パンチの独り言

(2014年11月3日〜11月9日)
(詐言、近所、騒音、納得、屈伏、空騒ぎ、盲信)



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11月9日(日)−盲信

 信念を貫く、という言葉に憧れる若者が多いと聞く。信じて続けてきたことで、素晴らしい成果を得たとか、目標を達成できたとか、成功者が語る話に、心が奪われるのだろう。だが、軽率にそんな思いを抱く人に限って、誤った考えに固執し、自分を信じる事で、批判の矢に晒され、心が折れたと訴えるようだ。
 確かに、成功者の中には、周囲から間違いであるとか、馬鹿げているとか、そんな言葉に晒されながらも、強い信念を抱き続け、結果として、成功を手中に収めた人も多い。この流れに逆らうつもりはないが、正反対の考え方にしがみつく人を目の当たりにすると、彼らの未熟さと共に、信じることの意味を考えさせられる。つまり、強い信念こそが成功の鍵であり、それが明らかな間違いでも、必ず成就するものである、という考え方だ。誤った考えでも、信じ続ければ正しくなる、という話を鵜呑みにする人はいないだろうが、それが成功した人の口から出ると、事情は全く違ってくる。だから、そんな考えに拘ることになるとしたいのかもしれないが、これは安直すぎる考えで、浅はかと言われかねないものだろう。若気の至り、と評されるものだが、それがある程度齢を重ねた人の口から出ると、うっかり許すわけにもいかなくなる。だからこそ、その著書で名声を獲得したとしても、そこに散在する間違った考えや専門用語の誤用などに、厳しい批判が止まないのも、当然のことだ。特に、文字として後世に残すべきものは、本来ならば、末代までの恥を残さぬように、気をつけるべきものだろう。にも拘らず、こんな悪書が人気を博すのは、専門外の人々の評価によるものであり、魅力的な言葉遣いに、いとも容易く騙されるからだろう。流石に、専門性を要求される職からは退いたようだが、依然として学問の府に居座る人物は、新聞の文化欄に週一で登場している。憧れる人も多いだろうが、彼の欠点は、他人の指摘が耳に入らぬことらしく、稀代の誤用とされた言葉を、さも当然の如く使い続ける。信念の無用を如実に語る実例だが、憧れる人間も含め、社会の危うさを表すのかもしれない。

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11月8日(土)−空騒ぎ

 馬鹿にするような冷たい視線を浴びても、画面を挟んだ関係では、気にする必要もない。まさか、そんなふうに考えているとは思わないが、経験が反映されることもなく、反省も口だけでは、何の変化も生じない。紙面で一方的に伝える媒体も、地に堕ちたと言われるけれど、電波も一方的であり、作為に満ちた偽情報の山となる。
 その原因は大衆にある。この事実は、確かな考えを持つ人だけでなく、愚かな人々も認識しなければならない。何故なら、その事実こそが、この状態を放置し、悪化の一途を辿らせているからだ。不安を煽るのに必死になるのは、不安ばかりに目が向く人が溢れる社会だからで、それにより、関心を集めれば、公共性が高くなると信じるからだ。これほどに馬鹿げた論理もないが、当事者たちは大真面目に論じているのだから、手の施しようが無い。これでは、一度勢いがついたら、嘘は膨張するしかなくなる。ただ、不安の種は数多あり、熱しやすく冷めやすい大衆を相手にすれば、次々と話題を変えることが好ましく思える。問題は、過剰反応により、重大な問題として扱われたものを、簡単に切り捨て、忘れ去ることにあり、重大との判断は一時の熱情によるものとなる。今回のウイルスによる感染症も、数年前の到着したばかりの機体の中での騒動に似た、恐々とした騒ぎになり始め、冷静な分析は、役立たずとして無視されている。それより、不安を煽る情報こそが、生存を確保する為の唯一の手段のように扱われ、伝える声の調子までが、切迫感を抱かせるように変えられている。安全な時代に育った人々にとって、不安は最大の恐怖の対象となり、それが近づくことは、何よりも優先すべき話題となる。だが、本質を見抜く力もなく、その気のない人々には、ただ単に、怖いという言葉こそが、全てを語るものとなる。考えることを捨てた人にとって、理解は遥か彼方に遠ざかったようだ。

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11月7日(金)−屈伏

 無関係のことに首を突っ込むな、とは恫喝に使われる表現かもしれないが、それぞれの縄張りを考えれば、当然のことと受け止められていた。縄張りと言っても、ある業界の表現ではなく、人それぞれが持つ守備範囲のようなものだろう。責任を負えない話にまで、首を突っ込んでくる人々に対し、警告を与える為のものなのだ。
 協力して、もっと良いものにしたい、という思いがあるならまだしも、ただ、生産性に乏しい批判ばかりに走る人は、周囲から煙たがられるだけで、無責任な発言は簡単に切り捨てられる。それが当然だった時代と違い、何やら、同意が必要だとか、納得してもらわねばとか、矢鱈に責任の範囲を広げようとする動きが強まった。説明責任なる言葉も、最近は屡々見かけるようになったが、何処から生まれ、何を目的とした責任なのか、判然としない。他人の領域に出しゃばることは、以前は憚られることが多かったのに、最近はそれが当たり前と見る向きが主流で、殆ど理解もできないのに、口を出す人が増えたのは、評論家が如何に気楽な商売かが、皆に知れたからだろう。国の間に関しても、同じような関係があり、以前なら口出ししなかったものが、何かと雑音が増えた気がする。大国ほど発言力を持ち、恫喝にも似た言動が繰り返されるのは、白黒ハッキリさせようとする、戦争という手段が取りにくくなった為かもしれない。多数の国での協力体制までが作られる時代には、その範疇と国の中という範囲が、微妙に入り組んだものとなり、使い分けは難しくなった。ただ、大国の傲慢さは、相変わらずの状況にあり、まるで他国の法律まで定められるかのように振る舞う態度には、それが如実に表れている。不安定な情勢にある国が、そんな騒ぎに巻き込まれるのは、仕方がないものがあるが、それに加え、多くの国々が、大国の気紛れに振り回されるのは、迷惑にしか思えない。力でねじ伏せては、碌でもない結果しか招かないのではないか。

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11月6日(木)−納得

 納得したいと思うのは、何故だろうか。変化や改革に対して、何が起きるのかを知り、それに備えるためには、内容を理解した上で、自分なりの結論を導きたい、と思うからだろうか。それとも、端から納得する気など無く、ただ、反対の意思を明確にしたくないから、そんな障壁を設けるのだろうか。それでは、駄々をこねるだけに思えるが。
 目の前にいる人間に対して、納得させることは、それほど難しくはない。確かに、明らかな間違いや、被害を及ぼす話となると、論外ではあるが、多くのことは利害が入り混じり、その中で、シーソーをどちらに傾けるかが、納得させるための手立てとなる。ある程度の出資が必要だとしても、それが後から利を乗せた上で戻ってくるとなれば、それなりの理解は得られる。ただ巻き上げられるだけでは、誰も納得しないだろうから、個別説明においては、それぞれの事情に応じた、利益の指摘が必要となる。だから、多くの場合、その説明さえ十分に尽くせば、説得できないものはないと言われる。だが、これが不特定多数となると、話は大きく変わる。それぞれの要求も、多数の中で膨大な数に上り、全てに答えを示すことは難しくなる。それだけではなく、数が増えることは、その質も多様になることに繋がり、中には、暴利にも似た過剰要求も出てくることになる。騒ぎに乗じて、掠め取る人々が暗躍するのは、そんな場合なのだろう。でも、改革を断行したいと願う人にとっては、そんな悪者も不特定多数のうちの一人である。何としてでも納得させたい、と思えば、要求に応えようとなる場合もある。それが後々悲惨な結果に結びついたとしても、彼らにとっては、断行したことにこそ意味がある。そんな無理が通る筈もないのに、最近は「納得」の一言で、全てを片付けようとする動きがある。無理は無理として、駄々っ子たちを説得してこそ、真の納得に繋がるのではないか。

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11月5日(水)−騒音

 公の場で大声で話す人たちがいる。性差別でもないだろうが、女性に多いという意見もある。他人の迷惑を考えるべきとの指摘も、その様子に接すると当然という気になる。だが、迷惑とは何か、きちんと説明を受けたことがあるだろうか。老若男女に関係なく、迷惑を口にしても、それが何を指すのか、知らない人が多いのでは。
 自分を中心にする考えでは、他人への配慮は二の次となる。となれば、自分自身が感じる迷惑には、目が届くものの、他人の感覚には考えが及ばないものだ。電車の音が喧しいからとか、都会の喧騒の中だからとか、そんな理由で自分の声が大きくなるのは、止むを得ない事となる。それが喧しさを増すことになる、とは考えない訳だ。肝心なことを伝える為であれば、一言二言で済む筈だが、終わることのないお喋りには、周囲も辟易としてくる。ただ、それが迷惑の原因だとは、大声の主には思いもよらない。少し事情が違うが、静かな環境での話し声には、多くの人が気付くものだ。例外は、声の主であり、話に夢中になることで、周囲が落ち着きを失っていることに気付かない。この状態が悪化することもあり、話の輪が増えることで、騒音のレベルも増すこととなる。それがある水準を上回ると、何処かから注意を促す声が届き、再び静けさを取り戻す。静かにすべき場とは、例えば、図書館とか教室だが、そんな特別な場所も、最近は様子が変わってきたようだ。騒いでもいい場所を設けるところもあり、煙草の分煙にも似た状況を作る場合もあるが、お喋りが声を介さないものが増えてきた。呟きとも訳される行為は、ある媒体を通して交わされるものだが、利用者の急増で、声の大きさとは違う迷惑が広がっている。不特定多数に送られる呟きは、相手構わず届く場合も多く、集中を失わせることとなる。依存症とも言える事態に陥った人々は、心ここに在らずの状態となり、なぜそこに居るのかさえも見えなくなっている。

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11月4日(火)−近所

 向こう三軒両隣、近所付き合いが当たり前だった時代に、よく口に上った言葉だが、今は耳にすることは殆どない。その頃は、都会で孤独を感じることが珍しいもののように扱われたが、今や、国内の至る所でそんな状態となった。集落とか部落といった言葉が、聞かれなくなったのも、集団より個人が優先されるからだろうか。
 個人の意思を尊重すれば、差が歴然となるのも当然だ。近所に居る人々にも、好き嫌いがある訳で、それを露骨に出すことが憚られた時代と違い、今は、嫌いな人を排除することにさえ、特に気にする気配はない。隣が何をしていようが、自分には関係ない、と思うことも、おかしなことはないと見られる。だが、何か事件が起きると、その様子は一変する。気にもしていなかった人物について、様子を聞かれても、答えられる筈がないのに、何かしらの答えを返す。嫌いな人の話だと、当たり障りのない振りをしながら、批判的な言葉を口にする。こんな環境では、隣との付き合いも、中々に難しいものとなる。互いの庭に突き出した樹木を、どんな風に処理したら良いのか、様々な意見があるが、昔なら、一声掛ければ済む事だった。突き出した枝に付いた実の権利は、という問題も、大した話にもならなかった。だが、今は、どうも法律に照らし合わせる必要があるようだ。世間の常識を下敷きにして、作られる筈の法律だが、様々な考え方を一本化するのだから、一部には異論も出るだろう。一方、道に突き出した枝に付いた実が、落ちた場合にはどうか。人に当たって怪我をさせたらとか、道を汚すことは誰の責任か、簡単な問題ではない。付き合いが希薄になった結果、世知辛い社会になったとしても、その責任は誰にあるのか。これもまた、容易には解けない問題なのだろう。

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11月3日(月)−詐言

 伝達手段としての言葉の重要性に、異論を唱える人はいないと思う。だが、そういう意見の中に、魔法の言葉とか、伝える技術とか、そんなものが目立つようになると、首を傾げたくなる。確かに、伝達において優位に立てれば、それはそれで便利なことだろう。だが、中身もないのに、伝え方だけを磨いても、虚しいことになる。
 詐欺師の甘言に乗せられて、大金を騙し取られたという事件も、当事者にならねば、騙された原因は見えないのかもしれない。一方で、磨き抜かれた展開と台詞の連続に、つい、冷静な判断を失したという経験からは、伝達技術の高さが、肝心なもののようにも見えてくる。だが、発信者の立場からの見解ばかりが、こういった事件を報じる中で論じられることに、違和感を抱かないのは、視野の狭さを示しているのではないか。伝達手段において、重要な要素は、単に、送り手の問題だけではなく、当然、受け手の問題も含まれる。言葉の使い方において、意図を如何に含めるかは重要だが、それが相手に通じなければ、どうにもならない。受信者の理解力が重要となるのは、こういう背景からだが、その辺りに目が届くことは少ない。だから、送り方ばかりに注目が集まり、理解力の増進に目が向かず、結果的に、吟味する力が衰えて、騙されることになる。更に、この事態を重くしているのは、言語の違いに目が奪われる状況で、国際語の習得が、まるで魔法の力を得ることに繋がるかのように伝えるのも、そんな誤解によるものだろう。ところが、誤解の話は広がるばかりで、高等教育の現場でさえ、暴走か迷走かのように思える策が講じられるのだそうな。英語での講義を実施することで、多くの利点があるかのように宣う人々に、本質を見抜く力は見えない。最高学府の頂点は、ある賞の受賞者がいないことからも、人材育成の場ではないと指摘されるが、こんな所にも、そんな実力が現れているようだ。

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