パンチの独り言

(2014年10月13日〜10月19日)
(偏執、回避、後出し、本分、無法者、当て、推量)



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10月19日(日)−推量

 読む方も、もう飽きてしまったかも知れない。でも、事ある毎に、気になる展開が広がると、つい、また書きたくなる。事実を伝えることが、唯一の役割と言っては、流石に過ぎるとは思うが、第一に、そこから始まることに、異論のある人は居ないだろう。報道に携わる人々にとって、事実伝達がどうあるべきか、大きな問題だ。
 今回は、何が気になったのか。彼らの得意分野の一つである、政治に関する話題が、ここ数日、最優先のものとして取り上げられてきた。だが、文字で伝達されるものと、映像で伝達されるもので、これほどの違いを見るのは久しぶりと感じる。不祥事は、政の世界では、日常的なものであるのに対し、それへの対応は、常に厳しいものと扱われる。道徳に反するものでは、それぞれに、考えの違いを表に出せば、仕方無いの一言で片付くこともある。ただ、次の選ばれる場では、それを基に決断する人が出て、逆風と評されることとなる。一方、規則に反したものだった場合、心の持ち様では片付けられず、間違いの素を明確にし、場合によっては、謝罪が必要となる。その世界での生命を長らえる為に、様々な工夫が施され、進退へと繋がるようだ。今回の話題も、帳簿上の不手際を指摘され、その原因よりも、結果の問題として、どの選択も規則に反するようで、社会的常識にも逃げられないものと、紹介されていた。となれば、話題の中心は進退であり、いつも通りの辞める話へと移る。その想像からすれば、どの媒体も同じ扱いになって良い筈が、映像では語った事実しか伝えられず、可能性の話が否定されれば、更なる展開へと踏み込むこともできない。それに対し、文字ならば、何処の誰が語ったものか不明でも、事実として扱うことで、辞任と断定することさえできる。以前なら、この違いが歴然としていたのに、最近は、殆ど違いが見えなかった。想像力の欠如は、こんな所に反映したのだろうか。

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10月18日(土)−当て

 何か事を進める為に、交換条件を提示する。ごく普通の手法に違いないが、何にでも適用すると、それが当然のこととなり、何かを要求する声ばかりが高まる。改革には、たとえ損失が出ても、最終的に利益が上がれば良しとする。そんな考え方が、よく引き合いに出されるが、本当に、その通りなのだろうか。
 この法則は、あくまでも事例により異なり、絶対的なものとはならない。身の回りの変化を眺めても、功を奏したものもあるが、無駄となったものも多い。どちらに目を向けるかは、性格にもよるのだろうが、推進派の多くは、上出来のものばかりを取り上げる傾向にある。反対派だけでなく、批判する側に回る人々は、悲観的な見方をするから、上手くいった話には目もくれず、失敗ばかりを取り上げる。各事例がどんな結末を迎えるかは、始まる前には見えていないから、こんな議論が成立する筈も無い。その代わりに、事例毎の違いをはっきりさせる処理を施し、比較できるようにしたらどうか。その一つが数値化という処理で、損失と利益とを並べ、その推移を提示することで、それぞれの違いを目に見える形にする。無駄な処理と思う人も居るが、好き嫌いに基づいたり、楽観か悲観かに左右される、下らない口喧嘩に精を出すよりは、ずっとましな議論ができそうだ。成果を得る為には、餌が必要というのも、そんな考え方の一つであるが、最近は、撒き餌だけを持ち去り、成果を出す努力さえしない輩が増えた。特許の話には、そんな事情が反映され、一部から批判の矢が放たれる。企業寄りの政策が目立つ政権では、餌撒きもそんな意図に基づき、無駄に見えるものが続出する。景気回復に向け、賃上げを命題とする中で、法人税が引き合いに出されるのも、安直な考えに基づくものだが、困るのは国となるのではないか。税収が減る傾向を止められず、却って加速する手立てを講じるのは、どうかと思う。それでも、所得税率をそのままに、税収増が見込めるとの目論みも、餌だけを漁る世相の中では、当て外れになりそうな気配にある。

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10月17日(金)−無法者

 打開の為には、何をしても良い、と思う人は多い。だが、法治国家の中では、優先すべきは法令であり、打破なのだから、破っても良い、ということにはならない。ただ、新規の提案は、必ずしも適法性が判断できる訳ではないから、その度に、検討が必要になる。後手に回ると言われるのは、こんな事情によるからだろう。
 沈滞の空気に満ちた中で、革新的な提案が出されることに、諸手を挙げて歓迎する人々が居るが、楽観に過ぎるように思う。官庁からの提案は、総じて、手詰まり感が強く、目新しさが殆ど見えない。枠組みが決められた中での提案には、始めから足枷が付けられており、画期的なものが少なくなるのも、仕方ない所だろう。だが、法律を制定する立場に無い人々には、そんな制限は感じられない。秩序を乱すかどうかの判断さえ、何処かに放り出して議論すれば、一部への不平等や過度の優遇さえも、当然のものとして据えることが可能となる。その結果、違法性が指摘されるまでは、画期的な成果を勝ち取ることもできる。だが、所詮、違法は違法、法の遵守は、その下での活動では、何よりも優先される。法人において、それが厳しく適用されるのも、利潤追求という目標に対し、脇目もふらずに邁進する過程で、肝心の前提を見失うことが多くなるからだ。始めから、利益のみを考える組織では、制限を課されることも、致し方ないとの受け止めが為されるが、別の要因で、その格を与えられた組織は、元々、自分中心の考えが罷り通ってきただけに、法令遵守が、改めて周知されるなど、後手にならぬような手当が進められている。しかし、自己中心は、法でさえも自らをその基本におこうとする。最高学府の頂点に君臨する組織では、これを当然と見なす人々が蠢き、自らの優秀さを掲げ、身勝手な行動を正当化しつつ、斬新な提案を作り出す。歓迎の声を拾い、自画自賛へと繋がる思考形式は、相変わらずのものであり、過大な自己評価には、反省の文字は存在しない。肝心の研究の場でさえ、不正が取沙汰される中で、法破りの革新性は、法外な結果を招くが、所詮秩序の外の話だ。

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10月16日(木)−本分

 ぶつぶつ言い続けていると、何処かから、堅苦しいとか古臭いとか、揶揄する声が聞こえてくる。減速し停滞し続けている状況を、打破する為の革新の力は、従来の考えを破棄し、全く新しい見方から生まれる、との考えは、長いトンネルに、疲弊し続けてきた人々に、新鮮に響いたのかも知れないが、甘い罠に過ぎないのではないか。
 こんなことを書くと、保守的な考えに囚われた、古い人間のように見られるかも知れないが、新しければ良いのか、と言っているだけのことだ。最近の新しい考えには、首を傾げざるを得ないものが多く、中でも、枠から飛び出すことに目を奪われ、枠そのものの意味を顧みない人々には、不見識しか感じられない。本分とか本務とか、そんな言葉を並べると、融通の利かない人と批判する声が、専ら聞こえてくるけれど、本来の姿を消し去り、別の姿で活躍するのであれば、枠の元となる括り自体を排すべきだろう。教育機関が、教育以外のことに手を出すことに関して、一概に反対する気はないが、まるで、一般企業の如く、利潤を追求する姿を、露骨に示すようになると、その革新性より、本務を見失ったことに、危うさばかりが目についてくる。以前、法人格の問題として、一般企業と同様の姿への転換が図られたにも拘らず、結果としては、何の変化も無く、足枷ばかりが目立つことを批判したが、それは、宗教に関わるものと同じように、ある優遇を享受できる組織だけに、制限がかけられるべきという基本を、消滅させるという意味ではない。基本は堅持し続けねばならず、その中で、如何に自らの活躍の場を設けていくかが、問われている訳で、本務、本分を捨て去ることが、革新へと繋がると考えるのは、大きな誤りとなる。教育が優先され、研究が二の次と見なされていたものが、いつの間にか、利潤追求には研究第一との考えにすり替えられ、違法とも思える動きが強まる。法律の適用範囲内との説明にも、それより、本分は何か、と問いかけてこそ、厳しい批判となる。

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10月15日(水)−後出し

 結果が出てから、検証をする。解析の常道なのだが、どうもしっくり来ない。理由は簡単、脅迫にも似た大騒ぎの後、空振りに終わった原因を、得々と述べる人々に、信頼の文字が似合わないからだ。評論家が、その役目しか果たせなくなった現状は、まさに、悪化の極みに思えるが、まだ底打ちした訳でもないのだろう。
 お役所が先頭を切って、悲劇の台本を演じる社会は、ある意味、破滅への道を辿っているように見える。本来、冷静な判断を下すべき役割が、これほどに蔑ろにされるのは、責任転嫁の風潮が著しくなっている証だが、それにしても、客観を受け入れられぬ人々には、何かしらの害が及んだとしても、自業自得と言うべきではないか。これは、役所の醜態を、擁護する為のものではない。この程度のことで、自らの務めを放棄し、愚民の側に擦り寄る姿に、落胆の色は隠せない。異常の前兆が、確かめられていたのに、情報が正しく伝わらなかった、とする意見には、噴火が起きたという、確実な結果を得てからの解析という、確率的な事象が確定的になってからのものとの限定が、無視されているし、最強がそれ程でもなかったことに対する、海水温の影響との分析は、その場でも十分に議論できた話であり、これもまた、結果を得てからの言い訳としか見なせぬものだろう。何故、このような結果に至るのかは、実は、ごく単純な理由によるものに過ぎない。台本に書かれた台詞を、そのままに読むことが優先され、演じるのが悲劇か喜劇かは、渡された本によるからなのだ。普通の生活には、悲喜劇のような極端なものではなく、それぞれが入り混じった上で、浮き沈みが交互に起こるのが、当たり前なのである。極端に走る風潮が、これほどに高まる時代は、責任の棚上げと転嫁が続くものとの解釈は、的を射ているのではないか。

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10月14日(火)−回避

 危機回避の問題は、災害が起こる度に取り上げられる。確かに、関心を呼ぶ瞬間に、皆に考えさせることが重要なのだろうが、毎度のこととて、殆ど無視されているのではないか。盛り上がらぬもう一つの理由は、対策の多くが、常識に基づくものであり、当然と見える半面、その事態に陥ると、状況が一変することに、気付かぬからだろう。
 そんな状況に痺れを切らした訳でもなかろうが、別の動きが強まることに、戸惑いを覚える人も多いのではないか。自身の判断を下すことも無く、周囲の状況に振り回される人が多い為、常識が表に出てくることは少ない。各自が持つ常識に基づき、様々な判断を下す筈が、周囲に引き摺られることで、常識が棚に上げられてしまう。このこと自体にも気付かぬ人々は、すぐに、責任転嫁を思いつき、自らの役割に目を向けることは無い。そんな状況が長く続いた為か、更には、責任を押し付けられることに、公共の機関が、嫌気がさした為か、愚かな人々の下らない行動に、手を貸すことを止めたとも思える事態が起き始めた。大量交通機関において、何かの事故が起きれば、その影響は、多くの人に及ぶこととなる。個人の判断は、ただ一人の問題に過ぎないが、こういう所での判断は、数え切れぬ人に影響を及ぼす訳だ。外出を控えろとの指摘に、危険を感じる人々も、交通機関が普通に動いていれば、安心を抱いて出かけてしまう。その結果、偶々にしても、事故が起きれば、出かけた責任は、自分ではなく、動かしていた人にあるとする。この思考経路に、何の疑問も持たない人が増え、批判を繰り返す中で、その後押しをするゴミのような人々が出た為か、災害の可能性が指摘されると、早々に、運休を決める機関が増えた。危機回避の最適手段は、動かさないことというのは、まさにその通りだろう。更に、一部の苦情でも、一時のことに過ぎず、大過を避ける為にも、触らぬ神に祟りなし、となるのも当然である。ただ、当たり前は常識とも言えるが、何処か違う気もする。

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10月13日(月)−偏執

 祝日との繋がりから、取り上げられているのだと思う。にしても、取り上げ方については、相変わらずの操作が目に余る。問題を取り上げ、それを掘り下げるのが役目、と思っているにしても、著しい偏りは、公平性の観点から許されるべきではない。脅しを常道とする輩には、普通の話は目に入らず、良い話は唾棄すべきものか。
 体力測定の話は、次代を担う人々の動向を見守る手立ての一つとして、毎年取り上げられてきた。その中で、低下傾向は、殊更に取り上げられ、まるで、国が滅びるかのような扱いが、繰り返されてきた。課題に光を当てる、という役割から見れば、当然の結果だが、そこに作為が潜むとしたら、どうだろうか。最近、更に評判が低下する報道の世界だが、媒体により、違いが露になることは、多様性の観点から、悪いことではない。だが、同じ媒体の違う組織が、同様の作為を盛り込んだ内容を流しているのは、やはり、その世界がある病いに冒されていることを、示しているように感じられる。情報量の違いは、紙面で伝えるものと画面で伝えるもので、大きく違うことは、よく知られている。だから、著しい偏向もやむを得ない、としてしまっては、良識は汚されてしまう。体力測定が始まった50年前と今を比べて、違いを分析することに、誤りがある筈も無く、その分析を、何かしらの対策に利用する動きも、当然の成り行きに思う。だが、結果の一部のみを取り上げ、殊更に、その問題を重視する流し方には、作為があるとしか言えない。他の結果は、昔に比べて向上したのに、それに触れること無く、低下したものだけを取り上げ、その原因を役所の発表として伝える。一見、報道姿勢の基本を示しただけに思えるが、都合のいい偏りには、何かしらの意図が見え隠れする。運動全般の中で、ボールを投げる行為には、ある特別な訓練が必要となる。その低下を取り上げる姿勢には、子供たちの人気競技の変遷に対する、特定の面からの見方が反映されている。その意図の源は、知る術も無いが、人気の変遷がある以上、何かしらの関連があるのだろう。こんな偏見を許す業界に、信頼は置けない。

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