パンチの独り言

(2014年12月29日〜2015年1月4日)
(熱狂、十大、誤報、未来へ、遺産、誤法、−)



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1月3日(土)−誤法

 この季節、耳障りな言葉がある。「そうですね」という言葉は、特に、運動選手の間で多用されるものだが、「はい」という返事の代わりに使うことが多いようだ。いつ頃から誰が使い始めたのかは、誰にも分からないだろうが、気になって仕方がない。何故、同意を表す為に、この一言が必要なのか、正直理解できない。
 意外な質問があった時に、考える時間を稼ぐ為のものであれば、そうですねぇ、といった具合に、語尾をぼかすのが常だが、ここでのものは、きっぱりと歯切れよく話されるのだから、全く違った思惑があるのだろう。だが、相手の言葉に同意を示さねばならない時だけでなく、ただ口癖のように出てくる言葉には、思いが込められていないように感じられる。そんなことを気にする必要はない、との声が聞こえてきそうだが、このまま使用者が拡大していくと、不快な場面が増えるばかりとなり、さらに気分が悪くなるのでは、と思えてくる。何しろ、競技の場面だけでなく、多くの場面で出会すようになっているだけに、あの世界だけで通用するという状況が、徐々に変わりつつあるのではないかと思える。言葉の乱れは、多くのもので指摘されている。これもその一つに過ぎず、時間と共に消えるのか、常識となるのかが決まるのだろうが、その途上で知らぬふりをする気はない。以前、そんな思いで編集されていた番組が、公共放送で流されていたが、そこで取り上げられたものに、「してあげる」という言い回しがある。あげるというのは、上げるという意味が込められており、目上の人への言葉であると、その中での説明にはあった。取り上げられた理由は、おそらく、してあげるという言い回しより、させてあげるというものを対象としたものだろうが、目下の子供に対して使われることに対して、苦言を呈するものだったのだろう。今や、人どころか、物に対しても使われることが多くなり、おかしな具合は強まるばかりだ。

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1月2日(金)−遺産

 世界遺産という言葉が市民権を得たのはいつ頃だったか。最近は、その指定獲得に躍起になる人も多いようだ。一気に観光地化した場所は、確かにある意味では潤うのだろうが、反面、それまでにない混乱に陥ることも多い。その地に住む人の数に比べ、遥かに多くの人が訪れることは、それだけで障害を産み出すのだから。
 様々な人々の思惑は、指定されるまでの間も入り乱れるのだが、いざ、指定を受けた途端に、全く違った様相を呈することとなる。確かに、利益を得る人の数の方が多いのだろうが、そればかりとはならないところが難しい。この国の場合、以前からそんな状況が起きており、文化財と呼ばれるものに指定された途端に、自分の所有物が、意のままにならないものとなっていた。公益を優先させることに、異論を唱えるのは難しいから、指定解除を願い出るのも憚られたのだろうが、それにしても、文化の為とはいえ、修繕もままならないのはどうだろうか。その身になってみないと判らない状況は、観光客たちにとっては何の意味も成さないのだろうが、当人にとっては、他人の為とはいえ、我慢しなければならないことが多すぎる。遺産への指定も同じような状況にあり、指定時の状態をいかに保つかが肝心となる。その為に、折角手に入れた筈の地位を失うことさえあり、思惑に満ちた動きからすれば、当てが大きく外れることになるのだろう。そんな変遷を眺めるに、名ばかりの状況には、様々な見方を施しておくことの必要性が見えてくる。年を経るごとに、目的も目標も見失い、何の為なのかさえ見えなくなっては、本末転倒となりかねない。まだ、そんな騒ぎを起こすには早過ぎるのだろうが、どうなっていくのかは、気にならないわけでもないだろう。

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2015年1月1日(木)−未来へ

 この年はどんな年になるのか。人それぞれにそんな思いを抱きながら、新年を迎えたのだろうか。それとも、そんなことを考える余裕もなく、日々の生活に追われる毎日と同じまま、といった気分だろうか。一年の計は、と言われるが如く、様々な願いや望みを思い浮かべ、それに向けて努める気持ちを新たにしているのか。
 特に、節目にあたる人々には、様々な思いが過っているだろう。ただ、それが良い方に向かうか、それとも思わぬ方に行ってしまうのか、それは今の時点ではわからない。その中で、地道な努力を心に誓うわけだろうが、どんな気持ちを抱いているのだろう。入学試験に挑む若者たちには、もうあまり時間は残されていない。すぐに結果が出る人も居るだろうが、何段階にも分けられた選別に、一喜一憂を繰り返す人も居る。何れにしても、誰にだって春は来る。それが明るい未来へと続くものか、はたまた別の道を余儀なくされるのか、本人も含め、誰にもわからないものだ。未来が見通せたらと願う人もいるけれど、見えないからこそ楽しめることもある。もし、運命のように決められたものばかりだったら、詰まらない人生になるのではないか。まあ、そんなことを考えるのも、人生の一巡りを済ませたからこそ、となるのかもしれない。これから先へ進む若者たちにとっては、見えない不安が一番の気掛かりとなるのだろうか。でも、見えないからこそ可能性があるとは言えないだろうか。一時の結果が全てを決めるのではなく、その時々で様々に変化するものだからこそ、日々の生活を楽しめそうな気がする。要するに、全てが気の持ちようなのだろう。

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2014年12月31日(水)−誤報

 今年も愈々、今日でおしまい。以前は、こんな話題を取り上げることは少なかった。だが、毎日洪水のように押し寄せる、垂れ流しとしか思えない事実に基づかない情報に、すぐに対応しなければという思いが、いつの間にか時期をずらすことを難しくした。結果は、前日や当日の話題に触れることとなり、不確実な指摘に留まることになった。
 それでも通用する程、元の情報の不確実さは甚だしい。確認を怠り、予断を持って論じる情報には、誤りが満ち溢れ、創作としか思えぬものまで出てくる始末。誤報として詫びを入れることにも慣れ、そんな過ちに恥ずかしさも感じなくなると、想像力ばかりが膨らみ、勝手な解釈やあり得ない展開さえも登場する。分かる範囲でしか説明できないのは当然で、だからこそ、不慣れな話題に関しては、敢えて触れないか、あるいは、識者と呼ばれる人々に頼ってきた。だが、いつ頃からか、識者に尋ねる時でさえ、あらかじめ設定した筋書き通りの展開を、押し付けることが当然のように行われ、用意した台詞を繰り返させることが、横行し始めた。音声での伝達においては、本人の発言であることが絶対条件であるから、その台詞を渡した上で、それをカメラに向かって話せと強要してくる。あり得ないと思うのは、良識の欠片がまだ残る人々であり、その気が微塵もない人々にとっては、画面に映る自分の姿に満足するだけのことだ。文字による伝達でも同じようなことが行われ、都合の悪い話は無視され、話していないことが要約として晒される。どちらにしても、我慢ならない行為と目くじらをたてれば、二度と接触されることはない。そんな傲慢が罷り通る業界も、既に昔の輝きを失い、斜陽へと傾く。栄光を取り戻したいのなら、真面目に伝える為の手立てを見出すべきだろう。

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12月30日(火)−十大

 年の瀬もここまで押し詰まってくると、皆は一年の締めくくりを施したくなるのだろう。そろそろ紙面も画面も、この一年のまとめで飾られ、そのうちの大きなものを両手一杯に集めようとする。十大ニュースとは別の字で表すべきとも思えるが、記憶に残るものを一年を区切りとして纏めることには、意味があるように思う。
 以前、まだこのサイトを覗く人の数が十分にあった頃には、声を掛けてそれぞれの十を提案して貰ったり、こちらから十を提示して、人気投票のようなことをしていた。それぞれに感覚が異なり、それぞれに印象が違うことが、こんなことを繰り返すだけでも見えてくるが、一年という期間は、実は人の記憶にとっては長すぎるものだというのが、一番印象に残ったことだろうか。忘れることで覚えられるという話を聞いたことのある人も居るだろうが、今は、そんなことはないと言われている。それぞれにしまい込んだ引き出しを、思った時に開けられないようになるのが、忘れたということであり、実際には、引き出しはそのままにしまわれている。ただ、記憶を確かにするためには、その引き出しを何度も整理したり、その場所を確認することが必要で、たった一年とはいえ、遠い昔の出来事を一度きりの経験で覚えておくのは、かなり難しいこととなるらしい。では、今年はどうだったのか。言うまでもなく、科学に関する話題が幾つか思い起こせる。明るい話題がある反面、闇に包まれた話題もあり、科学を理解できないものとして遠ざけてきた人々さえも、口にすることがあった。これを歓迎すべきと捉える見方もあろうが、どうにも同意できない。誰もが参加することで、多彩な見方が取り入れられ、正しい結論が導かれるとの意見には、正当な判断がなされるとの前提がある。そこに大きな誤解があることに、社会が気づかぬうちは、この考えは通用しないのではないか。さて、来年は如何に。

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12月29日(月)−熱狂

 論理的とか客観的とか、冷静に見える分析には、こんな感覚が必要であると言われる。一見妥当と思えるものなのだが、それこそ冷静に見てみると、そんなものの存在がないことが多い。興奮せず、恐怖に打ち勝つ判断には、始めの部分で冷静さが必要なのだろうが、論理や客観は後から付いてくるもののようだ。
 科学的分析と言われるものにも、そんな雰囲気が漂う。そこには論理や客観が当然あるものと思われているが、実際には、それを施す人の冷静さが始めにあるように見える。始めの部分で、きちんとした形に眺めることができれば、そこには分析が施せる。だが、その時点で既に偏った見方をするしかない程に、興奮や恐怖に振り回されるくらいに、冷静さを失ってしまっては、どうにも動きがとれなくなる。平時であれば何の問題も起きないのに、有事には問題山積となってしまうのも、そんな心の問題が大きく影響するからだろうか。ネット上の論争や呟きなどで、右往左往を繰り返す人々には、そんな落ち着きが見られないと言われる。圧迫を感じるような環境で、冷静さを失う人々の心理には、実はよく似た傾向があるのかもしれない。だが、本人を含め、どうもそのあたりへの理解が及んでいないように思える。事情さえ見えて来れば、少しの努力で克服できるのだろうが、視野が狭いままでは、なんとも致し方のない状況にしか居られない。分析的な思考が重要との意見もあるが、その前に、冷静な心を持ち合わせていないと、上手くいかないのではないだろうか。それを資質と呼んでしまっては、立つ瀬がないのかもしれないが、そんな思いが過るほど、人の行動は簡単には変えられない。そんな事例を眺めていると、人間の性とは何なのか、と思えてくる。

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