パンチの独り言

(2014年10月20日〜10月26日)
(異見、意見交換、直近、適応、厳しさ、馬鹿騒ぎ、彩錦)



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10月26日(日)−彩錦

 そろそろ便りが届き始めたものの、まだ近くでは変化が見えない。樹々の彩りの変化が訪れると、秋の深まりが実感され、季節の移り変わりを意識できる。四季の変化がある国として、一種誇りのように思うのも、こんな自然の変幻を目の当たりにできるからだろう。環境整備に人の力は必要だが、それだけでは成らぬことがある。
 その一方で、この変化が始まる前、道端の花の数は減り、彩りも鮮やかさを失う。その後の急激な変化を際立たせるかのように、全体に単色の空気に染まったかのようで、秋の寂しさを表現する変化にも見える。よく探せば、小さな花が咲いているし、秋の草花も数多くある。にも拘らず、こんな感覚に陥るのは、この季節の特徴の一つなのかも知れない。暗い季節が明け、心が躍り始める季節とは逆に、鮮やかで賑やかだった季節が過ぎ、徐々に色や明るさを失い始める。その中で、最後の輝きを示すのが、緑一色だった森が、赤や黄に染まる自然の営みなのだろう。動き回ることのできない生き物たちが、自分の命を守る為に、様々な備えを施す中での出来事だが、人の目には、全く違ったものに映るのだろう。まるで絵筆で描いたかのように、全山を染める彩りには、感じるものが多いようで、人々は近くの山だけでなく、遠出も厭わなくなる。毎年繰り返される行事のようなものだが、自然の営みでは、人の思い通りの展開になる筈も無い。それまでの積み重ねが、様々な形で反映されるだけに、色の変化は年毎に大きく変わることも多い。それを目にすることで、次の年の変化を占うといった考えも、根も葉もないものではなく、何かしらの経験に基づいたものなのだろう。考えることが能力の一つに見なされる生き物とて、人工の世界に生き続けると、そんなものを見抜く力さえ失いつつあるのだろう。

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10月25日(土)−馬鹿騒ぎ

 一時の狂騒は何処へ、と思う人は居ないのかも知れない。最近の傾向は、火の無い所に油を注ぎ、後から火種を放り込む形だから、元々は、燃えるものなど一つも無いことが多い。だから、燃やすものを継ぎ足さず、騒ぎが収まってしまえば、水をかけずとも、あっという間に鎮火する訳だ。噂の寿命と同様に、短いのも当然か。
 だが、一見、火が消えたように思える状態でも、燻り続けることは多く、時々、思い出したかのように、続報が流されたり、それに関連した話が取り上げられる。可能性が完全に否定はできないから、という理由での特許の話は、流石に笑うしかなかったものの、責任者の減給に関する話題は、遅きに失したと思うだけのことだった。どんな責任を負うのかが、明確にできなかったから、ここまで時間を要したのだとの解釈も、あるのだろうが、少なくとも、脚色を含め、肝心な情報以外に広げられた広報活動に関して、管理者責任は明白だった。組織内では、部署が違うだけでなく、設置場所まで異なるのだから、勝手な暴走が防げなかったとの見解が、当然のもののように扱われているようだが、そのこと自体に、管理体制の問題があり、構成員一人一人の自覚の欠如だけでなく、管理する側の意識の低さにも、大きな問題があると言わざるを得ない。研究成果についての責任を、管理者に求めるのは的外れだとしても、馬鹿げた誇大広告の元凶について、責任を問う声が聞こえなかった事自体、体制の不備を指摘すべきことだろう。もう9ヶ月が経過しようとするが、研究成果の真相は、未だに明らかではない。このことに首を傾げる向きには、研究の本質を理解する能力が無いことを、厳しく指摘してやれば良いだけのことだ。一方で、無軌道な広報活動に対して、社会が同調する傾向にあることは、この例でも明らかとなったが、それに対する批判が少ないことに、更に厳しい目を向けるべきなのに、殆ど意識されていないのは、憂慮すべきことだろう。

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10月24日(金)−厳しさ

 進化論の中心となる、淘汰という考え方では、他より優れた性質を持つものが生き残るとされる。新たな性質を身に付けた生き物が、優位性を示せば、生存だけではなく、繁栄へと結びつく訳だ。それを極端な視点から捉えたのが、優生学だろうか。優れた性質を持つ者を選び出し、劣った性質を排除することで、より良い状況を目指したと言われる。
 これは、優劣を決める因子も大きな問題だったが、あからさまな差別を正当化する極論として、急激に勢いを失っていった。だが、今でも、何処かにそんな考えが潜む、という心配は、多くの人の心の中にあり、差別を忌み嫌う風潮がある。そのせいか、平等を意識する動きは、強すぎる程に感じられ、遅れを取った人に手を差し伸べるのが、当然と見なされる。優しい社会と呼ばれるものでは、それが特に強調され、問題を抱える人々を支援する体制が整えられる。社会という括りから考えれば、全体として、どのように均衡を保つかが大切とされ、そこには、多様性を維持する動きも含まれる。だが、淘汰の考えを適用してみると、どうにもおかしな具合に思える。集団行動では、確かに、全体としての動きが第一とされ、落伍者を出さないことが条件となる。ただ、社会は、集団というには、余りにも大きく、不特定多数を抱えており、この考えを適用すべきかは、怪しい部分も残る。環境の変化に対応できず、落ちこぼれていく人々に対し、優しい社会は、何かと手を差し伸べる。それこそが成熟した社会の証し、との見方もあるが、何処か歪みが感じられるのは何故か。立ち直った人々の存在は、この動きにおいて、重要な成果には違いないが、一方で、多くの依存者の存在が、問題として残る。適応の問題と依存の問題、切り捨てるべきかは簡単に決められないが、安易な救いが最善かどうかも、定かではないようだ。

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10月23日(木)−適応

 私たちが抱く印象と同じかどうか、定かではない。だが、病名として登場すれば、人はそんな病いがあるのかと思う。鬱病患者が急増し、社会問題として取り上げられる中で、基準の曖昧さが指摘され、仁術とはかけ離れた、利益追求の結果が、厳しい批判に晒されてきた。その中で、新たな病名の登場は、市場開拓の一環にも思える。
 適応障害と名付けられた症状は、曖昧さが指摘された病気より、更に適用範囲を広げたものらしく、算術に長けた医師たちに、好んで使われている。その勢いに拍車をかけるのは、病気になりたいと願う人々の存在であり、相互扶助の関係にあると言えそうだ。この状態は、荒んだ状況にある、心の病いの分野が抱える、最大の問題であり、医者と患者だけでなく、製薬業界が中心となるどす黒い世界を形成する。それにしても、適応とはどんな状況を表すのだろうか。ある症状を表すのに使われ、その適用範囲が極端に大きいことから、これというものを提示することは難しく思える。若者に限った話ではなく、あらゆる年齢層で、同じような症状を示す人が出ることから、環境の変化への対応に、戸惑いを覚えることに始まる、何らかの滞りを表すものに思える。しかし、諸行無常と言われるように、世の中のものは全て変化を繰り返す訳で、それへの対応は、生き続ける為に不可欠なものとなる。にも拘らず、病いとも思える症状に陥る人が絶えないのは、何処に問題があるというのか。周囲が変化するのに、ついていけない人が出るのは、立ち止まったままで動こうとしないから、という見方もできる。適応より、拘りが優先される心理は、何処から生まれたのか、そこに問題がありそうに思う。生きる為の方針は、時にポリシーとも呼ばれるが、それを持たないことが、欠点のように見られた時代から、方針にしがみつき、対応を忘れた人が巷に溢れる時代へと移り、下らぬ拘りを離さぬ人々の登場が、こんな事態を招いたのだろうか。

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10月22日(水)−直近

 政策に納得がいくことは殆ど無い。目の前の問題より、将来を見据えて、という考えが政治家や官僚の頭を占めていた時代も、利益を望む人々から、批判の声が絶えることは無かったが、それが、国の成長に結びついたことは、認めねばならない。それと比べて、今の状況は、まさに惨憺たるものと言うべきだろうか。
 朝と暮を比べる程、簡単なものであれば、猿でなければ、総計は同じと判るだろう。だが、もう少し長い時間を単位として、同じ総計のものを分配するとしたら、どんな反応が返ってくるだろうか。年単位での話になれば、おそらく、すぐに手にできる方を、多くの人が選ぶのだと思う。総計が同じであれば、その通りに思えるけれど、例えば、将来に向けての投資として、暫く制限をかけるとなると、どんな反応が出てくるのか。今の風潮は、すぐに手にできるものを優先するようだ。これが票に結びつく、と考える政治家も、同じように、目の前のものに飛びつく。以前なら、官僚が異なる視点で、制御してきたのだが、あの連中の能力低下は、余りにも著しく、その能力さえ失ったようだ。目の前だけを相手に、策略を巡らすのは、難しいことではない。その上、結果が問われること無く、他の問題が生じても、新たな手当てをすれば良い、となれば、好き勝手な提案が出るのも当然だ。それにしても、女性の社会進出は、いつから最優先課題となったのか。選択の一つとして、尊重することは必要だが、進出が必然となっては、選択の幅を減らすだけとなる。ある選択を優先させることで、他を排除するのでは、均衡はとれない。方針だけが示された中では、どんな結論が出されるのか、定かではないが、これまでを顧みれば、極端なものに落ち着くように思えてくる。短期でしかものを考えられない人々に、長期展望は不可能だろうとなれば、また、愚策に振り回されるのではないか。

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10月21日(火)−意見交換

 時々、新刊本の広告で、その手のものが紹介されるから、それなりの需要があるのだと思うが、何故、そのような手引書が必要なのかは、よく判らない。他人を説得する為の方法とか、議論で勝ち残る方法は、上手くできない人たちにとって、何処か秘密めいたものがあり、それを手にした人々に、自分がやられる印象を抱くのだろう。
 だが、この手の本が、次々に出されることは、秘法などというものは無く、人それぞれに、努力の末に、独自の手法を編み出し、それを駆使することで、話し合いの中での自らの優位を、築いてきたのだろうことを示す。たとえ、その一端を垣間みたとしても、それが自分の能力で使いこなせるものか、あるいは、千変万化の展開に、対応できる程に熟練できるものか、不確定な要素は常に残る。人から伝授されたものを、自らのものとする為には、編み出すこと程ではないにしろ、それなりの努力の積み重ねが必要であり、読めばすぐに実行可能、などという謳い文句は、鵜呑みにできない。素直と言えば、聞こえが良いものの、実際には、表面的なものしか捉えられず、何が重要となるかを見抜く力を持たない人々が、こんな教則本に飛びつく訳で、氷山の尖端しか見ようとしないから、本質的な部分に考えが至ることも少ない。これらの理解の過程でも、必要となるものは、論理性であるけれど、この肝心なものを手にしていないから、次の段階に進むことができない。始めに論理ありき、とされた時に、戸惑いを覚える人にとっては、この課題を修得することは難しい。だとしたら、小手先の技術に走るより、まずは、論理の構築を心がけてはどうか。但し、この道にも王道などというものは無く、他人との意見の遣り取りが、唯一の訓練法であることを、まずは理解しておかねばならない。

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10月20日(月)−異見

 違う見方を紹介しようとは思わない。違いが問題なのではなく、何が本質であり、正しいものは何か、ということが問題なのだ。これが過ぎれば、傲慢な態度に繋がるのだろうが、本人には、その気は全く無い。どう掘り下げるかを示し、現状の雰囲気が、如何に誤った結果なのかを示す。導きに繋がる場合もあるかも知れない。
 世の中全体に、安易な考えに流れる傾向にあるが、その結末は、ある意味悲惨なものとなってきた。見方を誤ることで、判断の間違いを繰り返し、大小取り混ぜた組織の沈降を招く。取り戻そうと焦れば焦る程、その落ち込みは拡大するのだから、困ったものだ。しかし、能力を持たない人間が、指揮を執ろうとすれば、当然の結果なのではないか。ただ、そんな人を登用してしまうと、当然の帰結に向かうしかなくなるから、これでは、悲観的にならざるを得ない。問題は、当人の決断が最優先とは言え、周囲の関わりがどうあるべきか、といった点に目を向ける所にある。見方の違う人を周りに配し、それを吸い上げながら運営にあたる。これだけでも、自らの欠点を克服できるだろうし、上手く行けば、決断の任を投げ出すこと無く、組織の浮上を図ることもできる。その為には、極端なものも含め、あらゆる見方を一度は受け入れ、その中で、材料を見出す作業を行う必要がある。例えば、発電方式の問題も、極端なものから玉虫色のものまで、様々に提案されているだけに、その中で何を選ぶべきかは、難しい問題となる。だが、一人で、多種多様な考えを巡らすのは、更に難しい問題となる。それに比べれば、玉石混淆とは言え、様々なものを眺められる状況は、歓迎すべきものだろう。ついでながら、女性閣僚の辞任問題も、極端に見れば、発電の議論との繋がりも、ありそうに見える。とっちめようと掘り下げれば、綻びは簡単に見つかるものだろうから。

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