パンチの独り言

(2014年9月22日〜9月28日)
(選択、事実は、正気、見えない、利便、激変、視野狭窄)



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9月28日(日)−視野狭窄

 島国根性と言われると、腹が立つのだろうか。国際化という言葉が飛び交っていた時代から比べれば、遥かに多くの交流が存在し、国境が消えたかのような感覚を持つ人さえ居る。そこに登場した言葉が、グローバル化なるものだろうが、こちらは、目標が不明確だった前者に比べ、具体的な内容を含む。だが、実質は乏しいようだ。
 こんな環境の中で、高等教育機関にかけられる期待は、膨らみ続けている。逆の見方からすれば、実は、人材不足が露呈し続け、それを補う為の方策が、様々に講じられる過程で、期待が膨張しているのだ。そう考えると、実績を示せない組織が期待されるという、不思議な図式は、結局、成果が上がらぬ結果を招くことを示しているのではないか。だが、施策を進める組織は、そんな矛盾に気付かぬふりを続け、その任に当たる組織を指定した。既に何年も、様々に講じられた策も、その多くは、実効性を示せず、ただのばらまきに終わってきたが、更なる資金注入が、何を目指すものかは見えてこない。だが、それでも何とか、という期待が、まだ漂っているようだ。金より人材の筈が、肝心の人の姿が見えない中で、こんな小手先の誤摩化しが通用する筈も無い。更には、グローバル化というまやかしの言葉への批判も、高まりを見せないから、ある意味の放置状態が続く。暫くは、無駄遣いを見過ごそうというのだろう。言語を操る技術に関して、ここまで書いてきた方策が、その獲得だけを課題としていないのは、説明を読めば判るけれど、最大要因であることには違いない。まるで、言語能力が、口先の表現で決まるような見方には、知性の欠片も感じられないが、自分にできないことを望む人たちには、そんな思考が当然のものに見えるのだろう。国際化が英語との結びつきで論じられた時代と同様に、こんな議論を続ける人々に、責任を負う気はなく、期待するだけ無駄ではないか。

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9月27日(土)−激変

 停滞、閉塞を打ち破る為には、思い切った改革が必要とされる。確かに、現状維持や少しの修正では、大きく立ちはだかる壁を壊すことは難しい。そこで、考え方を大きく変え、全く違う手立てを講じる。ただ、成功が約束される訳でもなく、多くの失敗が繰り返されることも多い。だから、躊躇いを感じ、思い切ることを諦める。
 そんなことが繰り返され、ついには、大きく深い穴に落ち込む訳だが、段階が進めば進む程、打開への道は遠離る。だから、早目の手当が必要との声も聞こえるが、単純に過ぎた話のようだ。問題が深刻になる前に、という考え方は、時に、問題でもないものに、極端な対策を施すこととなり、却って、大きな問題を招くことになる。当事者は、解決への道と思い込むから、何の罪悪感も持たないが、そんな浅慮が様々な障害を作り出す。ただ、誰もがそれなりの改善を目指す為に、そこには悪者の存在が感じられず、責任を問う声も、強くなり難い。だからと言う訳でもないが、こういう形の迷惑行為は、増えることはあっても減ることは無く、無駄ばかりが山積みとなる。特に、単なる修正ではなく、改革であるからこそ、その問題は拡大し、新たに作られたものへの対応が、必要となる。この辺りに、人の目は余り及んでおらず、重大な問題とも扱われていない。幾つもの歴史が示すように、こういった問題からの脱却は、改革にかかる力と同等か、それ以上のものを必要とし、無駄を膨張させる。皆の為と称し、必須のものと説明した上での改革は、更なる困難を招き、まさに、皆を巻き込んだ形で、被害を拡大させる。回復や修正も、大きな手立ての後程難しく、手間も時間もかかることとなる。人の為と称して行った改革で、名を残した人々は、実は悪名を残しただけ、との評価を、した方が良いのかも知れない。

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9月26日(金)−利便

 機械化が進み、人間の関与は減り続けている。製造業では、人件費の割合も減少しているが、それでも、かなりの割合を占めるものだけに、如何に抑えるかが経営の重要な手法の一つとなる。デフレの問題との繋がりから、給与を引き上げることこそが、肝心との意見も出されるが、依然として変化の兆しも見えてこない。
 どんな手立てが講じられるのか、様々な意見が飛び交うが、安易な手立てとして好んで使われてきたからか、簡単には手放せないようだ。期待は徐々に萎み始め、物価の上昇は、生活の苦しさとの関連として、殊更に書き立てられる。暫く様子を見るしか無いが、思考回路を切り替える必要から、何か別の要因が出てこない限り、期待通りの展開は、やはり難しいと言われるようだ。肝心の要因へは、人の目が集まりかけてはいるものの、決定的なものは見えてこない。話が繋がるとも思えないが、普段の生活でも、ある意味の機械化の導入が盛んに進められている。人員削減とも結びつくものは、特に力が入れられているが、その一方で、平時には効率化が図られるのに、故障という思わぬ敵に、対応が追いつかない状況は、機械化が、却って障害となることを思い起こさせる。当然のことと思う人も居るだろうが、多くの人は、効率化が逆効果を招くことに、驚かされるようだ。また、一見、全てが自動化に向かうと思えるものが、それほど簡単なものではなく、利用者にある負担を及ぼすことから、単純でないことも指摘される。多くの人が慣れた鉄道の改札も、始めは戸惑う人が見られた。これとは別に、飛行機の搭乗口では、以前とは異なる仕組みが採用され、効率化が図られているように見える。だが、その前に渡された座席を示す券との違いに、戸惑う人が居て、結局、機械の前で立ち塞がる人が出る。便利は、時に、思い通りの結果を産まないようだ。

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9月25日(木)−見えない

 自らの身の安全を考えることは、何も悪いことではない。だが、それがある範囲を超え、他人を巻き込むようなことになった時、その善悪は、単純に判断できないものとなる。本人にとって、正しいと断言できる判断も、他人の同意が得られるかは別であり、そこに論争が起きる。議論の末に決める必要が出てくる訳だ。
 だが、実態は、それ程単純ではない。議論は平行線を辿り、合意を得ることは困難となる。本来は、論理的な解釈をぶつけ合い、その中から、合致する点を引き出す作業を行うべきだが、実際には、かなり違った様相が展開される。論理とは名ばかりの、単純な思いつきが並び、その吟味を行う過程でも、多くは、好き嫌いの判断に似たものが罷り通る。安全は、ある程度の論理が通用するものだが、安心は、そうはいかない点も多い。心理的なものが前面に出る程、判断は簡単になるが、合意を得ることは難しくなる。好きと嫌いの感覚がぶつかると、そこには、歩み寄りは起こらず、いがみ合いに似た状況が続く。事故の後の経過を見返しても、何が問題なのか、明確に見えない気がするが、ある固定された考えを持ち続ける人たちには、争点はくっきりと浮かび上がっており、何の問題も無いと映っているようだ。だが、争点の内容を、改めて調べてみると、そこには、様々な飛躍があり、論理が通用するものとは違うものに思えてくる。如何にも、鮮明な問題点のように扱われることも、別の見方を適用してみると、ぼんやりとした像しか見えてこず、何が論点なのかも判らない。立場の違いだけが鮮明となり、実は論点がはっきりしないのが、今の状況なのではないか。結論ありき、と指摘されることも多く、問題は山積みのようだが、当事者たちはそんな思いを抱くことさえ無い。この違いは何か、を論じることも大切だろうが、気になるのは、立場による違いを、気にかけない所にある。違いを見極めることで、同意すべきかどうかを判断する筈が、違いさえ見えないのでは、何もできないのでは。

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9月24日(水)−正気

 所詮他人事だから、兎や角書き連ねるのはどうかとも思う。だが、異様に思えた行動は、確かに、異常な考えや思い込みに由来し、それが時に、周囲へ悪影響を及ぼすことを考えると、無視しない方がいいように思う。論理が通じず、感情のみからなる人格に、対処法は見出せない。無視が一番だが、殊更に取り上げる動きが邪魔だ。
 中立を装う伝達者たちは、異常行動を取り上げても、その問題に触れることは無い。それより、人の権利に触れることで、狂った行動さえも、意味があるがごとくの扱いを示し、社会全般への悪影響に力を貸す。報道の基本に、中立性があるのは当然だが、論理的な評価を施せないのが、最大の問題となっている。偏った伝達も、中立を前面に出すことで、恰も正当な扱いと装うのも、悲惨な結果に繋がりかねない。先日、世界遺産との関連から、少しの盛り上がりを見せる催しを、覗きに出かけた時、近くの店に立ち寄った。全国の物産を売ることで、一部の人に知られる存在のその店では、店長の推薦を得た物品が、棚に並べられていた。興味本位で入った店だが、異常行動は、その中で突然に起きた。誰かが暴れた訳でもなく、叫び声を上げた訳でもない。ただ、買い物カートに乗せた籠の中に、ある器械を入れ、気になった物品を一々調べている夫婦の姿に、目がとまったのだ。器械とは、サーベイメータと呼ばれる、放射能を測定する為のもので、多分、食品の放射能を調べようとしていたのだと思う。健康志向の夫婦と思う人は、もう流石に居らず、異様な動きと見る人も居ただろうが、本人たちは、ヒソヒソと話し続け、調査を継続していた。安全な品揃えを誇る店側に、その姿がどう映ったのかは、知る術も無いが、異常は異常である。特に、主食ならば、それなりの量が摂取されるが、調味料では、微々たる量となり、それも全てが取り込まれる訳でもない。論理性の無さを感じるのは、まさにその点にあり、更に書けば、ガラス瓶に入った製品では、容器の放射能も無視できないのでは、と思う。俄勉強で、何かを得たのかも知れないが、底の浅さは隠せない。自己満足で、心の平安を得られるのなら、それまでだが、別の影響が起きないのか。こっちの気持ちは、確かに良くないな。

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9月23日(火)−事実は

 秋のお彼岸に馴染みのものは、墓参り、おはぎなど、色々と出てくるだろうが、植物で言えば、曼珠沙華、彼岸花だろう。つきものといった感があるが、桜と春程の強い関係はない。だが、春は、それなりの長い期間を表すのに対し、彼岸は、秋も春も、中日と前後三日を入れて、たったの一週間しかないのだ。
 こんなことを書いても、不思議に思わない人の方が多いだろう。少し思い出して欲しいのは、桜の満開の時期が、年毎に様々に変わり、ひと月は少し長過ぎるにしても、二週間以上の違いが現れることだ。これでは、彼岸に合わせて、という習性とは比べられない。桜の開花が、最低気温の日から数えて、という具合に、温度に左右されるのに対し、おそらく、彼岸花の開花は、温度ではなく、昼と夜の長さの違いを、その指標としていると想像できる。だからこそ、昼夜がほぼ同じ長さのこの時期に、ぴたりと合わせて咲くことができ、鮮やかな赤は、沢山咲き乱れる秋の花々の中でも、特に目立つこととなる。それが印象として残るからこそ、彼岸という名前を付けられたのだろう。義理堅く、異常気象と世間が騒いでも、意に介さず、日付を守ることができる。暑さ寒さも彼岸までとは言うものの、時に、それ以前から季節の変化が訪れ、春や秋を実感するのも、年によっては起きることだが、あの植物にとっては、全く関係ないことなのだ。そんなことを書いていると、専門家の間では、温度こそが要因との結果があるとのことらしい。西と東で少し時期が違うから、との意見だったが、果たしてそうだろうか。記憶を辿れば、西に住んでいた時に書いた独り言と、東に住んでいる時に書く独り言で、同じ時期の問題を扱っていることからすれば、この専門家の話は少しずれているように思える。きちんとした実験に基づかない解説は、時に、こんな物議を醸し出す。

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9月22日(月)−選択

 democracy、誰もが知る「民主主義」である。だが、誰もがその意味を知っているかどうかは、非常に怪しいと思える。施政者に主権があるのではなく、市民に主権があることを指すのは、当然のことだろうが、一方で、何事も投票で決めること、つまり多数決が基本原理と思う人が多く、決めるべき事がどうあるべきか、全く考えない。
 自分たちがどの国に属するべきかを、投票で決めること自体に、何も間違いは無い、と思う人が殆どのようだ。つい先日の帝国からの離脱を、競った投票のことばかりでなく、現在紛争地帯と化している旧社会主義の国の一部でも、大国へと擦り寄る人々による、公正でないと言われた選挙も、そんなことを決めようとしていた。市民による選択を促す動きは、まさに民主主義の現れと評する人々が居るが、彼らの不見識を指摘する声は聞こえない。今、これを読んでいる人も、おそらくは、そんな指摘は難癖に過ぎず、折角の正当な動きを、不当に妨げるものと思うのではないか。だが、これらの選択が、ある意味、一方的な考えを源とすることに、気付いていないだけだろう。自分たちの選択ばかりが目立つけれど、実際には、反対側の選択も同時に進められねばならない。確かに、施政者が促したから、という理由は成立するが、民主主義であれば、選択の利害が単にその地域に及ぶだけでなく、周辺にも及ぶことを考えれば、対象となる地域のみが、選択の権利を持つとは言えなくなる。そういった考えも無しに、単に表面的な捉え方しかできず、諸手を上げて礼賛する態度は、実は、自らの無知を晒すことにしか繋がらない。これに気付かぬことこそが、知恵の無さを見せることだが、それを皆で言い放つことで、まるで、それが正しい考えのように振る舞う。こんな状況もまた、誤った民主主義の解釈によるものであり、下らない言説に過ぎない。そんな報道しかできない人々に、多様な見方を期待するのは、無理というものだ。

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