パンチの独り言

(2014年9月29日〜10月5日)
(噴火、欲深、課税対象、納税、誤認、余儀、変革)



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10月5日(日)−変革

 改革という変化に、力が集められている。その一方で、変化を妨げる力というものにも、目が集まる。抵抗勢力という言葉を、好んで使った宰相は、その後の展開への責任を、何処かに放り出したまま、下野したと言われる。だが、現実には、下野は誤摩化しであり、依然として、あの改革で利を得た人々から、便宜を受けているのだろう。
 騙され易いというより、騙されたいと思う人たちに、人気を得た人にとって、愚民を操ることは、容易いことだったのだろう。理屈より、情に訴える手法は、一瞬、人気を博すことへと繋がるが、その後の凋落は、見るも無惨な姿を晒すこととなる。それを、他人の責任へと転嫁し、潔く舞台を降りてみせたのも、得意の演技だった。その側で、悪行の限りを尽くした経済学者は、その後、更なる利を追求する意欲を見せ、類を呼ぶ甘い水を撒くことで、力を保ち続ける。利害とは、これほど明白なものかと思える位に、その分別を明らかにし、他を蹴落としてまで続けるあくどさには、そろそろ鉄槌がおろされても良さそうだ。この経過から見えるように、妨げる力を敵対視する手法は、まるで、好き嫌いの感情に訴える如くに、判り易さを際立たせる。だが、この例からも見えるように、対峙する勢力の力比べ自体には、何の意味も無く、改革という変化が、何を及ぼし、そこから生まれた新しいものが、どのように変貌して行くかにこそ、本当の意味が現れるのではないか。変化ばかりに目が奪われ、それを続けることに心が奪われてしまうと、何処にも落ち着き場所は見つからない。着地点が重視された時代と違い、変えることだけに目が奪われる時代は、目標を見失い、迷走を繰り返すしか無くなる。あれほどの大失敗を食らったのに、未だに気付かぬ愚かな人々が、次の失敗へと突進する。少し離れた地点から、批評する人を失った時代には、こんな展開も已む無し、となる。

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10月4日(土)−余儀

 最適化、という言葉は、最近は余り使われなくなってきた。一つに絞ることより、多くに分散することで、危機に備えるという考え方が、定着しつつある中では、多様化が持て囃されるのも已む無し、ということか。だが、人の行動を眺めると、分散の難しさが感じられ、最適如何に関わらず、一つにしがみつく傾向の強さを感じる。
 何とかの一つ覚えであるまいに、一つの考えに執着する人は、数え切れない程居る。その多くが、自分の考えしか知らず、他の考えに接したことも、それが過ったことも無いだけに、救いようの無い状態にある。固執すると言えば、批判的な表現となるが、拘りとなると、良い意味にも捉えられる。だから、後者が多用される訳だが、と言っても、多くの場合は、悪い方に向けられるのだから、深い意味は無さそうだ。それにしても、この手の人々を相手にした場合、多くのことに悩まされる。組織の方針に従わず、唯我独尊の道を歩む人たちは、自らの誤りに気付くことも無い。それはそれで、ある意味、幸せな状況にあるとも言えるが、周囲への悪影響が甚大となることもある。更に、状況の変化への対応も遅れ、足枷のような存在となるから、全ての進捗を遅らせることともなる。持論への拘りは、集団での協調性を欠いており、組織の制度への理解も遅れる。様々な遅延要因が加えられることで、改革は更に難しいものとなり、組織の存続も危ぶまれる。こんな事態に陥ったとしても、彼らを切り捨てることが叶わず、明白な結果への邁進を止めることができない。組織の長にとって、大きな障害に思えることだが、最近は、長でさえ、こんな人が増えていることが、全体の停滞に繋がっているように思える。

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10月3日(金)−誤認

 ある運動選手の成功は、国民性が持つ欠点を克服したから、という解釈があるようだ。協調性を重んじる社会で、それを投げ捨て、個性を伸ばした結果が、成功へと繋がったとの説明に、納得する人も居るだろう。だが、そんなに回りくどい解釈を施すこと無く、単純に、才能を開花させたとして、何が悪いというのか。
 協調性と強い個性は、相容れないものとして、多くの場合に扱われる。一見単純な図式に思えるから、こんな見方が一般的となるが、本当に正しいのか、怪しい部分も多い。特に、集団で行う運動において、この傾向についての解釈が出されるけれど、現実には、個性のぶつかり合いの中で、協調を優先させる必要が出てくる。にも拘らず、個性ばかりを殊更に取り上げるのは、個人の力を尊重する考えがあるからで、単純な総和を超える計算が成り立つような状況は、説明し難いものとして、排除される傾向があるようだ。始めの話は、個人競技だから、そういう意味での協調性は、要求されることは無い。だからこそ、個人の能力を伸ばすことだけに、力を入れればいいとの考えが、出されたのかも知れない。その考え方に異論を唱えるつもりは無いが、国民性との繋がりに言及するのは、誤認であるように思える。何度も、そのような指摘を受けてきた立場から言えば、個の力が十分に無いと、協調した時にも、効果を得ることができないし、他力本願では、何も始まらないことも明らかである。簡単な状況に思えるが、どうも、所謂ステレオタイプに落ち着かせたい人々にとっては、そんな方向への議論には、面白みを感じないのだろう。褒められることに不慣れで、貶されてこそ、安心をする国民性は、こんな時、成る程と納得するのだろうか。重要なのは、自ら正しい評価を下すことで、それなしには、何も見えてこないことに気付くべきではないか。

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10月2日(木)−納税

 有無も言わさずふんだくる、といった感のある税金だが、本来、そんなものではなかった筈だ。だが、厳しい年貢から想像されるように、上に立つ人間が決めた規則に従い、下に居る人間は苦しい生活を強いられる、という感覚は、ずっと昔から続いてきた。義務と書くことは、その意味を考えなければならないことを、示している。
 だが、現実はどうだろうか。無駄ばかりを目立たせる報道は、偏ったものでしか無く、実態を正確に示していない。一方で、税収を基に、様々な公共性のある事業を進める本体は、その実施に力を入れるだけで、納税者への説明を怠っているようだ。そんな不均衡が理由でもないだろうが、最近の傾向は、それぞれの組織の自由裁量が拡大している。国が集めるものには、例外措置は無いが、各地方が担当するものに関しては、自由度が高まりつつあり、別の要因も加わって、注目を浴びているらしい。ふるさと納税と名付けられた仕組みは、元々は、自分の出身地への寄与を優先させたものであり、更に、大震災の後、何処に使われるか判らないものより、使う場所を指定できることに、魅力を感じた人々が、自らの意思で納めるものとなっていた。だが、その勢いは徐々に収まり、本来の姿に戻り始めると、状況は余り芳しくないものとなっていった。そこで導入されたのが、納税への返礼としての、物品配付の制度だろう。報道は、こういう話題に飛びつく性質を持つが、この例でも、誤解を招く情報を流し、制度が持つべき本来の使命を理解しない、無知蒙昧の説明を繰り返す。税制上からすれば、納税総額はある水準に定められる。たとえ、納める相手を変えたとしても、その点が変わることは、平等の考え方からすれば、あり得ないこととされる。だが、返礼にかかる予算が、何処から賄われるのかを考えると、この制度の不思議が露呈するのではないか。つまり、受け取った税のうちの幾ばくかを、その見返りとして支払うことは、手元に残る額を減じることになるのだ。だとしたら、総額は減ることになり、本来の使途を賄えなくなる。これで良いのか、誰も気付かないのか。

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10月1日(水)−課税対象

 収入が減り続ける中で、値下げを断行する。企業経営においては、最終手段の一つとして、時に、採用されるものだが、その効果の程は定かではない。常に、結果論として言えば、何かしらの影響は出るものの、思い通りの展開になるかは、保証されていないからだ。それでも、苦肉の策として、これまでに何度も試されたことだろう。
 では、これが国の話となるとどうだろう。個人の存在が強まるに従い、国の存在意義は、徐々に弱まっているように感じられる。個人の利益を優先させることで、国力が全体に強まるのであれば、大した問題とはならないが、現状は、正反対に進んでおり、全体の力が弱くなっているにも関わらず、個人優先の考え方は、改められる気配がない。税収は減り続け、公共事業は縮小され続ける。無駄金と揶揄されたことからすれば、正しい展開とも見えるが、国力の弱まりは、実は、様々に大きな影響を及ぼしている。公共事業が、道や施設の建設のみと見れば、無駄との指摘もできるだろうが、福祉に関して見るとどうだろうか。自力で頑張るから要らない、と宣言した人たちも、老後の窮地に、前言撤回を繰り返す。個人の尊重は、こんな身勝手を許す為のものではない。だからこそ、税収の増加を狙うべきだが、困難を伴うようだ。その中で、減税を訴える組織がある。企業経営にとって、法人税は重い足枷と言われ、軽い場所へと移転する話が、毎度お馴染みの如く出される。増税が、逆効果となると言われる所以だが、現行の税制に問題は無いのだろうか。世界標準との考えからすれば、本社の所在地という考え方は、そろそろ古臭くなってきた。それぞれに、収益を上げた場所で、税を納めるようにすれば、その根拠も理解し易い。発展途上の国も、経済成長に従い、税収が増せば、様々な手立てを講じられる。移転の話で騒ぐより、基準を改定する方が、余程まともに見えるのだが。

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9月30日(火)−欲深

 不正を如何に防ぐか、様々な業界で取沙汰される課題だが、完全に抑え込むことは難しいようだ。個々の事例により、種々の事情があり、一概に片付けることができない点も、大きな要因なのだろうが、もっと大きなものは、不正の陰にある欲望という人間の性にあり、金銭的なものに限らず、何かを手に入れたいとの思いにある。
 金銭に関わるものとして、何度も取り上げられたのは、金融業界の不正だろう。特に、厳しい処罰が下されるのは、海の向こうの国なのだが、それでも無くならないのは、発覚しなければ、との思いが潜むからだろうか。これほど直接的ではないものの、向こうの国との関わりで、冷戦時代に集中して取り上げられたのは、最新技術の流出、あるいは、それを盛り込んだ製品の輸出、といった形での規制違反だろうか。ただ、これは国という大きな組織での関わりであり、個人の感覚では、理解し難い部分もあった。特に、収益の追求という意味で、企業への寄与を考える点からすれば、前者のような個人の金銭欲とは、随分違った背景があったようだ。それでも、寄与が昇進に繋がれば、と考えれば、個人の欲の一つと見えなくもない。一方、研究という特殊な世界から、一気に吹き出した、不正の嵐については、特殊な括りが施されることで、これも遠くの世界のことのように扱われる。だが、昇進という直接的な要素は小さいものの、名誉欲と呼ばれる、他人の目の向き方を気にする人々に共通する感覚が、大きく影響したようだ。捏造、改竄、盗用など、一人の人間で可能な限りの不正を繰り返したとされる人物も、欲望の塊と見なせば、少しは理解が及ぶのかも知れない。だが、これらを防ぐ為に、何をすべきかとの課題には、欲だけの問題としては、答えが導けなくなる。欲はあるべきだが、それを無限に広げては、不正に繋がる。規制をかけたがる人も居るが、始めの話のように、欲をかいた人には、通じないのだろうから。

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9月29日(月)−噴火

 自然の脅威を感じた人が多かったと思う。だが、徐々に詳細が明らかになるに連れ、脅威に対する感覚が急速に膨らんだのではないか。生存者の話から判るのは、運不運の違いでしかなく、津波の話とは、かなり違う感覚がある。触らぬ神に祟りなし、とは言うものの、信仰の山として長い歴史を誇るだけに、複雑な気が残る。
 まさに、爆発的な脅威に対して、人間はちっぽけな存在にしかならない。生死を分けたものは、様々にあるのかも知れないが、根底には、運でしかないものなのだろう。人間の力を、意識する人も多いのだろうが、地震だけでなく、豪雨や強風など、様々な自然災害に接すると、ある程度の備えが必要であることは判るが、運だけはどうにもならないように見える。その中で、予知や予測に関する意見も聞こえてくるが、これもまた力の一つとして、期待する気持ちは判らなくもないが、可能かどうかの問題は、別にあるように思える。データ分析の一つとして捉える限り、十分な情報さえあれば、という思いに至るのは、何となくありそうに見えるのだが、何処まであれば十分なのかの議論には、余り触れられていないようだ。こんなことが起きる度に、予知の重要性が取沙汰されるが、その可能不可能の問題だけでなく、備えとしての対応策に関する問題も大きい。その中で、起きる可能性ばかりを強調する風潮が、一部の人々に広がっており、今回の災害との関連も深いことから、また、極端な言動が増えるのでは、と思えてくる。まさか、こんなことで、狼少年が増えるとは思えないが、そんな軽率な判断も、ありそうにも思えてくるから恐ろしい。

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