暮らし難い世の中となった。経済的には、満足できる状況にあるが、精神的には、どうだろうか。金銭的に豊かなことが、必ずしも心の豊かさに繋がらない。貧しいとさえ思えるほどの状況に、人々は戸惑いを覚えるが、そこから抜け出す方法が見つからない。簡単なことができないのは何故か、社会が抱える病は何か。
従順を装う人々の存在は、本人だけの問題には終わらない。その悪影響は周囲に及び、崩れかけた人間関係には、心の貧しさを痛感させられる。本来楽しみを覚える筈の周囲との関係が、小さな何かをきっかけとし、棘や針の形で襲われることになる。他人の為と思う言動が、あらぬ誤解を招くことで、互いの信頼関係が傷つく。特に、最近の話題を眺めていると、高圧的な人間の存在が、諸悪の根源かのように扱われる。伝えられる内容のみを聞けば、その通りとの同意が浮かぶが、その背景が加えられると、全く違う見解に辿り着く。素直に従う人々に、打開を求めることは、時に人格否定に繋がるような動きとなる。今のままでは駄目との意見は、現状を否定することに違いなく、それを信じて生きてきた人間にとって、過去も含めて全否定されたものと受け取られる。だが、周囲から見れば、その状況が原因の全てであり、それを変えることこそが、唯一の手立てと見極められる。だからこそ、強い言葉で迫る必要も出てくるが、素直な人にとっては、辛いものとなるようだ。確かに、多くの場合で表現の足りなさが、問題となっていたのだろうが、それにしても、互いの関係について、もっと違うものが考えられないのか。ある種の貧しさを感じるのは、こんな遣り取りを垣間見た時だ。気遣いや配慮が、災いを招いたとされては、人と人の間に築かれるはずの関係は、成立しない。
従順とか素直とか、そんな性質を持つ人間が、使い易い存在として認識されている。だが、彼らは、本当に役立つ存在なのだろうか。目の前では、指示に従い、やるべきことに手を付け始める。それこそ、多くの人々が、従順とか素直と呼ぶものだが、心理の奥底ではどうか。そこまで見抜くことは、殆ど不可能だ。
本当に、指示通りに仕事を進めていたら、毎日のように流される、異物混入や手違いといった事故は、起きる筈は無い。徹底した指示書の存在を誇り、どんな初心者も顧客対応ができると豪語していた、ファストフードチェーンも、最近の不祥事続きからは、その信念が揺らいでいるのではないか。人間は、本来素直であり、真面目なものとの前提が、脆くも崩れ始めているように見え、その環境下では、あらゆる手立てが無効となりかねないことを、社会は痛感している。これが、一部の例外として扱われているうちは、対岸の火事を眺める気でいられたが、ここまで頻繁に起きるとなると、他人事では片付けられない。表面的には、素直に指示に従う素振りを見せていても、指示を正確に聴き取る能力がなく、言葉を理解できないのでは、確かなことは全く伝わらない。勝手な解釈が横行するのも、こんな人々が相手では、致し方なしと言わざるを得ない。これ自体も大きな問題であるが、更に大きなものとして、現在目の前に聳えているのは、素直という仮面を被った、性悪な人々の存在だろう。自分中心の考えに縛られる子供達の中には、利害を基準として、素直に振る舞うことを常とする者がいる。周囲の大人からは、高い評価が得られるが、実際には、人間失格という烙印を押すべき存在であり、早晩、馬脚を現すこととなる。彼らの心の問題であることは事実だが、それを増長させているのは、素直さのみに目を奪われる大人の存在だろう。道徳観が育まれる中で、善悪の区別より、利害を優先させる考えが強まるような環境は、碌でもない人間を育て、人非人を産むだけだ。
積極的な人材の、反対の存在とは何か。消極的な動きの代表格は、所謂指示待ちの態勢だろう。一時期、教育現場でさえ、この問題に取り組もうとする姿勢が見られたが、最近は、取り上げられることが少なくなった。では、そんな人々が根絶されたのか、と言えば、そんなことはなく、そこらじゅうに溢れているのだ。
社会問題とさえ言われたものが、何故このような扱いとなったのかは、よく分かっていないようだ。何故、という問いに答えることは、容易くはないけれども、一時の喧騒を思い浮かべると、あれ程の騒ぎが収束したことに、何らかの理由がありそうに思える。にも拘らず、皆がそれに触れないのには、別の理由があるのではないか。指示を待ち続ける人々の心理は、他人の指示を守る姿勢があり、大人しく、従順な心の持ち主と言われることが多い。これは、組織運営においては、重要な要素であり、一部の長を除けば、尖る人より、他と同じで良いとする人の方が、好まれる傾向にある。閉塞感が満ちていた時代に、打ち破るのに必要となる人材が求められたが、その登用は、組織の混乱を招いた。その反省は徐々に広がり、遂には、無難さを求める声の方が大きくなったのだろう。社会で必要とされなければ、求める必要もなくなり、現場でも教室の混乱を招く子供達は、徐々に排除されるようになったのではないか。結局、無難な所に落ち着いた、というだけであり、無理を通そうとした時代に比べ、遥かに安全な環境が築けている。だが、素直な人間だけでは、社会は成立せず、また不安定な時代に戻り始めていることを眺めると、極端な扱いは無理としても、尖る人間を排除しない姿勢も、必要と思えてくる。丁度良い所で、ということの難しさは、よく認識されているだけに、安易に始めると、また失敗の道を歩むことになるだろうが、現状では、早晩破綻を来すように見える。
人材発掘において、積極性の評価が高いと言われる。何事も、受け身の姿勢で挑むのではなく、攻めの姿勢を見せることが、成果を産む鍵と見るのだろう。もう何度も触れてきたが、傾向と対策が最善の策と見做されるようになって以来、敷かれたレールの上を、如何に滑らかに走るかが、肝心となっているのだが。
安定した平和な時代には、進むべき道は明確に示されており、その流れに乗ることが、何よりも優先される。この傾向は、たとえ、経済破綻が起き、世の中が混乱を来しても、大災害に襲われ、不安が社会を満たしても、なお、基礎となるものとして、尊重されてきた。だが、その道が、ある地点でぷっつりと途切れていたら、どうだろう。まだその認識は広がっていないが、徐々に、一部の識者の中で広がりつつあるようだ。予定通りの道筋を、想定通りの対応を続けることで、突き進むうちに、道が途切れるか、岐路が現れるかして、選択を迫られる。その段階で、消極的な選択は役立たず、それまでに培ってきた知識を基に、積極的な選択をする以外に、打開の道はあり得ない。次代を担う人材を発掘する段階で、想定に沿う道を確実に歩み続ける人も、成長を続ける為に必要となるのは当然だが、一部に、危機打開を図るための人材を配しておくことも必要だろう。順調な成長が約束されていた時代には、そんな人々は邪魔や障害となることが多かったが、現実に、窮地に追い込まれてみると、想定に縛られず、独自の見解を導ける能力は、脱出のきっかけを与えてくれるものとなる。ただ、極端に流れる風潮は、いつも通りに逆方向に振れ過ぎ、そんな人材に溢れる組織を作ろうとするだろうが、その末路は悲惨なものとなるだろう。多様性さえ満たしておけば、という考えも、どう様々とするのかがはっきりせねば、結局無駄な手間となるだけだろう。さて、自分はどっちの人材か。
情報伝達の仕組みは、この四半世紀に大きく変貌し、多くの人々が、歓迎の声を上げていると言われる。以前の状況では、対面での伝達は対象が限られており、紙面での伝達は時間がかかっていたのに対し、電波に乗せられたものは不特定多数に即時に伝わるとは言え、一部の認可を受けた組織に限られていた。
それがどのような変化を受けたのか。一番の違いは、情報の送り手が、不特定多数となったことだろう。これにより、情報の種類が変わっただけでなく、その質も大きく変化した。今や、その状況が当たり前、と思う人々が若い世代を占めることとなり、皆と同じにしたい年代にとって、遅れをとらないようにすることは、仲間外れにならぬ為の、重要な手立てとなる。仕組みを使うからといって、それが抱える問題が理解できる筈もない。テレビが画像を映す仕組みを知らずとも、その番組を楽しむことができるように、楽しむという観点からすれば、誰もが参加できる媒体が、社会に溢れているのだ。その危険性は何度も取り沙汰されているが、大人に騙される子供や、知らずに詐欺に加担する若者達は、皆がやっているという気持ちだけで、危険も悪事も、意識に上ることはない。昔ならば、悪事に加わるにしても、大人のふりをするにしても、そこには意思が存在した。ただ便利だというだけで、それが招く危険に気付かぬ状況は、殆ど起こり得なかった。だが、現状は、全く違うものとなっている。倫理や道徳が蔑ろにされるのも、精神的成長が間に合わぬ環境があるからで、子育てにおいて、親が強く意識しない限り、この状況を変えることはできないだろう。もう、危険を察知できない世代が子育てを始めているのだから、手遅れなのかもしれないが。こんな時代、社会になっては、政を行うのも容易ではない。世界情勢も、家庭同様、戸惑いばかりが満ち、行き先を見出せないようだ。
留学の勧めが強まっている。現状は、減少の一途を辿っているだけに、梃入れが必要との考えからだろう。だが、何の目的も持たずに、ただ出かけていけば良いのだろうか。外遊という字が当てはまる位だから、遊びに行くことに違いない、と思っている人も居るが、遊という文字には、家を離れ旅することの意味が込められている。
出かけるにあたって、大切なことの一つは、その時期なのではないか。遊びしか浮かばない人でも、少し年を経れば、別のことが思い浮かぶようになる。小学校での英語と同じように、今の教育界には、何でも早いのが一番とか、後々必要となるなら今すぐにとか、気の焦りが目立つようだ。準備不足で、十分な効果が得られないばかりか、肝心なものを押し退けることで、全体の均衡まで崩れると、悪影響だけが残ることとなりかねない。それでも、外の世界から見れば、自分が育った環境も、随分と違ったものに映るのではないか。特に、高等教育の現場に入り、他の国々から来た人々と接すると、自分達の恵まれた環境に気付かされることがある。この国では、母語で大学での教育を受けることが可能だが、多くの国は、その状況にはない。単なる拘りの産物と見る向きもあろうが、科学技術立国などと呼べる状況にあることに、こんな背景が作用しているとしたらどうだろう。先日読んだ本での著者の主張は、まさにそこにあり、特殊な環境が、さらに影響を強める可能性が示唆されていた。こんな本が出版されるのは、現状が正反対の方に向かおうとしているからであり、政策の愚かさに危惧するものと見ることもできる。本質を見抜くことなく、表面的なものばかりを追い続ける人々が、国の中枢を成す状況は、如何に危ういものか、諌める必要があるのだろう。
十大ニュースの話題を年末に取り上げた。毎年恒例の行事だけに、多くの媒体がそれに触れる訳だが、その理由の一つに、順位付けが好まれる風潮があるのだろう。だが、それが毎日のこととなると、果たしてどうなのだろうか。最近は、どの媒体も自信を喪失し、自らの立ち位置を見失っていると言われる。
そんな傾向を如実に表すのは、毎日の報道番組の中で、インターネット上の順位を基にした話題が取り上げられる所にある。何が重要かは、世相が表すという考えがあるのかもしれないが、本来は、世相を誘導するのが、彼らの役割ではなかったのか。このことから、既に、持つべき自信が失われてしまったことに、気付かされる。更に深刻だと思えるのは、順位づけの元となるのが、かなり偏った媒体にあるという点で、常識とか良識の存在が、疑われている世界に、依存しているような雰囲気があることだろう。気まぐれで思いつきばかりが溢れる世界に、どれ程の信頼性があるのか、編集にあたる人々は考えたのだろうか。自分達にない視線を、という要求を掲げたとしたら、それを毎日取り上げることの意味は、如何程のものだろう。異質の視線に触れることで、自らの方針を見直そうとする動きなら、偶に取り上げるだけで済むことだろう。それを毎日のように利用するのは、その見方を尊重していることを表し、彼らが主体性を持ちつつ、情報伝達に当たっているのではない、と意味するのではないか。上から下への流れの途中に、立っているだけという役割では、もう、その存在意義は失われたことになる。自信喪失だけでなく、存在意義をも失うこととなっては、特別な役割を担わせる必要はない。認可や免許などという言葉も、そんな存在には無用のものであり、返してしまった方が良いと思う。そこまで言わないと、自分の行動の異常さに気付けないのか。