもそんな深慮は無いようだ。

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9月19日(金)−決意

 自分で決める。個人的なことであれば、当然のことに違いないが、多数の集団となるとどうか。全員一致の決定なら、何の問題も生じないだろうが、民主主義の常としての、多数決による決定では、どうだろう。勝敗を決した後も、少数派には不満が燻り、何かと反対する姿勢が貫かれる。決めたことによる、ある意味の副作用なのか。
 多数決が決定手段として採用されるのは、より多くの賛同を得た考えを、尊重する姿勢の現れだろう。だが、それに関わった人々は、必ずしも、その基本に沿う行動を示す訳ではない。決定後の態度に関しては、結果を尊重しさえすれば、大した問題は起きない筈だ。だが、現実には、反対側に回った人々は、裏切られた結果を、いつまでも、受け入れない状態を続ける。自分で決めた筈が、逆の結果となったことで、思いを遂げられなかったこととなり、次の選択を探し求める。既に、以前の状況とは異なる中で、それに沿う中での選択肢を、見出すことが求められるが、そうならないことが多いようだ。候補の中から選ぶようなものであれば、現実には、大した違いを招かず、選ばれた人々の間での多数決が、その先の成り行きを決めて行く。意中の人が選ばれずとも、結果的には、大差が無い場合も多く、自分が参加した多数決も、大事には感じられない。だが、ある事柄の採否を決めるようなものは、どうだろうか。そこでの決定は、その後の流れを決してしまう。議論を尽くしたとしても、十分と言える状態になることは無く、様々な要素が欠ける中での決断は、決定後の流れを妨げるものとなりかねない。今、より大きな存在から、抜け出そうとする動きが、世界各地で起きているが、その結果により、何が起きるかに思いを至らすこと無く、単なる賛否への参加と思う人も多いようだ。利害とは、そんなに単純なものではなく、複雑に入り組むことを考えれば、安易な決定は、とんでもない結果を産みそうだ。

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9月18日(木)−不服従

 指示を守れない人々が急増した時代があった。まだ、終わっていないと思う人も居るだろうが、ゆとりと呼ばれた教育方式が学校を席巻し、歪んだ人格形成が、まるで公開実験のように試された結果、フシギとも呼ばれる人々が、世に押し出されることとなった。その後の経過は、悪夢の連続にも似て、覚めて欲しいと願う人も急増した。
 何が指示を無視する人格に結びついたのか。確かな答えを持つ人は居ないが、ゆとりと称する環境から、独自を目指す方向に舵が切られ、確かなものより、不確かでも他と違うものに、評価の重み付けが施され、素直に指示を守る人間より、自己主張ばかりで、協調性を失った人間が、上位に座るようになった。その解釈は、ある程度、答えに近いものだろうが、子供心に植え付けられた、歪んだ考え方も、成長に従い、正常な論理や判断が身に付くに連れ、徐々に修正されることが普通であることを考えると、一概に、これだけが要因と見なすのは、早計に思える。独自ばかりが強調されたことが、きっかけになったことには違いないが、それを許すか、促した社会環境の問題こそが、より重要な役割を果たしたのだろう。それを意識させるのは、既に終えられたゆとり教育の、亡霊とも思しき人々が、依然として社会に押し出されて行くからだ。独自がある程度否定され、協調性の復権が明らかになっても、何処かに、指示を守ろうとしない力が潜み続ける。目立つような独創は排除されたが、その陰に隠れていた、指示そのものの理解が及ばぬ人々が、この変化と共に、その存在を目立たせ始めた訳だ。煮え湯を飲まされたような悪夢は、実はまだ終わっておらず、こんな残党に対する悩みは、暫く続くようだ。

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9月17日(水)−科学報道

 科学ジャーナリズム、という言葉は、まだ市民権を得ていないと思う。それを担う人の育成と称して、教育機関に助成金が注ぎ込まれたとの報道も、耳目を集めることも無く、その後の経過も、芳しいとはとても言えない状況にある。科学と技術という組み合わせに、敬遠したいと思う人の数は、依然として多いからか。
 どちらが先に立つのかはよく解らない。しかし、科学を難しいものと考え、殊更に避けようとする人が多いのは、昔からよく見られた傾向なのだろう。だからこそ、寺田寅彦や中谷宇吉郎など一流の学者たる人たちが、それに関する読み物を一般向けに書いていたのだ。最近も、そういう人が判り易い本を著し、賞を受けるなどの話題があるが、学者にあるまじき誤りを流布するなど、専門家の評判は頗る悪い。分かり易さと誤解は、時に合致することがあり、科学の本来の姿を歪曲しては、元も子もなくなる。一方、科学雑誌の形で、伝搬を行った人々が居り、その代表格は、「自然」の編集長だった岡部昭彦だった。更に、報道という立場で、科学の事実を伝達する人々が居り、その役割が始めに上げた言葉で表される。最近、その役割を終えた人々が、本を著し、役割の本来の姿を論じているようだが、的外れの感は否めない。以前「読んだ本」で取り上げた、尾関章のどう語るかを論じた本は、その資格さえ見えぬものだったが、先頃読み終えた、牧野賢治の自分史も、少しましとは言え、煮え切らぬものだった。出版社への感想文として書いたものを一部抜粋すると、「著者は、客観的事実を伝えることが役割のように書いているが、この本の中でも、自らの下した評価が殆ど出されていない。(中略)解説の力はあるのだろうが、それを正しく伝える場が余りない、(中略)科学報道において、評価を加えていないことが大きな欠点で、事実を伝える場面での評価は余計だが、その後の解説記事などで、その痕跡さえ見えないのが残念だ。」(注;一部改変)とした。啓蒙も批評も、誤った解釈に基づくものを目指したのは、彼らが陥った失敗なのだろう。

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9月16日(火)−確かめる

 検証という文言が、様々な所で飛び交っている。今、一番強い印象を残しているのは、大地震の後に起こった津波の被害についてのものであり、中でも、発電所の大事故は、人災との見方が大勢を占めるだけに、種々の機関が調査を進め、原因を拾い出そうとしている。ただ、推測だらけの分析で、結論には至りそうにも無い。
 混乱の中とは言え、ついこの間起きたことに対して、分析の手が及ばないのは何故か、不思議に思う人も居ると思う。だが、多くの関係者が、反論の機会を窺っており、自らに不利な意見が出された途端に、大きな声を上げるのだから、困難を極めるのもやむを得ないのだろう。ただ、反論を許す状況について、もっと厳しく追及する必要があるのではないか。言った言わないの議論は、確たる証拠が無ければ、平行線を辿るだけで、無駄に終わることは確かだし、感情の動きを論じることも、殆ど意味を成さないものに終わる。これらを、明白と片付ける人も居る一方で、こんな議論にしか、目が向かない人も居り、後者は、明らかに検証に不向きとなる。にも拘らず、そんなことが罷り通る背景には、大震災以来、科学不信が急速に強まり、論理的検証に長けた人々が、発言や活躍の機会を奪われていることがある。大衆の心理とは、所詮この程度のものとの判断があれば、不信の中でも、必要な知恵を使おうとの決断が為せるが、大衆に擦り寄らねばならぬ人々には、そんな危険は冒せない。その結果、心理や感情といったものに、目を奪われがちな人たちの登用となり、検証は不確かなものに終わる。社会全体が不安定だから仕方ない、との考えもあろうが、そんな中でも、冷静に論理を駆使できる人こそが、検証に適するのだ。しつこいようだが、件の大誤報の新聞に掲載された書評で、江戸時代の仕草を現代の教育に、との働きかけが、実は捏造だったという検証についての本が取り上げられたそうだが、自らの誤報の検証に、この手法は活かせるのだろうか。

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9月15日(月)−欲目

 欲は尽きることが無い。これは何も悪いことばかりでなく、上を目指す姿勢の現れとなり、一つ一つ達成することが、推進力を産む。だが、その配分はどうだろうか。一つの目標を達成する為に、力を集中させることが必要となる時、欲が脇へ逸れてしまっては、何も得られない。そんな経験を持つ人は、沢山居るだろう。
 脇目もふらず、一心不乱に突き進む姿は、人々の共感を誘う。一芸に秀でた人々が、好きなことを続けられるのを、羨ましく思う人が多いが、彼らが、多くの誘惑を切り捨てたことに、気付く人は少ない。欲にはきりがなく、多種多様なものに襲われれば、つい、そちらに傾くこともある。だが、一つの目標を目指すのなら、そんな斑気は邪魔にしかならない。普通の人々にとって、憧れの人たちが、どれ程の苦労をして、どれだけのものを諦めたかは、理解の埒外にあるものだろう。そんな中で、急速に発展してきた経済に支えられ、庶民と呼ばれる人々も、様々な欲を満たす機会を得てきた。だが、何でも手に入ると言われた時代が去り、何処かに不満や不安が漂う時代となると、無限に広がる可能性は遠くに霞む存在となり、折角の機会が奪われるような感覚さえ抱く。本来の姿に戻ることは叶わず、不平不満を漏らすだけの人々には、何とも生き難い世の中かも知れないが、大切なものの順序を見極め、欲を催す方向を定めてこそ、生き甲斐も見つかるのではないか。無駄な欲を撒き散らし、大事を見失う人々は、ただより高いものは無い、という戒めに気付くことも無く、無料に飛びつく。だが、それを賄う為に、何処から金が出ているか、この手の人々は考えない。貴賤に関わらず、そんな欲気を出す人々は、選択の必要に気付かず、立場を意識することも無い。分相応は、こんな所にも、違った形で顔を出す。豊かな人々の貧しい心は、何とも情けないものだ。

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