分かりやすい話が好まれる時代、と言われるが、どんな時代も大衆はそんな行動をしていたのではないか。どの時代もどの場所でも、多数に目を向ければ、そんな傾向は明白だったのだと思う。それが悲劇を招くこともあったし、暴走へと向かう力を産み出したこともあった。経験は活かされず、過ちは繰り返される。
本当は「分かりやすさ」について、もっと深く考える必要があると思う。人々の理解は、何を端緒として起こるのか。人々の同意は、理解の上で何を境として決められるのか。失敗の多くは、深く考えもせずに分かったと腑に落ちた瞬間から、道を誤ることで始まる。確率事象に関する決定要因についての話では、多くの人が都合の良い展開に持ち込むことが、間違いを招くと言われるが、確実と思われたことさえ、当初からの誤解があった場合が多く、思い込みや先入観という代物と、理解への早道にその原因があると見える。だから分かりにくい話を続けるとは言いたくはない。こちらの考えは明確であり、それを分からぬ人の気持ちがわからない。少し話を続けてみると、相手に忍耐がありさえすれば、徐々に理解の進む様子が見えてくる。こちらの深慮遠謀に気づかぬ人には、更なる説明を施せば解決する場合もあるが、我慢できない人にはこの道は使えない。直接的な表現を欲し、直観的な理解を常とする人々にとって、考え込む必要のある話は、無駄と切り捨てられる運命にある。当然、そんな話しかしない人間は、信用の対象とはならない。分かりにくいと切り捨てられ、意見は拒絶されることとなる。傾聴に値するかは問題ではなく、まず話を聴くことに意味があるのに、それができない人の何と多いことか。こんな世の中では、何事も上手く運ぶ筈がないと思うのは、こちらの勝手だろうか。理解もせずに批判する人々が、大きな顔をし続けられるのは、貧しい世界と思う。
分かりにくい、ここを覗きに来た人の多くは、そんな感想を抱いたのではないか。主題が何かを見抜けず、誰のこと、何のことを書いているのか見えてこない。そんな文章は無駄なものと思えるだろうが、書いている本人は肝心なことだけ並べている。ただ、すぐに特定できるようにはしていない。だから分からない。
分かりやすい文章の多くは、実名を挙げ、極端な表現を並べ、偏りさえ気にしない。理解する為に色々と考えねばならないとしたら、もう投げてしまう。忙しくネット上を動き回る人々は、難しい哲学書を読むように、時間をかけて内容を汲み取ろうとはしない。さらりと読んで、何を言いたいかがすぐに分かる。そんな期待しか抱かず、無理と思えたらすぐに離れる。同じ場所に二度と行かない、というのもそんなことの表れだろう。逆に言えば、分かりやすい場所があれば、お気に入りに登録して、何度も接続する。読む作業に忍耐は必要なく、簡潔で短い文章を好む、現代人の特徴はこんなものらしく、発信側も受信側もとにかく短く、分かりやすいものに飛びつく。そこにコピペのような道具が現れれば、これにも飛びつくから、世の中には同じ情報が溢れ、無駄を誇るかのようだ。そんなことはこちらは望んでいない。誰かが書いたことをそのまま流用するなど、ものを書く人間にとって恥以外の何物でもない。下らなくても注目されればいい、との思いを抱く人は、勝手にそうしていればいい。こちらは、そんな立場をよしとはしない。記憶に残る文章は、簡単に理解できるものとは限らず、考えた末に理解できたものこそが、頭の奥底に染み込む。そんなものに触れなくなった人に、知恵が授かる筈もない。もう、厳しい状況が固定してしまったか。
記憶に頼る知識と聞いて、反応は年齢によって大きく異なるのではないか。義務教育の年代から社会に出るまでの期間、多くは記憶あるいは暗記が全てと思っている。覚えていなければ何も始まらず、試験にも合格しないという訳だ。だが、社会に出た人々の反応はどうか。覚えていないからといって、仕事ができないとはならない。
でも、仕事を覚えると言うじゃないか、と若者達から文句が届きそうだ。確かに、覚えるとは言うもののこれは暗記とは違うのではないか。手順を記憶し、その通りに繰り返す、という形式で動くことも多いだろうが、もし暗記だけに頼ってしまうと、何かの邪魔が入った時に対応できないこともある。学校に通っていた当時のように、ただ語句を覚えたり計算式を記憶するだけでは、仕事をこなすことはできない。それぞれに付随したものを結びつけて、それらの関係を保つ形で記憶することが、より重要な手立てとなるからだ。関連付けと評されることもある手法だが、詰め込みに精を出す年代には、その余裕さえない状況にある。しかし、多くが大学に入る時代には、詰め込みの量を競わせる環境が作られ、その上手下手で差をつけるから、その能力にしがみつく傾向が高まっている。だが、実力を試された後に気づくのは、殆どが完璧な記憶力を持てず、中途半端な状態にあることだろう。だとしたら、それにしがみつき続けたとしても、急速に増大する知識を吸収することは、叶わぬ夢に終わるに違いない。そこで重要となるのが、戦略の転換であり、その一つが関連付けと呼ばれるものなのだ。一つ一つを独立して覚えてきた時代と違い、膨大な知識を仕舞い込む為には、それぞれを紐で結ぶ必要が出てくる。紐の端を引き出せば、そこから次々と関連したものが連なって出てくる訳だ。これは何かを調べるときにも役に立つ。鍵となる言葉を思い出せば、そこから繋がりが見えてくるからだ。知識偏重から知恵の活用への転換は、こんな経過を辿る。
一日飛んでしまった。久々にサーバーが機能しなかったようだ。これはこれで大変困ることなのだが、無料という括りで考えると文句は並べられない。何とか無事に回復して欲しいと願うばかりで、何ができるわけでもないのだ。前日にも障害があったようだが、そちらは半日少しの間に戻った。今回は一日半反応がなかったから、どうにもならない。
本当に大切なことなら、経費がかかっても実行すべきだろうが、ほんの思いつきに近いものに、金をかける価値は無さそうだ。そんな思いを抱きつつ待ち続けたら、やっとのことで回復したらしい。今度はいつかと思うこともあるが、まあなった時はその時だとも思う。金をかけさえすれば良いものができるかと問われたら、そんなことはないと答える。ものの良し悪しは価値に換算できるけれど、かけた金の多寡がものの価値を決めるわけではない。逆説のように響くかもしれないが、世の中はそんなものなのである。大した額もかけずに作ったものに、魅力を感じる人がいて高額で引き取られる。そんな物語は今までに数えきれないほどあり、それを決める因子は見つからないものとされて来た。だから、単純に節約することの方を良しとする考えが広がり、浪費は忌み嫌われるものとなっていた。そんな時代に収入が下がり続ける国は、打開を図ろうと経費削減に走る。しかし、ある政党が選挙に勝った後の混乱は、それが実現可能かどうかは単純な問題ではないことを示した。その後復帰した人々はある意味好き勝手に振る舞い、多勢を良いことに多くの決定事項を自在に扱って来た。しかしここに来て情勢が渾沌としていると言われる。税収を増す為の手立てに対し、賛同の声は低く、暗礁に乗り上げた形になった。とは言え、何を根拠とした選挙なのかは、理解不能と言うべきだろう。先に約束を取り付けたいという願いに、莫大な経費を費やすことに、意味不明を感じるのは当然だ。郵政に関する馬鹿げた選挙は、同じ政党の先人による暴挙だった。今度も同じことかと思うけれど、歪みを増すばかりの状況に劣勢な人々の声は小さい。あの時よりも更に馬鹿げた行為に、どんな審判を下すべきだろう。
弱きを助け、強きを挫く、昔の勇敢な主人公が出てくる物語の決まり文句だったが、今もこの表現は生き残っているのだろうか。確かに、弱者に対する配慮が強く主張されているけれど、どうも、肝心の弱者が弱くないように見え、如何にも弱そうな振りばかりで、それを梃子に何かしらの権利を手に入れているように見える。騙されてはいけない。
一方、強きの方はどうか。権力者を攻撃するという模様から、如何にもその代表とされる報道機関は、その実、権力にすり寄ることが増え、強きに味方すると見えることさえある。また、権力者は必ずしも強い存在ではなくなり、弱小な集団が数を頼むことで、力を得る場合もある。兎に角複雑な状況が生まれているのだ。その中で、最近の振る舞いがけしからんと批判の矢面に立たされている報道は、正義の味方でもなく、社会の見張り役ともなっていない。大衆の感情に任せた行動に便乗し、理性の欠片も無い言動を繰り返す。地盤沈下などと評されることもあるが、そんなに甘い状況には無いだろう。どちらかというと、自らの存在さえ危うくするような発言や記事がばらまかれ、収拾がつかない状態にあるのでは無いだろうか。冤罪などという言葉が頻繁に使われるのも、権力者の横暴だけが原因ではなく、それに加担する報道の暴走にかなりの責任がある場合が多い。犯人と名指しされた途端に、それまで保障されていた人権は、何処かに雲散霧消し、あらゆる罵詈雑言が許される環境が整う。一見、そういった流れが自然にできたかのように扱われるが、実際には、当事者たちが意図的に環境を作り上げ、徹底批判を繰り返すのだ。その姿は興奮する野次馬と何ら変わりなく、理性の欠片も冷静さも失われている。そのような状態で発せられる情報に、どの位信頼が置けるものか、受け手が考えねばならないだろう。先日の大学教員の横領詐欺事件に関しても、確かにその手の犯罪が起きたことは事実で、それを容疑者たちも認めていると伝えられる。しかし、それに付随して伝えられる、その横領金の使途に関しては、何処まで確認が取れているのだろう。これまでの事件でも同じような展開があったが、今度はどうなのだろうか。
経済成長の最中には目に入らなかったのではないか。豊かな国となり、豊かな時代を安定に生きる中で、人々は不幸に見舞われた人に対して、温かい視線を送る。一見、人情的な話のように映るものだが、果たして本当にそうなのだろうか。上辺だけを装い、同情しているかのような振る舞いで、何かが違っているように見える。
皆が上を目指していた時代に、詐欺事件で何千万や数百万もの金を騙し取られたとしても、多くは、仕方ないと片付けられていた。時には、持っている人間が悪いとまで見られ、不幸のどん底に落とされた人への同情は、殆ど起きなかったのではないか。それは貧乏からの脱出を目指す人にとって、金持ちは憧れや羨望の的だとしても、同じ部類の人間とは見做されなかったからだろう。ところが成長の極みに達し、中流もそれなりの水準に達した後には、全く違う状況が生まれた。豊かさは実感が余り無くとも、それなりに在るものとなり、金持ちが特別な存在ではなくなった。その中で、度々伝えられる詐欺事件の被害金額は、確かに巨額なものとはいえ、別世界のものではなくなった。だからこそ、事件に対する感覚も、身近なものと受け取られ、被害者に対する同情も、ごく当然のこととして湧いてくる。だが、その一方で、首を傾げたくなることもある。例えば、被害者の話が取り上げられた後、その人がどんな生活を送り、どんなことになったのかの後日談が、殆ど出てこないことに、誰も疑問を抱かないのだろうか。あれ程の額が失われたら、生きていけなくなるのでは、と思う人は殆ど居らず、おそらく大変なのだろうという位で留まる。老後の蓄えと伝えられるものも、子供と思い込まされた話で騙し取られて、額ばかりが話題となるが、老後の生活はどうなったのか。別に、彼らのことを批判しようとは思わないが、毎度の騒ぎに対して、視野を広げては、と思うのだ。