パンチの独り言

(2014年10月6日〜10月12日)
(より安全、脅迫、何故?、事故死、青色、地方、捏ね回す)



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10月12日(日)−捏ね回す

 毎日のように、何処かに歪みを感じるのは、かなりの抑圧となるのではないか。そんなこと、気にする奴がおかしい、との指摘も聞こえてくるが、社会の混迷化は、こんな所を端緒として、始まることを思えば、放置する方がどうかしている。だが、大したことは無い、と考える人々は、実は、別のことに目を奪われている。
 歪みの原因は、勝ち負けへの拘り、にあると思う。何事にも、二つの様相を置き、どちらかへの加担という形で、白黒をはっきりさせる。これは、現代社会に巣食う、判り易さという病いを、蔓延させることになる。物事の理解の為に、勝ち負けが関係ある筈も無く、本質を見抜くことこそが、唯一の手立てとなる。にも拘らず、世は、勝ちか負けかの二者択一に目が奪われ、そこに在るべき事実の理解は、二の次にしかならない。その最たるものは、ディベートと呼ばれる作業にある。議論を盛んにする為の手立てとして、特に、教育現場に採り入れられた作業は、事の真偽よりも、議論での勝敗を優先させる風潮を強めた。何が真実か、明確にならないものを対象としての議論では、この手法が様々な形で効果を示すが、現場に居る無知な人々により、乱用が繰り返された結果、本来、事実である筈のものにまで、反対意見が提示され、それが勝ちを収める例にまで至る。議論の重要性を論じるだけなら、この結果も受け入れるべきだろうが、曲げられぬ事実、という観点から見れば、この結末は、あり得ないものとしか言えず、無用のものとすべきではないか。こんな作業に、教育界が侵されるに従い、ご都合主義の論理さえが罷り通り、正誤より、多数の賛同を得ることに、躍起になる人々が中核を占めてきた。民主主義が、多数決だけのものとなり、事実を捩じ曲げる勢力に、侵略された結果、勝敗こそが全てとなったが、正解が無い議論ならいざ知らず、科学的事実に対してまで、こんなことを論じていては、宗教に侵されていた中世に舞い戻ることにならないか。

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10月11日(土)−地方

 地方と都会とは、何が違うのだろう。都会に魅力を感じる人々にとって、違いは歴然としており、憧れの対象には、地方とは全く違う印象が抱かれる。だが、それらの違いの多くは、現実には、大したものではなく、始めは大きく感じられても、慣れてしまうと然程でもなくなる。移り住むことで、感覚が変わるのも、そんな所か。
 でも、これは、反対の方向にも働くことではないか。地方の魅力を、様々に取り上げ、人の移動を促そうとする動きは、最近、特に目立ち始めている。しかし、ここでも、別の要因が働き始める。慣れも大きな要素の一つだが、利便性が最大の要因のようだ。当然のものとして、何も感じていないことでも、失ってしまうと重大なものに思えてくる。交通機関は、その一番に上げられるものだが、都会に住む人には、当然と映る存在のようだ。便利なものは、慣れてしまうと当然となり、有り難みは薄れるばかりとなる。だが、ほんの限られた地域にしか、こんな状況は実現しておらず、多くの地域では、そんな便利は手に入らない。偶に流される番組で、そんな状況を伝えるものがあるが、多くの人は、そんな不便に直接接する機会を持たない。だから、不思議に思うだけで、終わってしまう訳だ。地方再生を謳う動きが出ているが、果たして、どれ程の本気によるものか。ばらまきと揶揄された政策と、何が違うのか判らないが、一部には、別の思惑があるとの話がある。政治の動きは、無関係な人々にとっては、どうでも良いことなのだが、マスゴミには、分かり易い話らしい。こんな所にも、無駄がばらまかれているのだろうか。

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10月10日(金)−青色

 賞は授ける側の都合で選ばれるもの、という意見がある。だから、権威あるものでも、時に、その意味が見えないことが起こる。それを批判するのが役目と、自負する人々も、実は、別の都合で評価を変える。そんな遣り取りに、一々目くじらを立てたとしても、大した意味は無い。事実のみを追いかければ、それで良いということか。
 自然の摂理を見出した人に与えられるものと、多くの人が抱いていた印象は、この所、授ける側の動きから、かなりかき乱されている。話題を優先させる動きに乗ったものは、薄っぺらな構造や新たな粒子の発見への授賞が代表格だろうか。今回のものの特異な点は、あまり指摘されていないものでは、発表時の演出とその功績の内容だったのだろう。唐突にポケットを探る仕草に、一瞬の静寂は乱された。一方、節電という功績に、戸惑った学者も多かったのではないか。人類への貢献なら、平和賞の方が合致するのでは、との声も聞こえないから、妥当な選考だったのだろう。だが、批判の任にあたる人々には、この安っぽさが、魅力に映ったのではないか。この国では、企業を訴えた人としてしか、印象に残っていない人物が、中に含まれていたことから、再燃の兆しが見えているが、これは、選考とは何の関係もない事柄だ。にも拘らず、毎度の如くの書籍紹介が示される中で、紛争と無関係の技術に関するものは、全く見られない。本来ならば、このサイトの「読んだ本」の面白かった本 その1に示した「赤の発見 青の発見」を第一に取り上げるべきだし、製品化の過程を知る為ならば、2003年6月に紹介した「青の奇跡」こそが適切となる。どちらもある小さな出版社のものだが、大手が話題のみを追うのに対し、中小が本質を追うというのは、どの業界にもある現象のようだ。そんなものを拾い上げる所にこそ、知性が宿る筈だろうし、誇り高き職業人と言えるのではないか。馬鹿騒ぎを演出し、下世話な話題に導くことが、マスコミの役割だとしたら、マスゴミと呼ばれても仕方ないだろう。

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10月9日(木)−事故死

 歩きながら、足元を見ると、そこに鎌を抱えた姿がある。30分の間に、6つも見つかるのは何故か。おそらく、草むらから出てきた所を、巨大な敵に襲われたのだろう。鎌を擡げる独特の姿は、攻撃への反応を現すが、如何せん、大きなタイヤに押し潰され、まさにペチャンコになった姿が、舗装の上に残されている。
 カマキリ、蟷螂とも呼ばれる昆虫は、その世界の強者だが、走る機械を相手にしては、勝ち目は全く無い。にも拘らず、あの攻撃姿勢をとるのは、本能の為せる業だろうか。にしても、この季節に、こんな姿をさらすのには、何か理由があるに違いない。普段は草むらで、他の虫を捉え、貪り食う姿が見られるが、広く開けた舗装路を、危険を冒してまで横切ろうとしたのは何故か。ここからは推測に過ぎないが、多分、その殆どが雌の個体で、卵を抱えていたのではないか。カマキリの卵は、木の枝に産みつけられることが多く、草むらには、肝心の木がないので、それを探しての大移動の最中だったと思われる。これまで、殆ど見かけられることのなかった死骸が、この時期に、度々観察されるのは、そんな時期の一致が無いと、あり得そうにも無い。それにしても、生き続けた挙げ句、次の世代へと繋ごうとの努力が、思わぬ結末に終わるとは、何とも悲しい話である。虫の世界に君臨する姿は、怖いもの知らずの様相を呈するが、如何ともし難いとは、まさにこんなことだろう。巨大な存在に押し潰されても、その攻撃姿勢を保ち続けているのは、皮肉なものに映る。ただ、多くの人は、そんな死骸に気付くこと無く、職場への道を急ぐ。歩いている人も、そうだろうから、まして、車を運転する人には、そんなものが目に入ることも無いだろう。風物詩と呼ぶには、何とも薄気味悪いものだが、これも、季節の移り変わりの証の一つに違いない。

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10月8日(水)−何故?

 何故と思うことが大切、と言われるけれど、何を思えば良いのか、という声は絶えない。鵜呑みを繰り返す人にとって、疑問は、思いもよらぬ行為であり、そんな思考回路さえ持たない、とも言われる。こんな時代だから、世相操作は容易く、一時的にせよ、国の向かうべき方向さえ、思いのままとなることがある。
 その中心に居る人々は、様々な立場にあるものの、必ず登場するのは、政治家ということになりそうだ。過激な発言を繰り返し、問題を顕在化させることで、思い通りの展開を進めた宰相の話は、既に何度も取り上げたから、今更の感さえ出てきたが、その極端な例として、後世に伝えられると思う。一方、その後の激変の中で、それぞれに思いを遂げようと努めた人々も、別の形で名を残すだろう。それにしても、操作を志した人々には、常に反対を唱え、抵抗を示す人たちが居る。彼らの声も、こんな時代には、大きく取り上げられることがあり、暗黒と呼ばれた頃とは、随分違った状況にある。だが、社会の感覚が、極端に走る傾向は、こんな所にも現れており、どちらに与するかという、立場を明らかにすることが、優先されている。立場から、何を支援するか、どう考えるか、等々の様々な要素が決められ、その筋書きに乗せた展開が進む。こんな所にも、判り易さが蔓延している訳だが、これこそが、何故が入り込む余地を無くし、賛否ばかりに目が集まる雰囲気を作る。これが当たり前となる中では、疑問を差し挟む人の存在は、邪魔なものとされ、爪弾きとされる。協調性が、そんなものを産み出したとするのは、何ともおかしな話だろう。何故なら、極端な言動の人々には、そんなものは微塵も無いからだ。何故が、自然に出てくる環境、とは、どんなものか。

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10月7日(火)−脅迫

 何故あれほどに脅しをかけるのか。最近の報道姿勢に、そんな疑問を抱く人も多いと思う。理由は、ある意味簡単なことかも知れない。煩い程に責任を問う姿勢が、自分に向けられた時のことを、考えているというものだ。言っておけば、責任を問われないとは、何とも情けない話だが、それが追求の姿勢だとしたら、大したことは無い。
 攻撃は最大の防御と言われるから、何事にも攻めの姿勢を貫くのは、実は、大した考えに基づくものではない。同じ事を繰り返すだけなら、誰にもできることで、大袈裟に公共の媒体を使う必要も無い。特に、最近は、各自に身勝手な発言の場を有する訳だから、職業上の手立てを使うまでもないだろう。だから、という訳でもないが、まるで専門家の如くの発言を続ける人は、増えることはあっても、減ることは無いようだ。次々に登場する、名も無い人々は、攻撃を常とし、それを続けることで、他人を貶めていく。だが、彼らは、実は、失うものなど何も無い。防御の必要さえ無いのだから、勝手気侭な暴言さえも、許されることとなる。それに比べ、発信源が明らかな場合には、事後検証から、厳しく責任を問われることが多い。だから、始めに書いたような姿勢を続けるとしたら、それは、余りに情けないことではないか。事実を伝える役割を投げ出し、脚色を施したものを、流し続けるのだとしたら、彼らに託された役割は、果たされないことになる。災害の度に、極端な発言が続けられ、脅迫にも似た表現が並ぶ。それにより振り回されたとしても、時には、命を救われることもあるのだから、とまで言い放っては、どうにもならないことだろう。そこまで脅さなければ、動き出しそうにも無いから、という言い訳に関しては、実は、別の問題が見えている。自らの判断を下すべき時まで、誰かの発言に振り回される人の問題だ。本来は、人それぞれに、決断しなければならない状況でさえ、決められない人々の存在は、あの脅迫を後押しするようだ。

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10月6日(月)−より安全

 教え育む場の影響力は、以前程強くはないのかも知れない。身近な情報源しか持てない時代と違い、現代社会は、様々な道具を駆使すれば、多種多様な情報源を手にすることができるからだ。一見、豊かに見える状況だが、その実、全体の偏向が著しくなり、多様に見せるまやかしに、踊らされているに過ぎないのではないか。
 その中で、現場は復権を目標に、様々な手立てを講じている。これもまた、表面的には、地道な努力の積み重ねのように扱われるが、多様な情報源が手に入る中では、本質的には、安易に飛びつく傾向ばかりが高まっている。考えさせるのは、面倒に見えるので敬遠され、判り易さが、第一と見なされるのも、その現れの一つであり、それにより、偏りは更に強まることとなる。というのも、考えることを敬遠する動きは、独自のものより、同調するものを選ぶことに繋がる。自分で考えるより、他人のものを拝借するのが、安直となる訳だ。世相の反映は、何時の時代にも見られることだが、今の状況は、異常とも思える程、極端に走っている。安全安心の要求は、一時妥当なものと受け取られたが、度を過ごすと見られた途端、異常と片付ける人が出てきた。確かに、そのような要求を持つことは大切だが、そこに絶対を条件とすることで、全く違う状況が生まれることになる。個人の要求は、これにより著しく高いものへと変貌し、達成不能なものへと変化する。それに気付かず、いつまでも叫び続ける人は、ある意味、狂気に取り憑かれている訳だが、世相は、それを許容しているように見える。地産地消を奨励する動きに、教育が関与することに、異論は差し挟まないが、そこで、安全を論じることには、何か別のものを感じる。信頼が基本となることに、身近という条件が加わるだけで、到達できるとする動きには、盲目的な挙動が見え、危うさが強まる。その一方で、安全第一との教えは、絶対への要求を強めかねないことに、配慮が必要ではないか。

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