パンチの独り言

(1月5日〜1月11日)
(不通、組織論、人気取り、見通し、信仰、模倣、工夫)



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1月11日(日)−工夫

 真似はいけない、の続きである。背中を見て育つとか、技を盗むとか、そんなことが言われた時代には、これほど「真似」が嫌われることもなかった。それが何故、こんな状態になったのか、正しく指摘できる人は少ない。そんな分析をするより、目の前の難題を解決する方が先で、禁じてでも安易な模倣をやめさせようとする。
 一見当然のことと思われるが、実際には、十把一絡げの措置であり、やめさせようとする思惑が達成できないばかりか、肝心の真似を礎に成長を図る人々の妨げにさえなる。この辺りの区別を明確にさせることなく、強制するやり方では、大した効果は得られないのではないか。独自とか独特とか、人と違うことばかりが優先され、そんな素振りを見せた子供達を、引き上げようとする動きが、教育現場に横行した時代、普通という存在は貶められるものとなった。年相応の考えや、子供なりの周囲との比較が、禁じられた時代には、歓心を買おうとする、子供なりの計算が成立し、時に、歪んだ心が評価されることさえあった。だが、これらの試みは、悉く挫折し、今では、もう忘れられた存在となった。ところが、その後の情報社会の発達は、全く別の問題を突きつけてきたのではないか。真似や模倣を、今更のように推奨しようとしても、何の苦もなく手に入れられる存在となってしまっては、人を育てる手立てとはならない。じっと観察し続けることで、そこにある違いを見極める目を育てた環境も、安直に、キーを押すだけで、目の前に展開される情報の洪水には、勝ち目がなかったようだ。吟味する力を得る間もなく、ただのかっぱらいのような行為を繰り返す若者に、大人の対応は、的を大きく外している。同じ真似でも、工業生産などでは全く違った過程を経て、本家も羨むような製品が作られるようになっている。これは、上辺だけの真似だけでなく、それに加えられる地道な努力が、重要となっている。真似を禁じられた環境で、別の工夫を施そうとした心理は、今の若者たちには育まれていない。

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1月10日(土)−模倣

 不正を批判する記事が、様々に踊る紙面、捏造がいけないことはすぐに判るが、では、剽窃の問題はどうだろう。他人の文章をそのまま使うことは、書物を生業とする人々にとって、禁忌であることは理解できるが、では、成長段階ではどうあるべきか、現状は、過剰反応の最中に思え、余りの騒ぎに驚くべきかとも思う。
 言語の習得において、真似る事は当然の過程と見做される。それがどこまで許されるかが、巷で取り沙汰されている問題であり、習得の過程と見るべきか、はたまた、その成果により利益を得ている過程と見るべきかは、かなり難しい問題と思われる。厳しい制限をかけることは、今の風潮からして当然と見做されているが、それが人の成長に繋がるかを論じないままの状態には、強い違和感を覚える。最先端技術を誇る国も、半世紀前には安かろう悪かろうの象徴として、海の向こうで馬鹿にされる存在だった。そこから急激な成長を成し得たのは、まさに模倣の積み重ねであり、本物と見紛うばかりの偽物に手を出したことさえあった。それがいつ頃からか、独自の道を歩み始め、世界に誇る技術さえも手に入れてきた。現状を当然と見る人々には、この過程は信じ難いものだろうが、真似も極めれば、独自の道を見出せることを、如実に表しているのではないか。初めから、独自を歩むことを禁じることはできないが、人真似とて、卑しい行為のように扱うのはどうかと思う。世代間の繋がりが、他の生き物にはない繁栄へと繋がったことを考えれば、真似るという行為は、人間世界の常として見做すべきものと思える。基本的な手順を経ずして、人の成長があるようには思えないが、厳格さばかりを追い求め、大切なものさえ見失う風潮には、危うさを強く感じてしまう。

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1月9日(金)−信仰

 紛争が起こる度に、不思議に思う人が多いのではないか。その背景に、宗教の違いがあるとの説明に、それが何故、互いを忌み嫌うどころか、殺し合いにまで及ぶのか、理解不能に陥るのだ。当事者たちの感覚を、遠い地から理解しようとする動きも、状況把握さえ難しい状態では、力及ばずとなるのもやむを得ないようだ。
 紛争の原因を宗教の違いに求める考えが、間違っていると断言できる訳ではない。それよりも、理解を難しくしているのは、恐らく、信教の自由という考えを、小さな頃から植え付けられた、自分自身の経験にあるのではないか。自由であれば、他人の行動も、そうあるべきとする考えが、この国の人々にはあるのだと思う。だが、あの争いの原因となるものには、互いに排除を基本とする考えがあり、彼らの歴史の上では、弾圧が当然との考えが、厳然とある。それは、どちら側に与するかの区別なく、圧力を受け、不当な差別に苦しんだ時代がある一方で、圧力をかける側に回り、時に、虐殺などの極端な措置を下してきた歴史を持つ。信じるものの違いで、そこまでの行使に及ぶことに、理解が追いつく筈もなく、嘗て踏み絵や廃仏毀釈の時代を経験したことさえ、思い出せない人々には、異様な光景にしか映らないのだろう。一方で、民主主義や自由主義の下で暮らす人々にとっては、それぞれの差異も存在が前提となるだけに、極端な行動を容認することは不可能だろう。それに対し、弾圧を受けた経験が、いつの間にか圧力をかける側へと変わる考えに、個人を尊重する世界から、理解が示される筈もない。頼れる存在は、生きる為に必要なものかもしれないが、それを個々に抱くのではなく、唯一無二のものにすべきかは、全く別の考えに過ぎない。答えが見出せるとは思えぬ動きだが、それでも何らかの妥協点を見つけるしかない。その繰り返しが、歴史となってきたのだろうが。

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1月8日(木)−見通し

 高齢者の割合が増加する、と言われている。この意見自体には間違いがないのだろうが、その解釈には多くの誤りがあるようにも見える。割合とは、分母と分子があって、そこから計算されるものだから、その増加は、分子の数的増加を表すものとは限らない。割合を議論の的にする人々の多くは、それを承知の上で紹介しているようだ。
 割合を変化させるのは、分子を構成する高齢者の数だけではなく、全国民の数からなる分母の変動も関係する。人口減少に歯止めがかからない状況にある国では、それぞれの変化率が、実は大きな影響を及ぼす。高齢者一人当たりの就業者の割合という議論では、このような数値を引き合いに出すことは、何の間違いも生じないので、年金などの話題を論じることには、問題がないというべきだろう。しかし、高齢者の介護などに関する業界で、同じような割合の話を引き合いに出すと、大きな間違いを犯すことになりかねない。何人の高齢者の介護が必要となっているかは、この手の業種にとって、参入の機会を窺ったり、拡大への計画を練る場合に、重要な数値となる。ところが、その肝心な数値を割合という計算済みのものにすり替えると、話は大きく変わってくる。そのことに気づかず、まるで増加の一途を辿っているかのように扱い、拡大の道を歩み続けようとしているのは、先の見通しができていないことを表す。数字の扱いに不慣れな人々ほど、こういう違いに気付かぬもののようだが、それが単純に自身の収入に関係している時でさえ、大きな影響を受けざるを得ないことに、気付かねばいけないのではないか。それが経営に関するものとなると、更に多くの人に影響が及ぶ。それに気付かなかったということで、片付けられる問題ではないのだろう。介護事業に関して、様々な問題が取り上げられているが、この辺りの議論は出てくる気配さえない。必要だから、という主張は、一見妥当に思えるが、実際には、かなりの危険を含んでいるようだ。

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1月7日(水)−人気取り

 人気を気にする人々は、どの世界にもいるようだ。確かに、自分の世界に籠り続けられる人は少なく、外の世界との関わりが常に必要となる場合が殆どだ。だから、人気を保たないと、困難に見舞われるとの論理は、果たして正しいのだろうか。表面的なことばかりに心が奪われ、本質的な事柄を見失うのは、どうかと思う。
 分かり易さが強く求められるのも、人の関心を集めなければならないからだが、単純なことばかりに目が奪われ、正確に物事を伝えることが忘れられているように思える。簡略化が過ぎてしまい、単純な嘘が山積みになると、正しい情報伝達は望めなくなる。一見分かり易く思える内容も、実は不正確なものとなっては、本来の目的は達成できなくなる。単純な図式に思えるが、実は人気取りが優先された途端に、本来の目的が見失われることが多いことに、一番の問題があるのではないか。多くのものに対して、質の向上を追い求める動きが少なくなったのも、こんな事情が背景にあるのだろう。だが、この状況が長く続くと、安かろう悪かろうが当たり前の世界が出来上がる。製品に関しても、重要な問題と思える話だが、これが人間に関わる話となると、一段と深刻な問題になりそうに思える。例えば、学びの現場において、この状況が適用されたら、どんなことが起きるのだろう。既に、その状態は各所に見られるが、昔の話で言えば、バブル期の大学に見られた、遊園地化などもその例なのかもしれない。人を集める為の手段は、様々にあることは事実だが、大学の本来の目的とは何か、を問わずして、人気取りに腐心するのは、馬鹿げたことに違いない。では、何をどう求めればいいのか、本質とか本来とか、そんな言葉を気にかけつつ、議論を進めれば、答えは自ずと見つかるのではないか。関係者からは、事はそんなに簡単でない、との反論が寄せられるかもしれないが。

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1月6日(火)−組織論

 事件が起きる度に、組織の責任を問う声が聞こえてくる。組織ぐるみの行為であることも多くあるのだが、全てを横並びにして扱うことには、強い違和感を覚える。組織の為に、という思いを抱き、不正を働く人がいることは確かだろうが、個人の判断によるものが多く、全てを組織の責任とする動きには、全く別の思惑があるようだ。
 こういった傾向の背景には、個人を尊重せず、組織を優先とする考えが、社会の大勢を占めていた事情があるようだ。当時は、敢えて言及せずとも、自身より組織のことを先に考えていたようだが、最近の傾向は、すでに大きく変貌している。個人が自身の為を優先し、それが組織の利益に繋がるかは、あまり気に留められない。事情は大きく変わったのに、依然として、組織論ばかりが取り上げられるのは、旧態依然の考えに固執する人が、声を上げ続けられる状況があるからだろう。本来、年長者の見識は、多くの場面で尊重されるのだが、この点に関しては、的外れな考えにしがみつく人々に、なぜか、耳を傾けているようだ。年寄りは、時期を選んで、一線を退くことが常だったが、最近の傾向は、次代に繋げる気が失せ、最後まで関わろうとする傾向が強い。確かに、頼りない人々には、任せられないという主張に、間違いがあるわけではないが、一人の人間の寿命で、あらゆるものが左右されるのは、明らかな間違いである。代を継ぐことで、より長い存在となることが、人間が作り上げたものには必要であり、その理解を無くしてはどうにもならない。それに輪をかけるのが、組織の責任を殊更に取り上げる考え方で、偶々かもしれないが、今はそれらが重なっている時代なのではないか。ここを乗り越え、転換を図ることが、必須となるように思う。

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1月5日(月)−不通

 新年早々、ホームページを設置しているサーバーが落ちていたらしい。朝から晩まで、何度も点検を繰り返したが、結局回復することはなかった。以前と比べれば、かなり安定してきてはいるものの、やはり一人の管理では難しい部分があるのだろう。と言っても、それも想像でしかないのだが、無料であることの限界と言えるのかもしれない。
 価値を考えれば、ある程度の経費を費やす必要があるのだろう。これも何度も繰り返した話だから、今更何を書いても仕方ないのだろうが、こういう事が起きる度に書いてしまうものだ。リスク管理などという言葉が、紙面を賑わす時代だからこそ、こんな所でも無料だからと拘る必要はないのかもしれない。一方で、十分な経費を出したのだから、何があっても大丈夫かというと、そうでもないから事は複雑に見える。要するに、料金の有無に関わらず、信頼関係が築けていれば、そこに安心感が芽生える。たとえ有料だからといっても、管理が杜撰な状態であれば、結局は被害を受けるのは利用者なのだ。これほど、色々な関係が成立する時代もなかったのだろうが、一方で、対人関係を築けぬ人の数は増え続けているという。この不思議な図式は、歪んだ形のまま広がっていくのだろうか。それとも、仮想世界でしか通じない、特殊な人間関係が、これからの主流を占めていくのだろうか。暫くの間は、混沌状態が続くのだろうが、このままでは、心理的に不安定な状態が続き、様々な障害が生じる可能性も高い。落ち着く為に何が必要か、また考えねばならない一年が始まっている。

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