パンチの独り言

(2014年12月1日〜12月7日)
(卑賤、交換、栄枯盛衰、惚け、やる気、出演、従順)



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パンチの独り言--2014年12月1日〜12月7日

12月7日(日)−従順

 個人主義とか個性の時代とか、一時持て囃された「個」の主張は、もう影も形も無くなったようだ。それは言い過ぎで、それぞれに頑張っている人が居る、と言い返す人が居るだろう。確かに、高い業績を上げた人の多くは、何かしらの点で個を主張し、それを伸ばすことでその地位を手に入れてきた。だから、確かに「個」はあるのだと。
 何故こんな話から始めたのかを説明すると、主張するより従順な態度に出る人の数の方が、遥かに多いからである。自己主張することにより起きる面倒より、従うことによって無難に生きた方が、苦労もなく楽だということらしいが、そんな人々に出会う率のほうが高いと思う。成功者のみを相手にしたらどうか、と問われるかもしれないが、たとえそうしたとしてもあまり変わらないように思う。それは面倒そのものの問題では実はなく、素直に従う方が楽ができるからではないか。時には、そういう行動を続けることで、評価が上がったり、昇進が約束されたりする。このことをおかしいと思う人は少なく、上下関係においては命令に従うことが、印象を良くすることが多いのではないか。だが、その一方で個を主張する動きはすっかり無くなった訳ではない。人材育成の場では、そのまま従うだけの人間には目もくれず、独自の道を歩みたがる人に注目する。そう声をかければ、意外に多くの人が興味を持ち、上を目指そうという気になるようだ。だが、それとて実は素直な反応の結果に過ぎず、本来の独自を選ぶ反発や反抗といった気持ちはそこには存在しない。この矛盾は個人主義の導入時に発生した障害の最大の要因であり、その定着を妨げた原因なのだ。にも拘らず、未だにその形式を続ける人々は、何の学習も反省もしていないようだ。お題目が幾ら並んでも、根本に誤りがあったのではどうにもならない。無駄ばかりが並ぶのは、こんな事情によるのでは。

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12月6日(土)−出演

 恐怖に襲われた時、人々は様々に反応する。大きな波が沖からやってきた時、そこから逃げることが最優先事項だったが、その後に起きた事故は、全く別の恐怖を皆に振りまいた。目に見えるものと違い、目に見えないものには更なる恐怖が募る。根拠のない噂が飛び交い、少しの変化にも過剰反応が起きていた。
 この恐怖はまだ終息していない。長期に渡る影響は様々な憶測を呼び、何が真実なのかは依然として見えてこない。科学的な根拠は、人々の恐れを払拭する力を失い、不信感が社会を覆い尽くしている。こんな時に、人々はまた様々な反応を示す。件の地域出身のある俳優は、発電所誘致に手を貸したかのように見えた広報活動への参加を、恐怖の拡散の最中に反省する態度を表明し、反対運動への支援に乗り出した。故郷を汚した事故に対し、自省の念を強く感じたのかも知れないが、県民たちは歓迎の声を出していた。確かに、仕事の上での関与だから、心底信じたわけではないとの解釈も可能だが、信じるところと違うのなら出演を断ることもできた筈、との意見がこんな時には強まるものだ。そろそろそんなことを忘れかけた頃、彼の顔がまた公報のようなものに現れた。最近問題視され始めた、高齢者の肺炎に関するものだが、今度は何をしているか意識しているのだろうか。それとも、今度もまた仕事の上のものなのだろうか。確かに患者の数は増しているのだろうが、この手立てがどれほどの意味を為すのかは分からない。病院でも、このことでまるで肺炎が不治の病かのように思い込まされた高齢者が、医師に色々と尋ねていた。放映される中での発言にも、恐怖を煽るとも思える部分があり、疑わしさを禁じ得ない。誰しも命を失いたくないのは当たり前で、それに関わる話に気にならない筈もない。そこに例の俳優の顔が登場し、後押しするような言葉を並べる。本当に、あの人は何をしているのだろう。

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12月5日(金)−やる気

 豊かな時代にはそれを享受すればいい、と言う人も居るだろう。まさにそんなことが起きた後、人々の心は全く違った動き方をし始めた。限界を超えて、見知らぬ方に進むことから、不安が募り迷走を繰り返す。様々な乱れが露呈し、進路を失った人々は、自分を守ることを最優先と考えるようになる。その後は、どうなった。
 自分たちを中心に据えるのは、成長が続いていた時代の考え方であったが、周囲への視線は、あの凋落以来向けられにくくなったように思う。それが最も如実に現れたのは、若い世代への配慮に関するものだったのではないか。例えば、ゆとりと呼ばれた愚策は、思いつきの繰り返しに過ぎず、結果的には歪んだ人格に結びつき、人材育成の観点からは、枯渇の時代と化してしまった。その反省から、大きな反動が起き始め、以前にも増して厳しい環境が築かれている。負荷を除くことを第一と目指した時代が、大失敗に終わったことで、正反対の動きが優先され始めると、負荷が必要との考えが広がり、課題が山積することになる。将来を考えれば、以前よりはずっとマシな状態に違いないのだろうが、所詮押し付けに過ぎないものでは、負担増という感覚が広がるだけではないか。やらされているという感覚は、一見どうでもいいように見られるが、本当は才能を伸ばす為には、逆効果であることが多いのではないか。失敗を繰り返すことで、最善の道を見出すという手法は、如何にもと思わせる部分があるが、実際には犠牲者を増やすだけのことだ。思いつきに対する批判の後で、同じ思いつきを繰り返す。愚かな人々の浅慮は、所詮そんなものに過ぎない。本人の考えをどう引き出すか、その問題を解く手立てはどこにあるのだろう。

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12月4日(木)−惚け

 人間誰しも年をとる。この運命に抗うことはできないが、古今東西多くの人がその可能性を追い求めてきた。治世者である王や女帝など、権力を手中に収めた後に求めるものは、永遠の命ということだったようだ。今でも、一部の生き物の寿命に注目が集まるのは、人々の心の底に不老不死の願望が横たわっているからだろう。
 長老とか年長者と呼ばれることから、齢を重ねることは悪いことばかりでなく、人々の尊敬を集めたり、若い世代を助ける役割で活躍する場合も多い。社会全体がそんな雰囲気に包まれていた時代には、年寄りにとっても悪いことは少なかったが、競争が激化し、平等な立場という前提が築かれると、年長という利点は目立たぬものとなっていった。今の高齢者にとって、厳しい時代であるかのように映る変遷だが、実際には、そう仕向けた人々が居て、それがまさに高齢者と化した訳である。自業自得と思うが、当人たちは依然として批判に勤しむ。彼らの仇敵は常に権力者であり、組織であるようで、先日読み終わった本の著者は、件の研究不正の女性に関して、当人より周囲の関係者と組織を徹底批判する姿勢を貫いた。さらに高ぶる感情を抑えきれぬからか、国に対する批判を展開し、愚かな施政者たちの愚策が諸悪の根源であるかのように結ぶ。的外れの指摘ばかりか科学者にあるまじき誤謬が散らばり、まさに老害が本に変じたように思える。的確な指摘を繰り返したのに、愚かな役人が従わなかったとの論理も、所詮借り物を押し付けただけであり、独自性は微塵も無い。捏造事件の羅列も、余所の本や伝聞を基にしたものに過ぎず、年の功による掘り下げは欠片も無い。遂には、自らの研究の正当性を主張する段となると、呆れはとうに通り越した。黙れと言うつもりはないが、品格を失した発言に、魅力を感じない人は多いだろう。そんな本を世に出す出版社にも、呆れるしかないが。

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12月3日(水)−栄枯盛衰

 絶滅危惧種という言葉が広く使われるようになったのは、それほど昔のことでもない。ただ見守るだけの立場であれば、こんな言葉を使うまでもなく、この星から消え去るのを待てばいいのだが、それを許さず、何とかしようと思う人々が使い始めたものだろう。自然保護とか環境保全とか、そんな言葉と組み合わされているようだ。
 小さな生き物がいつの間にか姿を消したことに対して、多くの人間は気にもかけないできた。それらとの関わりも小さく、まさに、いつの間にかという表現がピタリとくるからだろう。だが、普段から目にする大きな生き物に関しては、事情はかなり違っている。人間の営みとの関わりが強く、姿を消した原因の多くは、人間にあるからだ。食用とする為、くらいならまだマシだったのかも知れないが、宝飾品のように価値を産み出すものとして、欲に目が眩んだ人々が群がった結果、姿を消した動植物の数は数え切れないほどだろう。その反省があったかどうかは知らないが、最近の風潮は、絶滅には至らせないという考え方のようで、危惧の対象を定め、喚起を図るものらしい。確かに、それぞれの生き物の存在を尊重する立場として、何も間違ったところはないと思えるが、肝心の人間の営みへの尊重が、失われている場合も多い。伝統とは何とも表現し難いものだろうが、それを守ることも最近は強く求められている。だが、絶滅という意味では、生物種も伝統も同じように危機に瀕しており、時に二つがぶつかることがあると、矛盾に満ちた議論が起こる。海に棲む最大の哺乳類の存亡も、脂を求めて狩りまくった時代から、無駄は何もないと言い切った時代へと移ると、利潤追求とは異なる伝統と結びついた営みを話題の中心としている。この議論はおそらく結論の出ないものだろうが、それが次々に生贄を求め、俎上に乗せる人々の動きにより、一方的な結論へと向かい始めているのではないか。愚かな人間は、自らの数だけを増やし続け、この星を覆い尽くそうとする。いつ、危惧種への指定がなされるのか、誰にもわからない。

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12月2日(火)−交換

 寒さが増し、愈々冬に入り始めたと思われるが、車の運転に注意せねばならない。路面凍結は珍しいことだろうが、雪となると場所によっては一冬に何度も起こる。これも場所によるが、季節ごとに専用のタイヤに履き替える人がいる。雪国では当然とはいえ、そうでない土地の人にとってはどちらにするか迷うところだ。
 年に一度か二度だから、必要な時にチェーンを装着すれば十分とか、滅多に降らないのだから何もする必要がないとか、それぞれに考えがあるものだろうが、いざその時が来ると、諦めに似た声が聞こえてくる。無理を承知で出かけ、周囲に迷惑をかける人もいるが、これは論外として、如何に自分の用事を済ませるか、という時には、やはり万全の準備が必要だろう。昔なら、購入した冬用タイヤと夏用のものを、自分で脱着していたのだろうが、結構大きなタイヤをしまう場所に困ったり、脱着自体にかなりの体力がいることから、多くの人々が作業自体を業者に任せるようになってきた。そこに数年前から新たな請負が持ち込まれたことは、徐々に知られ始めているようだ。外したタイヤを保管することは、場所に困っていた人には朗報であり、倉庫を遊ばせていた保管業にとっても良い話だったのではないか。ただ、脱着と保管を組として経費が請求された時、それを高いと見るか安いと見るかは人それぞれではないか。自分でやれば時間がかかるとはいえ、出費はゼロである。それに対して一万五千円を超える経費が請求されると、反応はどうだろうか。また、保管を依頼したことのない人間には、あの大きさのものを一年間預けることが、どの位の金額になるのか、想像がつかない。こんなところにも妥当な金額があるのだろうが、自分でやれば、と思う人には関係のない話になる。そのうち価格競争が起こるかもしれないが、そこでも妥当なものは、と考える必要がありそうだ。

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12月1日(月)−卑賤

 世の中では品格を問う声が強まっているが、中でも学者、特に科学者と呼ばれる人々に対して、そんな思いを抱く機会が増えているのではないか。不正を働いてでも成果を主張し、地位を得てしまえばよしとするなど、倫理観の欠如が際立っているように見える。業績だけでなく金銭への関心も、異様に高まっているようだ。
 世間知らずの代表と見做された学者だが、本来は職業として意識する必要のない、安定した収入を確保した人々の副業のようなものだった。出世を焦る必要もなく、自分の思いを遂げることが最優先であり、それが一般庶民とは違うものとする固定観念へと繋がっていた。だが、職業として認められるに従い、誰もがなれるものとなると、事情は大きく変わり始めた。様々な欲望が渦巻く世界となっても、始めのうちは選ばれし者たちだけの世界が維持され、依然として世間から隔絶されたもののままだった。だが、その時代が長く続き、虚栄心など様々な欲望に駆られた人々が散見されるようになると、状況は徐々に変わり始め、遂には今のような状態になったのではないか。研究には人と金が必要との主張が、いつの間にか、金さえあれば何でもできるとなり、時には、無いからできないとの愚痴へと変えられる。自信の無い主張に呆れられた学会も、大惨事を産んだ噴火の後には、支援が無かったからこんな結果を招いたとの主張に変貌し、確固たる要求を突きつける。地震と共に噴火は確定的な要素が見出せず、確率的な話しかできないのに、まるで金が全てを解決するかの如くに伝えられると、あの人々の品格は、と思えてしまう。ガン研究には世界各地で莫大な研究費が使われたが、依然として切り取るなどの手立て以外には、芳しい結果は得られていない。同じように予知を主張する学会では、確実な要因が見出せないのに、人と金さえ増やせば、と主張する。既に失われた信頼は、こんなことでは回復できない。学者の本分とは、を考えてはどうか。

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