この国の言語が便利なものと見做される大きな理由の一つに、文字の使い分けがある。音を表すのみとなった隣国の文字や、同じことをするには文字が本来持つ意味が邪魔をする、この国の文字の源流となった別の隣国の文字、どちらにしても自らを愛する気持ちからすれば、優れたものと見られているようなのだが。
欠陥を持つものがあれば、それを補う手立てを講じる。時に自虐的とも映る国民性が影響を及ぼしたのか、長い歴史の間に、一つの系列の文字を基に、自分たちに使いやすいものを編み出してきた。だが、本来の目的はどうだったのか、今となっては定かではない。それより、使い勝手が優先されたのだろう。いつの間にか、ある系列の文字は外からの言葉の発音をそのまま表記するために用いられ、音のみで意味を示せないものを多用するようになった。始めは意味を伝えることを第一として、意味を伝えるための訳語を作り出してきたが、その為には文字に関する十分な知識が必要となり、誰もができる仕業ではなかったから、いつの間にか安直に流されたのだろう。言語の乱れの代表格と評されるものだが、他の手立てには目が向かなかったらしい。そんな言葉の一つに、ステレオタイプなるものがある。固定化された概念を表すようだが、社会における偏った見方を表現するときにも使われる。ある言葉の意味をこうあるべきと主張することは、多様な見方とは明らかに異なるものであり、偏見の代表とも見做せるが、使う本人は理解を促す単純化の一種としか見ていない。それが悪影響を及ぼすようになる頃には、その原因を作った人々はそのことを忘れ、当然のことのように使い続ける。誤解された人にとっては迷惑以外の何物でもないが、それを理解する人は社会に存在しない。偏見は忌み嫌われる行為だが、それと似たものにこの呼び名を当てると、何か違ったものと扱われる。使い勝手の良さが、勝手な使い方に変じてしまったようだ。
若い世代は人の死に接することが少なくなったと言われる。だから、その際にどのように処したら良いのか分からず、非常識な行動に出る、とまで言われては心外極まりない。年長者が彼らの美徳をひけらかし、さも常識人のように振る舞うのは、実は物事を知らぬことに気づかないだけであり、恥をさらしているだけなのでは。
そんなことに思いが及んだのは、ある役者の訃報に接し、多くの人々の惜しむ声が流されていた時だ。死に悲しみはつきものだが、その表現として、もっと長生きして欲しかったとか、もっと多くの映画に出て欲しかったとか、そんな言葉を連ねるのを眺めていると、その人々が何を言いたいのかさっぱり判らなくなる。天才とか努力の人とか、賞賛の声は何の違和感も起こさないのに、何故、限りある命を無視するような発言に、変だと思うのか。これが、始めに書いたような、死に対する実感がない為に発せられる言葉であるなら、年長者も常識を持ち合わせていないこととなる。惜しむ声は当然上がるものだが、無い物ねだりのような表現ばかりが目につくのは、死とは何かを考えない人が増えたからだろうか。懐かしい姿を思い出し、その時代を振り返ることは、何の問題もないことだが、死に接してもなお、未来を見続けようとする心には、何か大切なものが欠けているように感じられる。確かに、人それぞれに考えがあっていいものだろうが、それなら何故このような話題ばかりが殊更に取り上げられるのか。それは世相がそういったものを好ましく思うからであり、同じ思いを抱く人の数が多いと思われているからであろう。こんなことを書く人間は、平均的である筈もなく、異端と呼ばれても仕方ないのかもしれない。ただ、違和感の元はと言えば、感情のこもっていない貧困な表現にあり、人真似を繰り返す表現力の貧しい人々にあるのではないか。ある時代が終わったとの表現に、何も疑問を持たないのに、もっと何々して欲しかったとの表現には、嫌悪感を催す。これが異端だとしたら、主流は与えられることに慣れた心の貧しい人々なのかもしれない。
ここを覗きに来る人の全てに当てはまるかは分からないが、インターネットの使用に対して不安を抱いてはいないだろうか。こんなことを調査すべきかは定かではないが、先日発表された世論調査の項目に、そんな話題があったようだ。毎日のように報じられる詐欺事件に、多くの人々は過敏となり、不安を抱くものらしいのだが。
それにしても、そんなことを聞いて、何を知ろうと思っているのか。調査の目的も定かでなく、何らかの対策を講じる為の理由付けにでもするのだろうか。前から書いているように、騙されるのはその人々の感覚が鈍っているからという場合が殆どで、いくら巧妙とは言え、これほど多くの事件が起こるのは、やはり世の中がぬるま湯の中にあるからだろう。鈍くなった人々に、いくら感覚を研ぎ済ませろと言っても、何も起きないのは当然で、その人々が抱く不安を払拭する為の手段は、常識的には無駄の一言で片付けるべきものなのだ。とは言え、ネット上の仕組みには複雑な要素が多く、利用者には思いもよらないものばかりである。その中で被害を受けずに済ますには、ある程度の防衛策が必要となる。ウイルス対策ソフトはその典型であり、装備していないパソコンを使うのは、丸腰で戦場に出るようなものに違いない。だが、厳重に守りを固めることは、自らの動きに制限をかけることにもなる。使い勝手の悪さを訴える人の中には、普段の不便を避けようと、有事の為の対策を外そうと思う人もいるだろう。それだけは止めて欲しいと思うのは、最近の悪事はそれらの無防備な機械を経由して行われ、別の場所で被害を出すからだ。無知であることの問題は、そんな所にも現れる。一方、何をしているのか理解できない防御策も、実は色々と問題を産む。独り言を毎朝書く為に自宅のパソコンから、Fetchというソフトでファイル送信をしているが、これがアクセス不能に陥った。職場からは問題なく入れるから、自宅の防御システムの問題のようだ。さて、どうしたものか。また暫く時間がかかりそうだ。
膨らむ一方の赤字に対して、なす術なしといった感さえある。呆然と見守る人がいる中で、厳しい批判の声を上げ、将来への不安を叫ぶ人がいるのは、それぞれの考えとして当然だろうか。だが、叫ぼうが喚こうが、何も起きないのは何故なのか。批判は誰に対するもので、何が問題だと訴えているのだろうか。
一見論理的な意見を並べているようで、その実、具体的な方策は全く示されていない。確かに、経費削減を徹底すれば、解決への糸口が見出せるのかもしれないが、仕分け騒ぎを思い浮かべると、事は単純ではないとわかってくる。企業のような組織と比較すれば、遥かに多くの人が雇われ、遥かに多様な業務をこなしている。それらを全て外注し、経費削減を目論んだとしても、ほんの一握りのものしか該当しない。政府の役割をどう見るかによって、この辺りの考え方は大きく異なるのだろうが、小さな政府を標榜する勢力でさえ、最低限の業務を執行する義務が残ることに気づいている。要するに、節約は確かに大切な事柄だが、今の膨らみきった赤字の風船は、それだけでは萎み始めることさえない、と言えるのではないか。となれば、実入りを増やすことが肝心となる。その決断に同意を得るために選挙という考えに、錯乱や狂気を感じると言ったら、流石に呆れられてしまうだろうが、無駄や無意味という意見には賛同が得られそうだ。税収を増すための方策として、景気を良くするか、税率を上げるか、との選択となり、後者を優先し、その後に前者を促進すれば、という政策をとった筈だが、どこで不安が過ぎったのか、目の力が弱まり始め、前任時の迷走を想起させる気配が見える。だが、経済界の連中とて、妙案は浮かばぬようで、赤字を克服するために必要となる税率は30%とか、年7%の経済成長が必要とか、不可解な見解を並べる。法人税や所得税が主体を為した時代を思い出し、税収増を図ることは何故無理筋なのだろう。
子供の頃に流れていた未来の姿の多くは、的外れなものとなってしまった。技術の発展は、人間の想像の範囲を遥かに超え、思いもしなかったことが可能となり、期待されたものはいつの間にか忘れ去られてしまった。その中で特に印象深いのは、食事に関するものではないか。栄養価のみを狙った錠剤は、実現しなかったが。
当時、食事に費やす時間は、ある意味無駄なものと見做されていた。先進国として憧れの対象となっていた海の向こうの国では、手早く食べられるものが持て囃され、満腹感さえ得られれば、その質を問わない考え方が主流となっていた。その見方からすれば、別の極端な考え方も簡単に受け入れられる。それが栄養価のみを考えるもので、必要な量を摂取するのなら、味も香りも不要となる。それが栄養剤のような錠剤が、食事に代わるものとして普及するとの考えに結びついたが、宇宙飛行士の食事を見ても、その考え方が大きな誤りであることがわかるだろう。長く任務に就く人間にとって、精神的な抑圧は大きく、そこから逃れるために重要な要素が食事とされたのだ。香りも味もそっくりそのままで、幾つか不足な部分が残るが、楽しみはいくらか満たされる。そんな時代になっても、人々が自然の実りに感謝し続けるのは、食べる楽しみが重要な地位を占めているからで、季節ごとの恵みを楽しむ気持ちが強い。実りの秋と言われるほど、様々な恵みが市場に溢れる季節に、人の手を施したものも出回る。軒先にぶら下がる橙色の簾は、渋柿を食べられるようにした干し柿だが、順調に縮んできた姿が雨の中で変わり始めている。表面が湿り、乾いた色から変化したためで、表面に現れた糖分が空中の水分を吸収した結果のようだ。この姿で長く居続けると、出来が悪くなりそうで心配だが、自然の恵みとなれば仕方のないこと。暫くは、不安な視線を浴びることになりそうだ。
無駄を減らすという公約を旗印に、一気に議席数を増やした政党は、減らす権利を執行しようとしたが、結局は混乱を招いただけで、別の無駄が山となるだけだった。空振りに追い打ちをかける大震災にも、一度掴んだ政権の座を譲らぬ姿勢に、評価は凋落し、次の選挙では増やしたよりも多くの席を失ってしまった。
魅力的な提案を掲げ、庶民の気を惹こうと躍起になる人々は、本当に大切な事柄には目が向かないらしい。提案の多くが空手形となり、嘘吐き呼ばわりされたとしても、権力の座にしがみつくのは、その魅力が余りにも強いからだろう。だが、それが手遅れへと繋がったという教訓は、今回の政権を握る人の意味不明な行動に現れたのではないか。無駄を繰り返した挙げ句の審判では、不利に働くことが明白だからといって、争点のない争いに突入するのは、真の意味での無駄になるしかないように思う。自分の考えが正しかったのか、審判を仰ぎたいというのは、余りにも都合のいい論理であり、更にそれが話題の中心となっている、経費削減に反するものとなれば、無意味と無駄が重なった挙句の、気紛れな暴挙としかならない。分かりやすさを心がけて、直接的な効果ばかりを追い求めた政権にとって、あの人物の意味不明な発言は、まさにあれ以来と思える所だが、それを端緒に、600億もの金が動かされるとなれば、その事自体に何かを言うべきではないか。前回の選挙の予算はこれ位だったらしいが、今回はどれほどがドブに捨てられるのか。四年の任期をいつでも終わらせられるのは、国会のこちら側の特徴とはいえ、それが重なれば、いくら必要性を訴えたとしても、無駄と切り捨てられるのは必然だ。批判される前にその芽を摘みたいとの願いの為に、経費を無駄に膨らませるのは、誰が認める話なのか。行かぬことが選択の一つだが、そうすれば、無駄は更に無駄となる。
分かりやすさが好まれることから、そちらに向けての努力が重ねられた結果、分かるということが確認事項の一つとなり、その中でわかることを当然と受け取るようになった。これを良いことと受け止めた人もいるだろうが、その後の状況を眺めると、悪影響の方が遥かに多く、甚大な被害を及ぼしたことがわかってくる。
理解の上での行動となれば、誰もが冷静で確実な判断ができると信じるようだが、誤った理解となれば、それに基づくものが正しい方向に動く筈もない。分かりやすさの悪影響の殆どは、まさにその点に起因する。複雑な状況を単純化することで、直観的に理解できるような手法は、そんな時代に多用されたのだが、その結果、先入観や思い込みによる理解が広がり、大衆を誤った方向に導くこととなった。白黒はっきりさせる論理も、複雑なものを対象とした場合には、成立させることが難しい筈なのに、それを無理やりこじつけてでも理解を促す。その結果、期待に満ちた世論が広がり、大いなる誤解の上に築かれた夢が高く聳えることとなる。しかし、砂上の楼閣であることには違いなく、早晩嘘や詐言が露呈し、夢物語は崩れ落ちる。こんなことが繰り返されるのも、理解を要求するからとの解釈は、要求する人々には心外なものだろうが、もう一言付け加えれば、理解の努力を重ねることのない要求は、ただの愚案に過ぎず、悪い結果に繋がるのに手を貸すことにしかならない。うまい話には裏があると教えられてきた人々が、分かりやすさに飛びつく姿には、愚かさのみが目立っている。懲りない人々と呼ばれるのは、何も騙す側にいる人だけでなく、騙される側にも沢山いることに気づかねばならない。それが多数決で活躍する訳だから、放置すればまた悪い結果がもたらされる。逆に言えば、分かりにくい話には本質が含まれ、それを理解しさえすれば良い方向への展望が開けるかもしれない。