怒りや喜び、人々のそんな姿を見て、つくづく思うのは、ヒトとは感情の生き物なのだ、ということだ。喜怒哀楽を露わにする人がいる一方、感情を強く抑制して表に現さぬようにする人がいる。しかし、大多数の人間は、前者に属するのではないか。ただ、だからと言って、何もかも感情に基づいて判断するのはどうだろう。
大災害や大事故の生存者に対して、直後は彼らの冷静な判断に称賛の声が集まる。だが、少し時間が経つと、別の方に目を向ける人が現れ始める。それは可哀想という感情に代表される態度であり、それに基づく行動について、新たな称賛が集まる。これも多くは、冷静沈着な判断によるものであり、同じ範疇に入れられると思う人もいるだろう。だが、時に、より一層の危険に曝されることとなり、人知れず終わってしまった話もあるのではないか。冷静な判断には、冷酷とも思えるものがあり、感情を優先させる中では、下し難いものもある。しかし、生きることを優先させねばならない時に、感情は波立てるだけとなり、邪魔な存在となることもある。生死の境を彷徨う中で、優先順位を定めること自体が、冷たい存在を表すが、人は時にその選択を迫られる。人を裁く場面でも、屡々、情状酌量なる言葉が発せられるが、赦す行為を表すものとしても、感情が入り込む余地を感じさせる。人を救い出そうとする話の中で、様々な憶測が飛び交う場面では、当事者のそれまでの行動を総括する意見が出されたが、冷静な判断が必要な一方で、感情に訴えかける話が語られていた。でも、と思うのは、もし、人の命が大切なのだとしたら、その人が善人か悪人かによって、区別すべきではないのではないか。情に流されることがいけないとは言えないが、でも、と思うのだ。
汚れを知らないとか、純粋無垢とか、そんな表現が当てはまる一方、残酷な一面を見せる子供達に、戸惑う大人もいるだろう。社会の規則を理解させたり、人のあるべき姿を示すことで、徐々に、人間としての格を身に付けさせようとするのは、真っ白な画布に人の姿を描こうとする行為に似ているのかもしれない。
けれど、子供達は本当に、大人が思うように真っ白で、何も知らない存在なのだろうか。大人達が皆、自分の子供時代を思い出し、その頃の思いを記憶の底から引き出せば、当時の自らの姿が、今、子供の姿として浮かべているものとは、かなり違ったものに見えるのではないか。大人がどう考えようとも、子供は子供なりに価値判断をし、友達との関係も損得勘定も含めて、様々な考えを巡らせていた。確かに、経験の量も質も、大人と比べれば大したことはないものの、自分が持つ基準を当てはめ、その中で判断することに、間違いはなかったのではないか。多い少ないの差があったとしても、考えを巡らす順序には、今の自分との違いは殆ど無かったのではないだろうか。周囲に流される言動も、大人が悩むものとの違いはなく、少々の自分勝手はあるものの、良い事も悪い事も、他人と一緒となれば安心できた。そんなことを思いつつ、子供の問題を眺めていると、実は、彼ら自身よりも、周囲の大人達が問題を抱えていることに気付かされる。悪の道を歩み始める若者がいる一方、同じ環境に育ったとしても、そんなものと無縁な若者たちがいる。後天的な要因を、強く訴える人々からすれば、説明不能な状況だが、実は、これが当然なのではないか。先天的な要因を、上回るほどの影響を、周囲の大人が及ぼせると信じる向きには、なんとも受け入れ難い話だが、これが現実なのだろう。それでも、中には、影響されやすい子供がいるから、大人が注意すべきであることは確かだが。
この国の繁栄は、教育水準の高さによって支えられている、という意見がある。過去を見返すと、歴史の流れはそれを示しているように見え、現状を眺めても、肯定的な材料が目立つ。長い時代の流れの中では、一部の人々のみを対象とする体制から、皆が受けられる体制への変遷があり、それこそが今の水準へと繋がっている。
ただ、暗い歴史についても、教育の関わりの強さを指摘する声があり、国を挙げての暴走への加担を、警戒する意見もある。教育の力を信じる人々にとっては、自らの勢力を拡大するためにも、水準を保ち続けるだけでなく、その力を誇示する必要がある。だが、誰もがある水準へと到達できるとする考えは、既に否定されているのではないか。にも拘らず、依然としてこの考えにしがみつき、教育を施すことの重要性を、主張する人の数は減らない。水準を保つための手立てとは、単に環境整備に過ぎず、その中で育った人々が、それぞれの能力を伸ばすだけなのではないか。恰も、誰もが本来の能力を超えることができる、との考えは、安定した時代に、厳しく否定されているように思う。もし、その力が発揮されることがあるとしたら、それは、圧力をかけて、素直に従う人々を育てる場合であり、それが教育の役目と信じる人がいたら、かなり危険な存在となる。学級運営が円滑に進むこととして、こんな状態を歓迎する向きがあるかもしれないが、これは洗脳の一種に過ぎず、教育とは異質のものと扱われる。現状は、そんな力を信じる人は少なく、環境を保つことだけに力を注いでいるようだが、徐々に荒れつつあることに気づいていないようだ。成果を要求され、数字を追求した結果、人を育てる感覚は失われ、各人に適した関わり方を模索する動きもない。こんな状態でも、様々な能力を持つ子どもが育つのを見ると、逆に、教育の力の無さを意識させられる。
情報発信について、この所頻繁に取り上げている。興味を集める対象であることは事実だが、社会の興味が向かう先とは、少し違った部分に目を向けている。発信者にとって、どれだけの人から興味を向けられるかが、重要な因子となるようで、それが自分の力を表す指標と見る向きも多い。だが、本当にそうなのだろうか。
このような考え方は、特に、ツイッターと呼ばれる媒体で目立っている。その理由は簡単で、個々のページを眺めれば分かるように、それに興味を抱く人の数が明示されている。さらに、特定の呟きに対しては、それを取り上げるリツイートと呼ばれる操作が、何度行われたかが、支持者の数を表す指標と見做される。一見妥当な処理と表示のように思えるが、仲間や賛同者としての意識だけでなく、単なる見世物としての興味が優先される場合も多く、支持というより馬鹿にする行為としてのものとなる場合も多い。それでも、自己満足に陥る人々の心理では、指示のみからなる束と見做され、自分の力を誇示するための数値へと変貌する。根拠なく、自信を振り回す若者の存在が、問題視されているが、それと似た心理が働いているのかもしれない。それにしても、道徳に反する行為さえ平気で見せびらかす人々が、実名やすぐに素性がばれる情報を、同時に流していることには、頭の悪さだけでなく、知恵のなさが表れているのではないか。それによって、社会的信用を失ったとしても、この程度の考えしか持たない人々は、社会を逆恨みし、不道徳な行為を更に増すだけとなる。役立たない道具を与えることの責任を、誰が負うべきなのか、社会それぞれに考えるべき課題なのだろう。
個人主義とは、自分のことだけを考えること、と思っている人は少ないのかもしれない。だが、社会に溢れ流される情報では、そんなことを想像したくなる程の話が紹介される。異常とも思える行動に、当事者がその感覚を抱かないとしたら、そこには深刻な問題が潜むのではないか。だが、現実にはそんな声は聞こえてこない。
そうなってしまう原因は何か、そんな議論を展開しようとする動きは、明らかに鈍い。異常と片付けることは簡単であり、解決に繋がるものと信じる人が多いからだ。だが、そんな異常を日常的に眺め、何の疑問も抱かずに育った人々は、どんな大人になるのかを考えると、断言するだけでは足りないことがあるように思う。謝ることが苦手な若者が増えていると言われ始めてから、もう随分と長い時間が過ぎた。どんな変遷を辿ったかは、簡単には総括できないが、現状は、理解不能としか表現できない、謝罪の手法が目立っている。お互い様、という感覚は、日々の生活の多くの部分で、抱かれる筈のものだが、今の時代は、そんな感覚が通用しないようだ。店と客の関係からして、圧倒的な力の違いを見せつける人がいるが、立場を入れ替えたらどうなるか、考えるだけの想像力は備わっていない。自分が嫌と思うことは、他人も嫌だと思う、という考え方も、この手の人にとっては、理解不能なものなのだろう。だからこそ、大した理由もなく、土下座を要求する若者が、自慢げに自らの行状をネット上に晒す。道徳とは少し違った感覚なのだが、相手のことを気遣う気持ちがあれば、全く違う行動をするだろう。素直に力関係を理解し、それを表に出しただけならば、その誤りを正さねばならない。実は、こういう過ちを叱る大人が、周りに居ないことが、問題の深刻さを表している。
企業活動において、利潤追求は最優先の課題だろう。だが、その一方で、最近屡々話題となるのは、complianceと呼ばれる事項である。法令遵守を強調しなければならないのは、当然守られるべき規則が、何か別の優先事項により、蔑ろにされる状況を表している。不正を働いてでも利益を追い求める、という態度を咎めるものだ。
当然を当然と見做さない風潮は、度々触れられる倫理や道徳の問題と深く関わるものだろう。規則を前面に押し出し、その遵守を強調しなければならないのは、社会秩序が乱れている証左だが、大人の社会がこの為体では、子供への悪影響も致し方なし、と見るべきなのだろうか。子供の世界も、大人との関わりにおいて、利益追求が重要な場面も多い。利害を基準として、多くの事柄を扱うことは、一見妥当なものと思えるが、実際には、社会の規則を無視し、個人の権利を優先させるような動きに繋がる。子供の為にとは、大人達、特に親達にとっては重要な拠り所となるが、その場限りの基準を当てはめるのは、彼らの将来を考えると、誤りであることが多くなるのではないか。それが通用する時代だからこそ、更に厳しい目を向ける動きが必要であり、風潮に流されるような傾向は、秩序を乱す原因となり、荒廃へと繋がりかねない、危険思想の一種に思える。不幸を主張する人々に、手を差し伸べる考えも、時に方向を誤ることになる。個人主義の台頭が、社会の構造を壊すことに繋がるとは、流石に考え過ぎなのかもしれないが、気付いた時には遅すぎた、となる可能性は十分にある。利益を上げることは、様々な面で重要なことだが、個人の利害は、必ずしも同じ尺度で測れるものではない。基準の置き方を誤ると、とんでも無いことが起きかねないのだ。
賢く生きる、と聞いて、悪い印象を持つ人は少ない。だが、その実態は、全く違うものが並んでいる。英語でも、様々な表現があるように、この国の言葉にも、色々な意味が込められる。よく考え、何が正しいかを判断して、生きることを指すことも多いが、正反対に、悪賢く生きることを、指す場合も多いようだ。
バブル全盛期に、この言葉が使われた場合は、違法行為ぎりぎりか、あるいは明らかな不正でも、ばれなければいいといった意味が込められていた。倫理観や道徳心が、薄っぺらなものとして扱われ、正しいかどうかより、利益が上がるかどうかが優先されていた。それが特に正当化されていたのが、拝金主義が蔓延っていた時代の特徴だった。それが弾け飛んだ後、金銭的な評価は、打ち捨てられるどころか、さらに重視されるようになったのではないか。何もせずとも、成長が約束されていた時代と違い、何かに縋らなければ、保証されない時代となると、金に頼る気持ちも高まるのだろう。その結果、倫理や道徳が軽視され、正しいことの基準が、揺らぐ時代が訪れた。その後に育った人々は、社会から正しいことを押し付けられることがなくなり、自由を謳歌できるようになると、身勝手な考えが世に蔓延ることとなった。社会的な圧力が弱まるにつれ、家庭の役割を強めなければならないのに、筋を通すことができない親たちは、子供の勝手を放置する方を選んだようだ。こんな時代に使われる賢さは、悪いものばかりが目立つようになり、真面目に生きることの馬鹿らしさを、強調する声が高まる。だが、その瞬間は切り抜けられても、早晩、ツケが回ってくることとなる。個人の借財は、個人の問題として片付けられるが、こんな形で、社会が借財を増やしていくと、そのうち、首が回らなくなるのではないか。最近の若者の動向には、そんな危うさがはっきりと見える。