何を尋ねても同じ答えを返す人には、信用とか信頼といった感覚が無いのだろうか。それとも、それ以外のことができないから、そんな感覚とは無縁となっているのだろうか。眼の前で展開される遣り取りを、そんな事を思い浮かべながら眺めているが、答えは見いだせない。あまりにも違う様相だから、中間がないのも当然だろう。
前者は時に厚顔無恥と称せられる。こんな人の多くは、先日からの活動の中で、同じ言葉を繰り返し、同じ態度を続けてきた。だが、ある日を境にして、そんなことは忘れたと言わんばかりの顔をする。約束を反故にするかどうかは、信用や信頼にとっては重要な要素だが、知らぬ顔をするのならばどうでもいいことだろう。齢を重ねる度に、そんな悪知恵が身についていくが、それも生きる術とされるのではないか。人間としてあるべき姿を、生きる為とはいえ、見失ってしまうことに、抵抗を感じないのだろう。一方、後者はどうだろう。初めての舞台で緊張の極みとなり、何も考えられなかった。と、後から思い返す人が多いけれど、本当にそんなことだったのだろうか。対策を十分に講じて、想定を様々に凝らしても、結局同じ答えにしか行き着かない。そういった場合に、初めての緊張という救いは確かに有り難いものだが、よく考えても、同じ答えになっていたのなら、それが実力なのではないか。遣り取りにおいて、多様な答えが導けるかは、考え抜く力の表れだろう。用意した答えだけを繰り返しては、誠意も信頼も見えてこない。足りないものばかりで、手の施しようもないのだろうが、まずは一歩を踏み出すことから始めてみては。
「しょうがい」という言葉について、最近は様々な文字が使われる。従来の障害には一番馴染みがあるが、障碍が使われる時もある。更には、障がいという表記まで見かけるようになった。障という文字に対して悪印象はないが、害という文字には強い抵抗があるからだと思われる。漢字そのものがもつ意味だからか。
こういう話が取り沙汰されるのを遠くから眺めていると、そこで使われる論理に首を傾げさせられる。何故、そこに拘るのかが見えてこないからであり、当事者たちの思いが伝わってこないからだ。何故、表面的なことに拘るのかとこちらの思いを伝えると、帰ってくる言葉は厳しいものが多くなる。印象を特に重視し、それが偏見に繋がるとの説明も、普通にそれぞれの問題を捉える人間からすると、馬鹿げたこととしか思えない。だが、本人たちは真剣なのだろう。印象を少しでも良くしようと努力し、正当な受け止めを望んでくる。これもまた、表面上のことばかりに囚われているから、何が正しいのかが見えてこない。他と違うのを表すことで、何かしらの支援を望む場合には、このやり方は必ずしも正しくは見えない。表層的な問題より、本質を正しく理解することの方が、ずっと重要であると思えるが、彼らにはまず入り口からという思いがあるのだろうか。一方で、障害という言葉を使うべき対象に、理解不能な場合が多いのも、この問題を難しくしている。他の人との違いが歴然とする場合と違い、最近の傾向はあらゆる違いを「障害」という呼び名をつけて表そうとする。そこに強い違和感が残るのは、本質を見ずに表面だけを捉える、というやり方に問題があるからではないか。そのことに気づかずに、上辺だけを取り繕うことは、間違いとしか思えない。呼ばれたいけど呼ばれたくない、とはどんな心境なのだろう。
不平不満を並べるのが当然という考え方が、いつの間にか一般的になった。我慢するとか辛抱とか、そんな言葉が好んで使われた時代から、結果さえ良ければ何でもとも言われる時代へと移り、そこから、文句を並べても成果が上がれば、という見方が定着した。それがいつの間にやら、成果抜きの不平不満へと変わったようだ。
そういう中で要求の声が高まったのは、当然の結果なのだろう。あれもこれもと相手に求める声が、雇用関係では双方から出てくるようになった。対等な関係と思えばそうかもしれないが、実態はどうだろうか。雇う側からは即戦力という言葉が屡々使われ、細かな技術への要求も強まっている。自分たちに足らない部分を補おうと、新戦力への要求が提示されるが、何故現状では足らないのかという視点が出てくることはない。無い物ねだりと言われるのも、そういった背景から出てくるものだろうが、立場は違うとはいえ、雇われる側も様々に要求しているようだ。雇用環境の整備は、企業にとっては重要な要素には違いないが、必ずしも要望全てに応えられる訳ではない。特に規模の小さな組織では、小回りが利くという特長を持つものの、大規模な変革は難しい場合が多い。名もない企業にとって、大企業と同じように人材の必要性はあるが、その供給は格段に難しい状況にある。こんな形で対峙する人々は、それぞれに要求を掲げて押し通そうとするが、もう少し相手の事情を汲んではどうかと思う。どちらの立場でも、一度雇用関係を結ばないと、互いの実力を見極めることは難しい。試してみるという意味で、インターンシップを考える人も居るが、本来の役割は少し違っている。また、青田買いへの批判は依然として強いから、それへの繋がりを連想させる使い方は嫌われているようだ。だが、勝手に抱いた印象に振り回されるような人々には、経験こそが一番の薬なのではないだろうか。
企業で一番偉い人は誰か。こんな愚問を投げかけても真面目な答えは戻ってきそうにもない。だが、そんな質問をしたくなる場面があるとしたらどうか。どんな意図があったのか未だに分からないが、法人格への移行が取り沙汰された時、様々な憶測が飛び交った。結果として今の姿があるとすれば、法人とは何かと問わねばならぬ。
件の研究所は戦後の措置で自由度は減らされたようだが、法人格は維持し続けていた。国の機関と思う人もいるだろうが、上に挙げた法人格への移行の前も、特殊法人の括りだったから大した違いは起きなかったのかもしれない。しかし同じ頃に移行が起きた国立の研究所や大学に関しては、大変革が起きるという見込みがあったのではないか。ところが、読んだ本で取り上げた老害の著者と同じように自治を減らし、圧力を増した制度変更と受け取った人も多かったようだ。法人とは名ばかりで、資金の出所は変わらず、自由度は増えるどころか減ったとの批判は、時間が経つに連れて増していた。その極みは、大学への批判に集中する中で、自治の砦と言われた教授会の存在を否定し、決定権を奪う流れとなったことだろう。だが、この件に関する報道には、著しい偏りが見られることに、多くの人は気づかなかったのではないか。法人を規定する法律の文言には、問題の権利を保障する表現はなく、ただ単に一般の法人と同じ形式での運営ができることを定めていたに過ぎない。にも拘らず、こんな事態に陥ったのは、本来の業務と責任を果たせない経営者の問題であり、それを放棄してきた事務方の無能もそれに拍車をかけてきた。こんな結果を産んだのは、結局は移行に際して、十分な検討が行われなかった為であり、それが意図の不明確に端を発していたと思えるのだ。しかし、そんな不手際があろうがなかろうが、今その形式が進んでいる。その中でどんな経営を進めるべきか、その任に就いた人々は真剣に考えねばならない。
コミュニケーション能力とは何なのだろう。人生の節目で必要とされると訴えられるが、その姿は不鮮明なままではないか。意思の疎通という言葉も何度も使われる場面があったが、こちらも何を指しているのかよく分からないことが多い。互いの思いを理解することは、簡単なのだろうか、それとも難しいことなのだろうか。
自分の思いを伝える為に何が必要か、こんな問いに答えられる人はいるのだろうか。それも特定の人を相手にするのではなく、不特定多数となった場合、どうだろうか。始めに取り上げた能力は、究極にはそんなことを求めるものとなる。だが、この能力には、相手の話を理解する為のもの、という部分も含まれるのではないか。だとしたら、不特定多数全てにその能力が備わっていることは期待できない。こんなことを改めて書いてみようと思ったのは、無駄金使いと揶揄される運動の中で、宰相が訴えている内容に関して、庶民はどんな印象を抱くのか、と思ったからだ。長く続いた一党政治の中で坂を転げ落ちる状況は殆ど変化を示さなかった。その閉塞感の中、一時だけ他に政権を握られたわけだが、恰もそこに全責任があるかのような説明がなされたり、長く続いた不況からの脱却を訴えるだけで、その責任が何処にあったのかに触れなかったりと、とにかく都合のいい論理を群衆の面前で平然と展開させる。例の能力の問題から見れば、滔々と述べる姿には有りとの声が聞こえそうだが、不正確と不鮮明からすれば、無しとの声になる。一方、そんな映像を流す中では、その誤魔化しにさえ気づかず、状況伝達に終始する姿勢が見えるだけに、ここにも無能力が存在するようだ。結局は、全ての事柄に対して、その場に居た群衆を含め、大衆の殆どが裏に隠された問題に気付かぬこと自体に、コミュニケーション能力の欠如を意識させられる。
為替の動向に目を集めようとしているようだ。確かに大きな変化が起き、今後の展開によっては更に大きな影響を及ぼす可能性がある。だが、その説明で紹介される事象について、どの程度確かなものなのかは定かではない。変化が起こる度に売り物の値段を動かす人々にとっては、目を集める動きは歓迎すべきものだろう。
輸入品の値の動きが激しいと言われる。高級品に関しては一部の人にしか関係ないが、日用品や食料品については、その影響は大きくなりそうに見える。だが、デフレと言われて忌み嫌われている現象からすると、こういう外的要因による値上げはどう見るべきものなのだろうか。様々な知識を持ち、分析する力を持つ人々が、正しい情報を流すことができれば、庶民は安心して暮らすことができるかもしれないが、現状は程遠い状況にある。知識や分析がどれほどのものかはわからないが、今流れている情報を眺めると、そこには不確かな推測が多く含まれ、一部だけに注目したものばかりが紹介される。本来、俯瞰的な見方をした上で、情報を分析することが必要である筈だが、意図的とも思えるほど偏った見方が横行し、思惑に満ちた分析が目立つ。こんな状況で騒ぐのは、まさに彼らの思う壺だろう。各人が独自の見方を持ち、などと言うのは無理難題に近いだろうが、それぞれに異なる見方を持ち、それを共有することができれば、もう少しマシな状態にできるのではないか。情報交換の仕組みがこれほどに整備されたことは、嘗てなかったと思われるけれど、それを使って行われている交換は、一部の偏った意見に限定される。これでは情報を操作している人々に加担しているだけとなるのではないか。折角の道具も、愚かな人々には、宝の持ち腐れとしかならないのだろうか。
ある経済新聞では、毎週月曜日に教育に関する特集記事が組まれている。経済活動と教育にどのような関係があるのかは、すぐに答えが返ってこないかもしれないが、少なくともこの所ずっと話題になっている人材育成には、教育が第一と捉えられているようだ。ただ、そこには以前と比べて、大きな変化があるように思う。
それは経済活動の中心である企業が、教育そのものを投げ出したように見えることだ。餅は餅屋に、との考えと言う人も居るだろうが、それなら、以前の態度は何だったのか、となる。卒業させてくれれば、あとはこちらが現場で何とかする、と言い続けていた人々も、上昇から下降に移ると、そんな余裕が無いとなった。まあ、仕方ないのかもしれないが。その教育ページで、毎週記事を寄稿しているのは、子供相手のニュース番組の担当から、その局を辞めてからも、他局から引く手数多の人物で、最近は理系大学の講師を引き受けている。これも、最近の傾向の、読み書きさえ怪しい学生の教育に、文系人間の支援が必要との、なりふり構わぬ大学の姿勢が大きく影響している。彼の話題は理系と文系の考え方の違いで、件の研究所でトップが辞任しなかったことに対する解釈の違いが、それを根とするものとの意見だった。それ自体に誤りはないと思うが、不祥事の度にトップが辞めて収束を図るやり方を、当然とする見方に違和感は強い。何とかの一つ覚えじゃあるまいし、解決の糸口も掴まずに収束はないと思えるからだ。一方、彼が気になった理系との違いの中で、この組織の長が研究者だから、個々の研究に対する責任を負う必要はない、とする研究者の見解が紹介されたが、これもまた、一部の愚かな人々の意見と言うべきだろう。なぜなら、研究の責任は研究者が追うのであり、他人の研究に責任を負える人は居ない、というのがこの見解の相違の本質だからだ。長が研究者であろうがなかろうが、そんなことはこの騒動において何の関係もなかったのだから。