人の実力を見極めることは難しい。若者達が苦しむ、全国規模の試験も、始められてから既に30年以上経過したが、実力を測れていると、言われることは少ない。余りにも膨大な数である為、採点の手間を省こうと導入された仕組みは、正答を選ぶものとなり、力は測れないと断言する人も多い。では、何故止めないのか。
確かに、妥当なものを選び出す作業では、知識そのものよりも、判断力が測れるのかもしれない。だが、丸暗記を蔑む考え方からすれば、判断を試すものの方が、意味があるのではないだろうか。いずれにしても、30年も続けてくれば、様々な試みが行われ、問うべき事柄に関しても、試行錯誤が繰り返されてきた。実施翌日に新聞に掲載される問題を眺めていると、何かしらの工夫が感じられ、作題者の苦悩が見えてくる。既に話題となっているから、改めて取り上げることもないだろうが、国語や英語では、ここでも何度か取り上げたSNSに関する評論が、問題文として使われた。その真意を量ることはできないが、若者が耽っている対象に触れるのは、数年前の「鍔」に関する評論に比べると、遥かに歩み寄りがなされたと感じさせるものがある。だからと言って、実力が測れる筈もないが、何かしらの働きかけが受験者達に、あったのかもしれない。もう一つ興味深いことは、地理歴史と呼ばれる、いわゆる文系の科目に関する問題で、これもまた、以前触れたかもしれないが、地理が知識を問うより、判断を試す傾向を強めてから、随分と時間が経過している。分布図や季節の変動など、提示されたデータから、分析結果を推測させる問題には、単なる丸暗記を批判する姿勢さえ窺える。暗記科目と言われ続けた、日本史の問題にも、それに似たものが現れたことに、驚いた人もいるのではないか。では、肝心の理系科目はどうか。意外にも、知識を問うものが並ぶのかもしれない。
心に強い衝撃を受けると、その後に様々な障害が残ると言われる。精神的な病に対して、次々に名称を付ける安易な動きが高まり、これもまたアルファベットの略字で呼ばれるものの一つとなったが、今一つ実態は理解できない。悩みに沈む当人は、周囲からの様々な働きかけに、喜ぶことも苦しむこともあるようだが。
精神的な衝撃に対して、その記憶を呼び覚まさせないような配慮が求められる。大きな事件や大震災などの直後に、こんなことを報道が取り上げるのも、今ではごく当たり前のこととなった。だが、ほとぼりが冷めたからという訳でもあるまいが、ある時期を過ぎると、正反対の動きが強まることとなる。記憶に留めることの大切さを、訴える動きが強まり、あれから何ヶ月、あれから何年、忘れないように、といった言葉が文字や音声となり、洪水のように押し寄せる。そこには、直後に繰り返された、思い出させることが憚られるような考えは、微塵も存在しない。同じ媒体が、正反対の主張をすることに、違和感を覚える人は少ないのか。風潮を後押しとして、さも当然の如く、声高に訴える内容には、十分な配慮は感じられない。自由な選択ができない、という考えから、昔と比べたらはるかに高い要求がなされる、媒体の倫理基準に関して、性的表現が常に槍玉に挙げられるが、それ以外にも、名誉毀損と思われるものも、強い制限の対象となる。では、初めに取り上げた話題に関してはどうか。身勝手な都合のようにも思える、場当たり的な方針転換も、風潮さえ後押ししてくれれば、怖いものはないとばかりに、当然の扱いが続けられる。だが、心の傷という意味からすれば、多くの人が被害を受けるのも事実。勝手な論理は、自分達にしか通用しないものなのだ。逆に見れば、配慮などという言葉を、都合のいい時だけ使うことが、諸悪の根源とも言える。感情を込めず、単に、情報を正確に伝達するだけであれば、こんなことに気を遣う必要もない。
まだここで就職に関する相談室(読みたい人はこちら)が動いていた頃、話題の中心となったのは、資格の取得に関する問題だった。就職前に取っておくべきか、との疑問は、学生達にとっての大きな話題であり、自分達の考えでは、少しでも有利に働くように、という意識が強く動いていたようだ。但し、答えは、否というものだったのだが。
何故なのか、についても、先輩達は的確に答えていた。素直に従おうと思った人も居るだろうが、実は、多くの人が有利な立場という言葉に拘り、準備をしていたのではないか。その一方、就職後にいざ取得を、と思っても、日々の仕事に追われる立場では、勉強する暇が見つからない、という答えも聞こえてきた。業務上に必要となる資格を、取得する為に更なる努力を必要とすることに、疑問を抱かざるを得ないが、根底には、一夜漬けの習慣に馴れた人々の、物事への取り組み姿勢の問題があるようだ。傾向と対策を十分にこなし、本番に挑む姿勢には、一見何の問題も無いように思えるようだが、知識として当然身に付けておかねばならないことまで、その場限りの記憶では、心許ないのではないか。こんな風潮が蔓延する中では、資格に対する考え方も、著しく歪んだものとなっているように思える。その最たる例が、資格取得を援助する企業の広告文句にあり、取りやすいものはこれ、とか、短い期間で取れる、とか、そんな言葉が並ぶのを見ると、何の為の資格なのか、と思えてくる。これもまた、差別化という考えに基づくものであり、少しでも有利な立場に、と願う人々の関心を呼ぼうとしている。資格は、運転免許に代表されるように、必要だから取得するというものの筈だが、最近は全く違う考えがあるようだ。そう言えば、免許証も紙切れに過ぎないものとなる人が、沢山いるそうだ。
もっと、もっと、尽きることのない要求を叫ぶ子供達と、それに応えようとする物分かりのいい大人達、そんな遣り取りが日常となった時代に、多くの人は何を感じているのだろうか。不幸な人間が実は一番の力を持つ時代でもあるだけに、助けて「あげる」という不思議な図式は、何の問題もないものとして扱われるようだ。
だが、限りない欲望に、いつまで付き合うつもりなのか。大人達の大盤振る舞いも、そろそろ限界を決めたほうがいいのではないか。不幸という言葉が当てはまるかどうかは、確かなものではないが、最近の傾向として、権利主張は手に入れていない人の権利、という不思議な考え方が蔓延し、努力との結びつきは薄まるばかりだ。その上、非常識が罷り通る風潮となれば、要求を掲げる若者には、怖いものなど何もない。要求の前に必要となる筈の条件も、緩和され続けた結果は、殆ど何も問われることが無くなり、無条件で訴えても、何かしら与えて貰える状態になっている。こうなれば、時間もかけず、努力も無しに、窮状を訴えさえすれば、解決に導いてくれるわけだから、達成する為の過程は、ほぼ何も無いことになる。今週末に実施される全国規模の試験は、過渡期にあたることから、多くの選択肢が設けられるが、それが混乱を招くとの訴えがあるとされる。この程度のことで、混乱する子供達が、少し成長しただけで社会で役立つのか、怪しいものだとの意見からすれば、これも一種の振り落としと見ても良さそうだ。そこに温かい言葉をかける人々には、子供に受け入れられようとする馬鹿げた考えしかないのではないか。嘗て、「灰色の」と呼ばれた時期も、実際にはそれぞれに楽しみを持っていただけで、大人達の勝手な解釈に過ぎなかった。今は、この乖離が更に著しくなり、楽をしたい若者ばかりの社会となった。こんな時代だからこそ、理解は無用であり、厳しい言葉をかける大人こそが、大切な存在になるのではないか。
一生懸命とか努力とか、そんな言葉が気軽に使われている。それと同時に、精一杯とかギリギリとか、そんな返答も出てくる。こんな言葉に対して、多くの人々は違和感を抱かないのだろうか。どの表現も、どちらかと言えば、自己評価であり、客観的でも相対的でもないもので、厳しい見方をすれば身勝手な判断に過ぎない。
当人たちにこの意見をぶつけたら、おそらく猛反発が起きるのだろうが、彼らは本当に限界に達するまで努力を積んでいるだろうか。足らないと言われれば、心外と返すのだろうが、一番の問題は、何の為に頑張るかにあるのではないか。目標を設定し、それに到達する為の努力であれば、達成できなければ何の意味も無い。これほど単純な図式はないと思うが、始めに取り上げた発言を繰り返す人々は、その前提を置いていないのではないか。例えば、意欲的に取り組むという指標も、ただ単に熱心でありさえすれば十分であり、到達目標に及ばずとも問題ない、としてしまっては、何の意味も持たないだろう。意欲は、自己評価の代表格であり、気持ちの表れとして、重要なものと扱われるが、最近のように、表面的な印象だけに目を向ける風潮の下では、無意味なものと見做さねばならなくなる。人を教え育む現場では、努力を評価の最優先項目と見る向きがあるが、こんな環境で育った人々に、突然、全く違う評価基準を提示したとしても、理解に至らないのかもしれない。だが、社会で要求されるものは、どれだけの時間を費やしたかではなく、何処まで到達したかとか、何を手に入れたかなのである。何時までも、意欲を示すことばかりに夢中になり、何をしたかを顧みないのでは、仕事にしろ、勉強にしろ、何の成果も上がらないことになる。自己満足に陥らせる風潮は、若者達には都合の良いものかもしれないが、現場で役に立たない人材となれば、捨てられる運命になる。それで良いと言うのなら、そのまま進めば良いだけだ。
根拠なく、自信ありげな態度を示す。最近の若者の様子だが、昔の若者が虚勢をはっていたのと違い、不安な様子は伺えず、心から自分を信じているように見えるらしい。それがあまりにも常識外れである為、大人たちは精々苦笑を漏らすくらいで、叱責することもないようだ。だが、それがこの状態を放置することになる。
この傾向はかなり興味深い様相を示す。特に、過剰とも思える自信と本人が持つ実力の間には、反比例のような関係があり、力のない者ほど、怖いものがないように振る舞う。こんな状況が生まれたのは、褒めて育てるという話が巷に溢れ始めた頃からであり、悪い点を指摘せず、良い点ばかりを取り上げることで、足らない点を補うという、肝心なことに興味を抱かぬ人が増えたからだろう。力がないくせに、自分の能力はもっとあるという考えは、自分の中だけで成立するものであり、外との関係では、相対的なものを含めて、評価されることは全く無い。にも拘らず、こんな考えに固執するのは、彼らの欠陥が指摘されることなく、それらに目を向けることのないままに成長してきたからであり、何も悪いことはない、とまで言い出す人がいる始末だ。褒めることより叱ること、という考えは、現場では当然と見做されているが、現実には、様々なハラスメントが乱れ飛ぶ中では、実行不可能となっている場合が多い。芽を摘むことは、必ずしも良い結果に繋がらないかもしれないが、客観的な評価を含め、自己中心的な見方しかできない人々には、ある程度の圧力はかけられるべきなのではないか。この過程を経て初めて、自分を冷静に見極めることができ、今何をすべきかも、少しは見えるようになるのだろう。今の風潮では、難しいことばかりが並ぶが、これらの点に手をつけないままでは、更に厳しい時代が訪れると見るべきだろう。
世間では、他人任せはいけないとの意見が飛び交っている。確かに、責任を自分で負う為には、他人に丸投げすべきではなく、自らの関与を保ち続ける必要があるだろう。だが、全てのことに関して、これをやろうとしても、手も頭も足りないこととなる。そこで悩みに沈み、自分の力不足を悔やんでも、何の解決にもならない。
一見妥当に思える意見なのだが、実行してみると意外な程の手間が掛かる。こんなことは、大人の意見に従った時に、何度も経験させられることだから、その中で、自分なりの指標を設け、その軸に従って判断を下すようになる。これが成長の一種と言えるのかもしれない。ただ、誰もが経験するものとの見解には、抵抗を覚える人は少なくない。何しろ、身勝手な大人達は、他人任せを禁じる一方で、自分達はそれを平気で行っている。その矛盾に気付かされると、反発が強まるか、無視するかの動きが起きる。一部の大人は、そんなことを織り込み済みと見做し、反発も無視も、大したことではないと片付ける。だが、若者達にはそんな余裕は無い。これからのし上がらなければならず、自分なりの答えを、度毎に出す必要があるからだ。振り回された挙句に、放置されることに、心穏やかに居られる筈もない。興味深いのは、他人任せにも色々とあり、丸投げと揶揄される責任の転嫁から、自らの判断より優れたものとしての選択まで、その状況は様々だ。それを一括りにして、批判することには、大きな問題がありそうだ。優劣が先に立つ場合、冷静な判断が下され、より良いものを求める動きとなるが、ただの丸投げには、判断の痕跡が見られない。できるかできないか、どちらが良い結果を産むか、それらの判断をした上での、他人任せには、それなりの意味が込められるのだ。ただ、それを安易に持ち込むことに、大人達は警告を出す。だが、自分達と子供達の違いを示さずに、出される意見には、理解の及ばぬものがあるようだ。