渡り切れない程の人が交差点に殺到する。何処から現れたのかと思う程の数だが、自分を含め、何かしらの目的を持っているに違いない。この国で一番高価な土地として、名を馳せた場所は、古くから様々な人が集まる所として有名だった。それを如実に表すのは、周囲から聞こえてくる意味不明な言葉の洪水なのではないか。
経済の低迷が続くと言われる一方で、ここに集まる人々には、そんな気配は微塵も感じられない。これが回復の証と取り上げれば、意味不明な選挙を断行した政治家たちを、喜ばせるだけになるのだろうが、彼らの功績は別にして、人々の懐具合は変わりつつあるようだ。だが、こんなことを気にする必要はあるのだろうか。経済状況は、人の関心を集める材料とはなるが、良い悪いの指標については、何やら理解不能なものが並ぶ。数値が全ての世界では、あらゆる事柄に数値化が施され、理解を促そうとするけれど、その大元には感覚的な判断があり、同じ事柄に対して人それぞれの反応は、異なることが殆どとなる。その数値化に意味があるかは、議論の余地がかなりありそうだが、現状では数字のみが取り上げられ、それが状況を表すものとされる。悲観的な人々への調査では、同じ状況も将来への不安として取り上げられ、回復への道は遠いと評価される。だが、現実の世界での人の行動は、その評価とはかけ離れ、随分明るく見えているのだから、不思議なものだ。感覚を数字として表すことの難しさを、痛感させられる事柄だが、こんなもので推し量ろうとすること自体に、問題があると見るべきではないか。その意味では、収入も多い程良いのだろうが、何が正当と見做されるのかは、定かではない。こんな風に見ると、価値を見極めることは、何を対象としても難しいものだ。
再現できず、別のものの混入、目や耳を疑わざるを得ない結論が導かれた。これに対する愚かな批評には、耳を貸す価値さえ見出せない。理系に属するとの自負からか、文系の報道陣の無知を揶揄する意見を出す記者もいるが、同業のよしみは何かと思える。論理の欠如が全ての根源だろうが、それを許す土壌は腐っているようだ。
科学的な事柄には馴染みが無いから、というのが彼らの論理のようだが、果たしてそれは成立するものか。同じ時間に流れていた別の話題には、法人税減税の是非を問うものがあり、庶民の経済に詳しい評論家が、政治家の大企業への擦り寄りを批判する側で、件の世界の代表者のような顔の編集委員は、呆れた表情を露わにすると共に、国際競争力などという言葉を、金科玉条の如く吐いていた。彼らにとって、重要な拠り所である表現なのだろうが、そこに数字の裏付けは殆ど無く、減税がどのように肝心な力に響くのか、説明できる筈も無い。こんなぬるま湯に浸かりきった人々が、大きな顔をし続けられるのが、この世界の常であり、腐った土壌を取り除かない限り、状況が変わることはない。簡単な図式なのだが、それを批判できるほどの知力を持つ人は少なく、無知蒙昧の大衆を相手にしていれば、驚くほど高額な収入も簡単に確保できるのだろう。今一度、科学の話題に戻せば、論理に終始すべき分野でも、成果を発表する機会において、今回のような不正が前提にあれば、どんな新発見も可能となる。小説より奇な筈の事実も、人の関心を呼ぶ作為に勝ることは難しく、筋書き通りの展開に、違和感を抱くことの難しさは、並大抵のものではない。自分の論理の欠如を棚に上げ、批判に終始する愚か者を前に、伝えることの大切さを説くのは、大いなる無駄としか言い表せないように思う。
世界中の人々が批判に走っている、などとは言い過ぎには違いないのだが、攻撃は最大の防御などという言葉が並ぶと、まさに、自分のことは棚に上げて、他人を貶める言葉を並べることこそ、最重要課題のように見えてくる。一方的な情報の受信が、新たな仕組みの整備で、発信へと変貌し、攻めの勢いは増すばかりのようだ。
他山の石とか、人のふり見て我がふり直せとか、他人の行為を責めるのではなく、それを参考にして自分を磨けという教えは、古くから存在しており、以前ならばそんな言葉が、年長者から若年者に伝えられていた。既にその意味も知らぬ年寄りが多数を占める状況では、今更そんな言葉が出てくる筈もないが、こんな状況だからこそ、他への批判に励むより、自省する態度を優先させることが、大切になってくるのではないか。一方、他人への批判が、自分の矮小化に繋がることに気づかぬ人は多く、特に、責任ある立場の人たちにその傾向が強まっている。そのような状況では、若手の登用は難しくなり、自分自身の孤立化にも結びつくが、それさえも気づかぬ人を見ると、組織の運営などについて、将来への不安が隠せない。自分の責任を忘れ、他人任せにすることは、破滅への道を進むことになる場合が多いが、責任を持ちつつ任せることは、かなり違った結果に繋がるだろう。攻めることや責めることに、現代人は躍起になっているのだろうが、そんな不遜な行為からは、大したことは生まれない。悪い点に目を瞑る必要はないが、悪い点ばかりを取り上げていては、好転させるきっかけは見出せない。比較の際にも、悪い方に目を向けず、良い点を取り上げれば、改良の端緒も見つかるのではないか。
貪欲に何でも取り入れるという国民性からすれば、現状は特に目立ってはいないのかもしれないが、続々と入ってくるものがあれば、消え去るものがなければ成立しない。流行を追い求める人々からすれば、その対象が次々に変わる図式は、歓迎すべきものなのだろう。だが、それを導く方から見れば、舵取りは難しそうだ。
多国籍の料理が手に入る国は、以前は一部に限られていたが、最近は情報の伝播が速まったからか、世界各地で世界各地の食べ物が手に入るようになっている。この国の料理は何やら指定されたところからすると、世界的な広がりが当然と見做されるようになっている。だが、その様子には著しい偏りがあり、以前から地位を築いていたものを除けば、多くの伝統的料理は、肝心の本国でさえ、見かけなくなっている。そろそろ準備に入る時期で、今は食材を仕入れる為に走り回る頃だろうが、それも一部の料理人の仕事となり、各家庭で独自のものを拵えることは、殆ど無くなってしまったようだ。伝統が失われるという実感は、高額の料理を買う人々には無いのかもしれないが、実際には、料亭の作り物を食べているだけで、家庭料理の伝統は途切れてしまいそうだ。何も作らないくせに、そんな料理に飽きてしまった時の、別の食べ物の紹介が流されるのを見ると、どの道勝手な振る舞いなのだなと思えてくる。確かに、男女が同等であるとの前提から、料理に時間をかけることは難しくなっているが、だからと言って、消滅させることでいいのか、問う機会があっても良さそうだ。食べ物への出費が、増え始めているとの報道からは、更に豪華なものへの注目が集まるが、家庭料理への回帰も、忘れてはならないように思う。
論理の重要性を何度も取り上げてきた。その背景には、現代社会が抱える深刻な問題があり、一方的な意見が罷り通るという事例が、度々見かけられるからだ。無論とか勿論とか、論ずるまでもないといった表現が、過度に使われるのも、明らかな誤用が増えているからだろう。議論の余地のない一方的な発言が目立つのも当然か。
同じような状況から生まれたものと思われるのが、因果関係の取り扱いではないか。原因と結果を結びつける考え方について、現代人の苦手意識はかなりのものに思える。丸暗記で生き延びてきた人々にとって、それぞれを別個のものとして、ただ闇雲に覚えようとする手法は、受験戦争を生き抜く為のものとして、殆どの人に押し付けられてきた。それ以外の手立てを見出せぬままに、大人の仲間入りをした人には、原因と結果を結ぶ糸を見出す力は、当然のことながらある筈がなく、ただの思いつきで結論を出そうとする。自分自身にしか通用しない考えでは、説得力がある筈もなく、周囲を納得させることに難渋する。以前ならば、その壁に当たることで、変化が起きることもあったのだろうが、便利な社会では、そちらを向かず、勝手な発言がし放題の別の世界に向けば良い。自慰行為にも似た発言に、誰からも反論が無ければ、自己満足が達成できる。そんなことの繰り返しが、今の歪みを産み出したのではないか。意味不明な批判や論理の飛躍が撒き散らされるのも、便利な道具のおかげであり、それで自身の世界に閉じ篭れるのだから、楽なものである。説得も納得も無用となれば、精神的には安定な世界を築ける。だが、それにより歪みは矯められることなく、拡大するばかりとなれば、社会はまともな姿を見失うのではないか。因果関係を確かめる必要を失った時、その世界は崩れ去ると思うが、現状はその途上にあるのだろうか。
安定した時代、人々は安心を追い求める。日常が平穏に続けば、何の心配も起きず、安心を実感できると言われる。だが、ある日突然平穏が破られ、不安に駆られる日々が続くこともある。そんなことが世界的に起きたのは、遠い昔のこととなった。そんなことを記憶の隅にさえ持たぬ世代が大半を占めると、平和は当然となる。
今では、安定した時代を続ける為に必要なことは、争いを起こさぬことではなく、繁栄を続けることのようだ。ただ、変動の時代に生きた人と違い、現代人の多くは、安定した時代に育ってきたから、何が起きるかを予想し、それへの備えを怠らぬことが最優先となる。その時代も長期に渡ってきたから、傾向と対策という戦略は、万全の備えと見做され、誰もが挙って実行するようになる。相対的に見れば、同じことを同じようにするのだから、そこで生まれる差は、実力の差と言えるのだろうが、努力の結果だけに受け入れざるを得ないものと見られる。それに慣れた人々には、当然に映る出来事だろうが、その競争を終えた人々が飛び立つ、社会という存在から見れば、同じ競い合いは無駄という解釈が成立する。大学進学時のいわゆる偏差値が、人々の一生を決めるのであれば、大多数にとってつまらぬ余生しか残らない。それが成立しないからこそ、生きる楽しみが出てくるわけで、それを思う気持ちを失っては、自己満足が精々となるのではないか。所詮この程度と、独り言を呟いたとしても、何も変化は起きない。新たな競争原理が働くと思えば、新たな気持ちで挑めるのではないか。傾向と対策という安心できる仕組みに、自ら限界を感じてこそ、再出発ができる。安心という鍵語句が、足枷となっている現実に立ち向かわねば、将来の安定は手に入らない。
逆差別と評される制度は、横車を押す為には必要だったのかもしれない。しかし、差別を無くす為の差別とは何か、制度を提案した人々は考えなかったのか。更に、他の手立ては無かったのだろうか、と思うことも屡々ある。確かに存在する差別に対して、それを排除する為には、少々の乱暴は致し方ない、と言うのか。
男女の役割を改めて考える動きは起きそうにもない。これだけ社会を挙げての動きが強まると、その波に乗らねば、取り残されるだけでなく、時には差別の対象とされるのだから、たまったものではない。性別は見かけの違いという点に、議論は集中しているようだが、動物としての違いは歴然とあるのではないか。それを無視するかのような動きに対して、警告を出す必要はないのか、現時点の疑問として改めて取り上げるべきではないか。次の世代に繋げる為には、両性が共に必要となることは明白である。その点に異論を唱える人は、おそらくいないと思うが、それも医学の進歩で訳が分からなくなるかもしれない。ただ、現時点では、その点に言及する必要はないだろう。子作りの為に、一時的に仕事を休むことは、以前から行われてきた。旧制度の問題は、復帰の道を残していなかったことで、機会を奪うという解釈から、改正されたとされる。子育てに関しては、男にもできるとされ、それが当然という前提を置いた上で、現行制度が成立しているが、これに関しては、異論が出てもいいように思う。男女の役割分担に、不公平があってはいけないなどとは、正論のように思える話だが、果たしてどうだろう。先進国の中には、女性の子育てを尊重する見方に戻った国もあると聞く。多様な選択があることこそが、公平と言えるのでは、と思うのは、制度としては無理なのか。