パンチの独り言

(2014年10月27日〜11月2日)
(固執、記録、快不快、お強請り、隔たり、意想外、誤認)



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11月2日(日)−誤認

 諸手を挙げての歓迎、が良い事とは思わないが、相も変わらぬ心配性とどちらが良いのか、となると、答えは難しくなる。目の前の変化に、一喜一憂する人々は、深慮なく行動するから、危険極まりないことも多い。だが、心配するばかりで、結局動きが取れない人々に、深慮があるかと言えば、そうでもないようだ。
 心配の種は尽きない。こんなに当たり前のこともないが、その度に振り回される人々の姿を追うと、芽を出すのをただ待つだけでは、いけないようにも思う。今回の騒動も、一部に莫大な利益を産み出す反面、損失を生じるきっかけにもなる。何事にも表と裏があるのは、当然のことに違いないのに、その内の心配な部分を殊更に取り上げるのは、どうなのだろう。考えを巡らす人にとっては、その二面性は当然のものと映るが、上辺だけに目を奪われ、極端な一面という分かり易いものに飛びつく人々には、目の前に出された展開だけが、起きるものと信じ込まされる。意表を突く提案は、確かに、一時的な効果を産み出した。だが、その変化は、別の変化に繋がり、それがどう展開するのかは、すぐには読み解けないもののようだ。それでも、経営者たる人々は、それぞれに分析を施す必要があり、すぐに出る答えを差し出している。これとて、短期的な展望としては、間違ってはいないと思うが、現在期待されているような、長期の景気を支える要因となるか、という範囲にまで、推測を及ぼすことを要求された場合、簡単には答えられない問いとなる。元々、経済活動において、影響を与える要因は無数にあり、その軽重も判断をつけ難い。将来に渡る保証は、容易ならぬものだけに、責任ある立場においては、軽率な発言は控えたくなる。となれば、無責任を着て歩くような評論家たちに、その任が与えられる。こんな背景で、心配性を掲げる人々に、目が集まる結果となるが、これはどうも大きな間違いと思える。

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11月1日(土)−意想外

 意表を突いた、との見出しが躍る。意外な展開に、市場は素直な反応を示し、久しぶりの高騰で応えた。実態がどうあるのかは、現実には見極めにくい状況にある。その中で、政策を決めることは、その責にある人々に課せられた、重荷であるのだろう。決定段階でも、僅差の結果が示され、綱渡りを想起させられる。
 だが、素直な反応と見られたものも、長い目で見た時に、どんなものとなるのかは、今後の展開を見守るしかない。既に、大きな影響は為替相場に現れ、急激な変化は、またぞろ心配の声を招き寄せるのだろう。景気という姿の見えない怪物を、なんとか御していきたいと思う人々は、あれこれと工夫を凝らすが、数字の変化は意外な動きを繰り返す。素直な急変には、当然、意外な急変が伴う可能性もあり、単純に喜ぶべきものかは、まだ定かにはなっていない。その最中に流れてきた情報に、鈍い反応しか起きなかったのは、騒ぎに紛れてしまったからだろうか。破綻の声さえ聞こえる制度において、運用益は維持のために必須の要素となる。その中で、確実なものから、不確実なものへと、運用対象を移すという発表は、巨額の資金が流入することから、市場からの歓迎の声が上がるものと思われた。だが、急騰の劇場では、そんな声が届くこともなく、どんな展開が起きるのかを予想することも、新たな要因の登場で、複雑怪奇な状況に陥ったようだ。複雑に絡んだ糸を解す作業は、中途半端な能力しか持たぬ経済人たちにとって、困難な課題を与えることになるが、おそらく、後手に回る解説が精一杯の状態になるのだろう。一方、増税への歩みは、景気上昇を条件とするだけに、今後の変遷が大きな影響を与えることは確かだろう。その意味で、上げは上げとして、それを維持する為の確実な政策を、次に編み出すことが、必要となりそうだ。

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10月31日(金)−隔たり

 致死率の高い感染症の流行に、恐慌にも似た反応が頻出する。治療技術の発達で、多くの伝染病が抑え込まれてきたが、新たな病原体の登場に、人々は恐れ戦いているようだ。中には、極端な反応もあり、それを差別の一つと取り上げる向きもある。人権問題は、確かに重要な課題だが、この例については、どうなのだろうか。
 法律は、社会の変遷に従い、変更すべきとの意見がある。その割には、基本となるものの中に、まるで化石の如く、固まったまま残り続けているものもある。基本だからこそ、時代の移り変わりには応じない、とする考えもあろうが、文体からして古臭く、読み解けないものまであるらしい。古文書じゃあるまいし、こんな状態は脱したほうがよさそうに思う。その一方で、生活環境の変化と、更には、人権問題との関わりからか、改正されたものも数多ある。伝染病に対するものもその一つで、伝染病予防法は10種類の急性伝染病を指定し、患者の取り扱いを規定していた。しかし、これら以外にも多くの伝染病が登場し、適用範囲の拡大が必要となり、更に、性病やエイズなどをも含める目的で、新たに、感染症予防法の通称を抱く法律が制定された。前者では、蔓延を防ぐ目的で、強制的な入院を隔離という形で実施していたが、後者では、人権尊重の観点から、入院の勧告はあっても、強制や隔離措置という文言は失われたようだ。そんな時代からか、世界各国の様々な対応法に対し、それぞれに反応が示されている。エイズの流行が始まった時に話題になったように、差別的な対応は、人権との関わりから忌避されている。当然、隔離措置もその一つに挙げられ、特定国からの入国者に対する特別な扱いも、一様な形のものは非人道的なものと見做されるようだ。患者あるいはその可能性のある人物を中心に考えれば、当然の見方と思えるのだろうが、その他大勢に関しては、これでいいのかと思える。区別することを忌み嫌う考え方には、別の偏見があるような気がする。

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10月30日(木)−お強請り

 傲慢さの表れ、ではないとは思う。が、何かに取り憑かれたような展開に、あの人々が罹った病いの重さを、痛感せざるを得ない。半世紀以上前に、本格的に始まったと言われる地震予知は、恐れを抱く人々の支援を得て、一時的にはかなり持て囃されていたことも事実だろう。だが、事は単純でなく、予知は不可能とする意見も有る。
 学界での議論の高まりは、推進派と反対派が互いの主張に固執した挙句、推進派の勝利に繋がったと言われるが、その後の展開では、予知は悉く外れ、無意味との指摘さえ出るようになっていた。小さなものだけでなく大きなものまで予知できなかった実績では、それまでの手法を変更せざるを得ず、台本にあったような、直前の予知に拘らず、向こう数十年の間に、といった役立ちそうにもない表現へと、すり替えられてきた。これでは、毎日の狼少年にもならず、確率も上昇するとの判断があったのかもしれないが、恐れに対する効果は薄れてしまう。その為か、極端な数値を示す傾向が強まり、脅しにも似た発表が相次ぐという事態に繋がった。要するに、確かな予知はできない、とは言いたくないから、他の表現を使い、支援が打ち切られることを回避しようとの思惑があるのだろう。だが、本来の目的を失い、本質からかけ離れたところへ向かう考えに、賛同は得られる筈もない。ある意味、同類とも見なせる分野において、大惨事が起きたことから、そちらでもまたぞろ予知を叫ぶ声が高まっている。中でも、人材育成という言葉は、余程大切に思われるようで、さらなる資金の注入を、この機会に訴えようとする人々が居る。この話の理解に苦しむ点は、予知の道筋さえできていないのに、そこに人材を、と訴えることであり、画期的な指針もなく、人だけ集まれば、と考える人々の浅はかさにある。駄賃を欲する子供のように、強請るだけでは何も起きない。前例で判る筈と思うほど、この手の人々の頭は良くはないようだ。

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10月29日(水)−快不快

 見る人が見るとわかるだろうが、この独り言は、Macで書いている。理由は簡単で、こちらのシステムの方が、何かと使い易いからだ。利用者の数は、圧倒的にもう一つのシステムが優位だが、時々聞こえてくる叫び声からは、彼方の利点は見出せない。多数派が有利との考えも、必ずしも当たらず、といった気がしてくる。
 特に大きな問題となるものに、二つの事柄があるが、多数派に留まる人々には、選択の余地はないらしい。どんなに不便を感じても、多数派であれば安心といった心理は、こちら側からは理解の域を超えている。そんなに文句を並べるなら、さっさと乗り換えれば、と思うのは、数の力に頼むことの無い人間だからなのか。一つは、言わずと知れたウイルスの問題である。悪意による攻撃に、無知な人が晒されるのは、やむを得ないことだろうか。本来なら、使用するにあたって、最低限の知識を身に付け、自らを守る手立てを講じるのは、当然のことだろう。だが、誰もが使え、その便利さを実感できる状況は、そんな最低限のことさえ、忘れさせてくれる。自分が知らずとも、誰かが知っていてくれれば、問題なしと考えるのは、都合のいい言い訳でしかない。今や、他人への攻撃に一役買うような行為に、知らずに加担することまで起き、他人事とは言えぬ状況にある。もう一つは、コンピュータを動かすための基本要素、OSについてである。こちらは企業の経営方針だろうが、多くの人々が振り回され、新機種への移行を強いられている。何しろ、攻撃が常であり、それを防ぐ手立てが必須なのに、その支援を打ち切るとされては、如何ともし難い。結果は財布の紐が切れてしまいそうな事態へと突入する。少数派には、どちらの問題も軽く、深刻な事態には陥らずに済む。とは言え、流石に最新のOSに乗り換えねばならぬ事となると、物入りとなるだけでなく、環境変化に戸惑うことが多くなった。

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10月28日(火)−記録

 若者の行動で気になるものは多い。期待が大きいから、との理由もあろうが、それだけでもないようだ。特に、危うさを感じるのは、本人がそのことを気にするわけでもなく、当然のことと振る舞う為だろう。一昔前の反発とは、明らかに異なる反応であり、不足や欠陥を問題視しない所が、最大の問題となる。
 例えば、仕事の上での話し合いで、メモを取らない人が目立つように思う。柔らかい頭では、全てを記憶することもできる筈と、初めは考えていたが、後日、内容を確かめてみると、痕跡さえ残さず、何の記憶も残っていないことが分かる。では、話し合いの場で、何を聞いていたのか。また、覚えられないのなら、なぜ、記録を取ろうともしないのか。聞いていたことは確かだろうし、その場で、確認の為に繰り返させれば、多くの場合、聞こえていたことが確かめられる。だが、それが、記憶として残らないのは、何故だろうか。多分、鸚鵡返しはできても、自分の言葉としていない為に、理解の段階にまでは到達していないのではないか。それを何度か経験すれば、何かしらの記録の必要性を意識する筈だが、その動きは起こらない。こちらの何故は、おそらく、それまでに受けてきた教育が、強く影響を及ぼしているものと考えられる。現場で、良い先生と呼ばれる人々が、何をしているかを知れば、その悪影響に驚くのではないか。例えば、黒板に何かを書いた時、全てを書き終わり、それを生徒たちが書き取ったことを確認した上で、説明を始めることが、親切で良い先生の条件と、生徒たちは見ているようだ。当然、説明の段階では、彼らの手が動くことはなく、ただ漫然と聞くこととなる。既に、文字として記録すべきものは、板書を写すことで済んでおり、その先は、話として聞いておくだけでいい、ということになるのだ。話の部分を記録する場合も、親切な先生は指示を出し、話を書き取れと言った後で、肝心の話を始める。この習慣を身につけ、学校生活に慣れることが、子供たちに与えられた課題であり、それをこなしてきた者が、上の学校へと進む。そんな話に触れると、教育の功罪を感じるが、実は、罪作りの方が、遥かに多いことに気づくべきかもしれない。

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10月27日(月)−固執

 頼りなさや危なっかしさ、そんな所ばかりが目に付くのは、若者たちに対する偏見だろうか。よく、歳をとるとそんな気分になると言われるが、実際には、ほんの数年の違いにも拘らず、苦言を呈する人も多く、年寄りの我儘ばかりではないようだ。少しでも先行していれば、能力の違いに目が向くということだろう。
 それにしても、こんなことを言われた時に、どんな反応が起こるかについては、時代の反映があるように思う。これもまた、常套句となっているが、昔は、という枕詞を付けて、年寄りや先輩の言葉に、反発を抱き、なにくそという気持ちになったものだが、と言われることが多い。というのも、最近の反応は、仕方ないとか、これが限界とか、そんな諦めにも似た言葉が返ってくることが多いからだ。確かに、実力不足は否めず、至らぬ所も多々あるに違いない。そんなことは、苦言を呈する側も重々承知しているのだ。将来性に期待する気持ちがあるからこそ、苦言を口にするのに対し、どうせこの程度との返答では、落胆の色を隠す手立ても見つからぬ。だったら、力をつける工夫でもしたらどうか、などと追い討ちをかけたくなるのは、期待を裏切るより先に、その気持ちを萎えさせるような言動に、反発を感じるからだろう。大人のような発言に見えて、実際には、やる気を見せていないだけのことでは、能力の無さばかりか、意欲の欠如というより大きな問題を示しているだけなのだ。見て盗め、と言われた時代は、既に遥か遠くに過ぎ去り、教え込まれることが当然との態度を固持する。その割に、新しいことに適応できず、積極性も示されない。現状維持が精一杯なら、何も教える必要もなく、成長は期待できない。懇切丁寧な説明を要求する風潮は、高まるばかりに見えているが、その範囲に留まるだけでは、次の展開はないのだから。

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