パンチの独り言

(2014年12月15日〜12月21日)
(他責、無礼講、知足、尻馬、正常化、衆愚、矛盾)



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12月21日(日)−矛盾

 この国はいつからこんな勝手な論理が罷り通るようになったのか。以前からお上のお達しには誰も逆らえず、道理が通らない話にも口を噤むしかなかった。のだが、最近の不条理は、上からだけではなく、下からも押し通される。意味不明な論理も、数の法則を味方にし、無理だろうが横車だろうが、委細構わず通される。
 たとえ意味不明だとしても、そこには論理と呼ばれるものがある。関係者は理の当然と見做し、一点の曇りもないとするものだが、様々に勝手な条件が置かれていることに、誰も気づかないのだろうか。別に蔑視を推奨するつもりはないが、女性の社会進出に関する話の多くは、そんな偽の論理が大きな顔をみせる。確かに、男女が共同してかかってこそ、社会制度は成立するのだろうが、その為に必要な仕組みに関して、今の世に溢れるものの殆どは、歪曲された考え方と一部への加担という偏った見方に、基づくものと思われる。女性の多くが結婚し、子供をもうけることから、それを障害とせぬ仕組みを成立させようと、一部の人々は躍起になる。様々な優遇制度は、目的を明示しさえすれば、正当なものとできるという誤った考えが、社会の多数を占める中では、驚くべき偏りが罷り通ることとなる。職業を持ちたい女性がいる反面、家庭に居続けたいと願う女性もいる筈なのに、片方のみの事情を取り上げる制度が、いとも簡単に作られる。働きたいのは気持ちだけの問題でなく、財布の問題でもあるとの解釈も、配偶者一人の収入では暮らせぬ現状に目を向けず、頑なな考えにより正当化される。一人暮らしの人間にも、生きる権利はある筈だが、この手の論を展開する人には、そんな例外は見える訳がない。一方的な制度批判には、偏った考えがつきものだが、それを定める人々には、多様で全体を見渡せる能力が不可欠だろう。一時の欲望に駆られて、偏りを受け容れてしまうと、次には更なる歪みを生じる。平等という名の不平等が、こんな形で繰り返されるのは、数の論理の表れではないか。

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12月20日(土)−衆愚

 遅い昼食を蕎麦屋でとっていると、目の前の画面では昼下がりの下らない番組が流れていた。画面の前の人々と同じ目線で意見を述べるとして、関西から全国区へと進出した人間が、司会を務める番組は、井戸端会議を更に下劣にしたかのような雰囲気を匂わせていた。空腹には堪える、非常識の洪水の様子だ。
 件の研究所に関する話題に、様々な工夫を凝らそうとしているようだが、所詮理解できる筈のない内容に、無駄な遣り取りが続く。同じことは、その日の午前中に開かれた記者会見の光景にもあり、低俗な質問を繰り返す無能な記者たちと、彼らの水準には堕ちられない研究者の応答に、輪をかけるとしか思えない、素人目線の番組司会の弁では、埒があかないとしか言いようがない。食いはぐれた身にとっては、怒りを抑えることは難しく、使ってはならない言葉ばかりが頭に浮かぶ。細胞は無いのかという質問に、どんな意味を込めたつもりか、知る術も持たないが、答える側は、職業上の言い回しに終始し、目の前の人間の理解を促すつもりは毛頭ない。更に滑稽だったのは、退職を巡る遣り取りで、如何にも常識の代表かの如くの質問に、不明を詫びさせようとするかのような応答は、腰砕けのくどさに繋がり、訳の分からぬ遣り取りとなる。その後の番組中の解説も、要領を得ない司会の発言では、的を射ることは望めない。多分、画面の前の人々は、自分の疑問と同じことを、司会が口に出すだけで、喜ぶのだろうが、無理解という条件に変わりはない。あるメルマガによれば、終了後に責任者が戻ってきて発言したそうだが、肝心なことに会見が向かわない歯がゆさに、我慢の限界を超えたからだろうか。研究の責任は研究者にあり、そこに組織が口出しすることの横暴さに、堪忍袋の緒も切れたということか。だが、今回も誰の口からも出なかったことを繰り返せば、報道も加担したあの組織の広報活動に、全ての根源があることに気づく必要があるのではないか。

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12月19日(金)−正常化

 境界線を消す動きが激しくなってきた。仲間となれば、移動は簡単になり、取引も簡素化されると言われる。良いことばかりに目が集まる中で、嘗ての境界を挟んだ関係は、様々な調整を必要とする。所謂利点のみに注目が集まる一方、状況の悪化が表面化してくると、かなり大きな変化を持ち込むしか打開策はないようだ。
 陸続きの関係では、線は人々が思惑を持って引いただけであり、そこに歴然とした区切りがあるわけではない。力関係やその他の要因により、線を引く場所は動かされ、利害が入り組む地域は、直接的には関係のない人々の思惑により、揺れ動かされる。孤立した存在である国では、そんなことと無縁で、主権を侵害されることもなさそうに見えるが、現実には自立できるとは限らない。大国の傍にあることで、その影響を強く受けることはあり、隣国の南に位置する島では、独立国としての扱いを受けられなくなっている。経済的には十分に自立するだけの力を有するが、他の要因がそれを許さぬこととなり、微妙な関係はまだ続きそうだ。一方、大洋の向こう側の、ある意味ではこの国と最も近い国では、その向こう側に存在する国との関係が、大きく変えられようとしている。国の交わりがあるかないかは、国としての存在が認められねば起きない問題で、こちら側の隣国では別の関係が成立するが、あちら側は革命以降に起きた断絶が続いていた。実際には、人の交流はあったのだろうが、国という関係では、緊迫感は以前ほどではないが、依然として関係は絶たれたままであった。それが突然、距離と同様に近い関係へと変貌することになる。賛否両論があるが、断絶を決断した時も、同じような議論が起きたのだから、当然の成り行きだろう。ただ、一時的な措置ではなく、恒久的な関係を考えると、このような変化も当然と見るべきなのかもしれない。

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12月18日(木)−尻馬

 他人任せと言ってみたり、自分は何もしていないのに偉そうにしていると言ってみたり、自分を卑下するように評すればいいと思っているのだろうか。自虐的な言い分こそが、この国の人々の性格の表れなのかもしれない。だが、そんな言葉で揶揄される人々は、そんなことを微塵も思っていないように見える。ここに乖離がある。
 始めに書いたことは、今の国民性、特に若い人々を表すためのものなのだが、彼らから見たら、昔からそうだったのに、今更何を言うのかということになるようだ。それはその通りであり、著しい成長を誇った時代にも、多くの人は自分で何かをしようとはせず、ただ流れに身を任せていたに過ぎない。また、成長に寄与しているとの誇りは、自分自身をも大きく見せたいという願望へと繋がっていた。ただ、謙遜を第一と見る風潮から、言葉や態度に出すことはできず、外からナンバーワンとの評価を得た途端に、我が意を得たりとの反響が起きた。所詮同じことを考えているのだから、圧力をかけたり、抑制を促したりすることはおかしいという意見も、年長者の中にはあるようだが、彼らの能天気ぶりは今更批判しても無駄なほど、深刻な状態に陥っている。一見理解ある年寄りを演じているように思えるものの、実際には、自らの利益を考えた上での言動であり、本心は曇ったものであるようだ。集団行動を得意とする国民性からは、突出した存在は好まれず、それでも先行するものであれば、追従するという考えには、ある意味矛盾が生じる。たとえそうでも結果が良ければいい、という考え方もかなり身勝手なものだが、それが多数派であれば道理が通らずとも良いとなるのだろう。ただ、理不尽な人々の存在はいつの時代にも必要なのではないか。

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12月17日(水)−知足

 幼い子供達が、大人の前で様々な技を披露する。一時流行ったことだが、最近は当時ほど注目を集めていないようだ。個人の天才ぶりを紹介するより、組織として働きかけ、優秀な人材を育成する。そんな仕組みが国を挙げ作られ、将来を見据えたものとして評価される。だが、実態は悲惨なもので、成果は上がらない。
 天才ぶりを誇った人々のその後は、大したことがなかったのではないか。当時取り上げられた人々は、とうの昔に成人して社会に出ている筈だが、彼らの後日談が聞こえてくることは著しく少ない。その原因はまさに、ただの人になってしまったから、だろう。今は使われなくなった指標に、知能指数があるが、これもまた年齢による違いを入れて測るから、早熟の才能は特に過大評価の対象となる。こんなことを繰り返していても、結局社会全体にとっては、何の役にも立たないだけだろう。それでも、いかにも働きかけているという風が装えるので、いつまでも同じ事が繰り返される。無駄金という意味では、これもまたその一つであり、先行投資は意味を取り違えていると思える。何度も使ってきた言葉ではあるが、分相応はこんなところにも現れ、年相応と姿を変えるが、同じ意味を成す。才能の発芽は、人それぞれに違う形をとるからこそ、集団での扱いは特別にすべきではない。相応な仕組みを続けることで、それぞれに応じた時期に芽吹くことこそ、人の成長に繋がる話ではないか。

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12月16日(火)−無礼講

 酒飲みを含む会席が増える季節に、体調を気にする人も増えている。一方、街の様子は賑やかとなり、景気も悪くないように見えるのではないか。それぞれの会場が工夫を凝らし、客寄せに頑張っているのは、景気としてはどちらを表すのか、まだ見えてこないのだが。ただ、飲み過ぎの姿には、気をつけねばならない。
 本人たちは気持ちよく酔っ払っているのだから、大目に見て欲しいところなのだろうが、たがが外れてしまった人々の行動は、行き過ぎたものが目立っている。大声や騒ぎなどは、そんな中でも小さなものだが、それでも迷惑に感じる人は多い。更に、相手構わず勝手な振る舞いをするとなると、見て見ぬ振りが難しくなることもある。電車や道端で騒ぎが起きるのは、こんな背景があるのだろう。酔っ払いに寛容なのは、この国の特性の一つであり、無礼講とか、酒の上の失礼なども、何となく許される環境があった。だが、最近の傾向はどうだろう。あらゆるものがハラスメントと見做され、全てを被害と加害に分けられる。見ず知らずの人の間で、こんな状況が生まれるようだと、寛容には程遠い事態も出てくるのではないか。楽しく飲むことで、うさを晴らすという考えも、少し羽目を外しすぎると、逆効果となるのだろう。楽しむ為に、少し気を配っておけば防げることだが、酔っ払って楽しくなると気も大きくなる。制動がかけにくいようなら、初めから飲まねばいいのかもしれない。何れにしても、楽しむことを忘れずにいたいものだ。

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12月15日(月)−他責

 あの騒動は何だったのか。そんなことを思わされる出来事は沢山あるが、今回のもおそらくその程度のものだろう。それでいて、後から不平不満が噴出するに違いない。目的も目標も定まらず、ただ出鱈目に思い付きを強行する。無駄を減らすことに関して、この騒ぎはどんな影響を及ぼすのか。そんなことは知ったこっちゃないのか。
 他人任せの国民性などという評論家の分析に、的外れの感が否めないが、ではどんな国民性なのだろう。今の状況を見ると、良いものと悪いものを区別し、それらへの関与を明確に分けることで、責任逃れが第一となっているように見える。これは実際には、他人に任せているように見えるけれども、良い所取りの身勝手な論理であり、選ばれし者たちもそうであるだけでなく、選ぶ人間たちまでが身勝手に疑問を抱いていないのだから、何ともし難い様相となっている。上手くいくことを願うだけで、それ以外に気になることは自分だけとなれば、何も動かないような気がする。だが、自分のことだけを考えていても、それが正しい方を向いていれば、総じて全体も良い方に動くのではないか。そこに大きな違いが出てきたのは、自己中心の考え方が、他との繋がりを無視した形で進められるからで、個人というものへの考えが、歪んでしまったからではないか。別に、他の人々の為に、などと格好よく宣言する必要はない。それより、自分がどう見えるかを気にしてはどうか。見栄を張るという言葉もあるが、分相応も他人を気にした結果にも見える。こんなことを並べても、何も起きないのかもしれないが、考えてみたらとは思う。

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