郷に入れば郷に従えとは、土地ごとに異なる習慣に、余所者が自分のやり方を押し通さずに、従うことで穏便に暮らすことを表すが、様々な状態が入り混じった社会では、簡単に片付かない話も多い。信じる処が少なく、絶対的な存在も持たぬ人々と違い、生きる為に拠り所を持ち、絶体神を信じる人には、譲れないものがあるのか。
同じ根を有するとされる宗教において、相容れない部分があることに、馴染みのない文化からは、理解に苦しむことが多い。異教徒が入り混じる社会において、独自の規則を適用することは、信じる処が強い人々にとって、困難を招くこととなる。そんな姿が見え隠れし始めた頃から、力に頼む勢力が台頭するに従い、排斥という選択が口の端に上るようになった。信心を表す為の身形も、力の象徴と感じる人も居て、不快感の現れが制限へと繋がることとなる。信教の自由と共に、表現の自由が保障される社会では、あり得べきことではないが、一方で、件の宗教に基づく国々では、厳しい制限がかけられるという事情もある。そんな中で起きた混乱の一つに、この国が巻き込まれたことを、多くの人は忘れたらしい。客死した人を、慣習に従い火葬に付した時、その事件が始まったとされる。その人の信じる宗教では、火を用いることは、地獄に落とすことを意味するとされ、死人への侮辱の一つとして訴えられたと言われる。知らぬこととはいえ、こんなことも起きるという例として紹介されたが、同じ宗教を信じる人々の間で、同じことが起きたらどう考えるべきか。人質事件が悲惨な結末を迎えた後、彼の地の人が処刑された画像と言われるものが、ネット上に流された。火を使ったものに、こちらでは残虐性のみが取り沙汰されたが、もし、先に書いたことが関係するとしたら、どんな解釈があるだろう。以前から思い描いてきたものが、鮮明さを増したと考えたのは、自分だけかもしれないが、あの映像は、あの連中が宗教とは何の関係も無い単なるテロ集団であることを、表したのではないだろうか。
仲間が居ることは、そんなに重要なことなのだろうか。特に、出来の悪い人間に限って、それに拘るのは何故か。気にする必要もないし、その価値もない人間達が、大手を振って闊歩する世界、そんな下らないものが、世に溢れていることに、溜息を漏らす人もいる。傷を舐め合う人々に、期待できないことは、明白だから。
無知を自慢し合う世界とか、嘘が噴出する世界とか、様々に表現されるが、そこに巣食う人々にとっては、生暖かさに浸りきる場所のようだ。畜生の世界、と言ってはいけないのだろうが、自己満足や誹謗中傷ばかりが漂い、何の生産性も有しない場に、批判の声は絶えない。その場を提供する企業は、収益のみを追求するだけで、その世界に蠢く役立たず達には、何の関心も抱かない。数の論理が通用することは、収益性のみに着目しても明らかだが、本来の目的は、情報の伝達や交換にある。それが成立しない原因は、参加者の低水準にあるが、愚劣な人々を集める限り、問題が起きないとなれば、提供者は現状維持を目指すだろう。その繰り返しが、こんな事態を招いたことに、誰が責任を感じるのか。所詮、無理筋の議論となるが、無視し続けることは、実は社会の崩壊を招くのではないか。正しい使い方をする人が居るから、こんな場でも存在意義があるとする論法には、明らかな誤謬がある。社会の構成員としての役割は、ほんの一握りの人によるのではなく、大多数の愚民によることを思えば、こんな仕組みに未来は無いと言うべきだろう。それでも、そんな呟きに興じる人々にとっては、誰かに見られているという快感に、絶頂に達する気分が味わえることが、何よりも優先すべきことなのだろう。自ら慰める行為に対し、言葉をかけたとしても、何の意味も無い。
世の中が乱れているからこそ、強く訴える声が高まっているのではないか。倫理とか道徳とか、人が本来身に付けておくべきものが、教え諭さねばならない存在となっているのは、身に付いていない人が目立つからであり、社会がその構造を見失いつつあることを如実に表している。だが、形だけを整えても、何も起きないのではないか。
現場で教える立場にある人々に、その資格があるかどうかを問う声が聞こえる。教える資格は、確かに何らかの過程を経て、それぞれの人に与えられるが、現状では、教える技術ばかりが優先され、人間が本来身に付けておくべきものに、目が向いていないように思える。だからこそ、今更のように、それらを教える必要性が取りざたされているが、教わる側の問題より、教える側の抱える問題の方が、遥かに大きなものとなっているのだ。それを、付け焼き刃のような方針変更により、解決へと導こうとすることに、無理があることは明白だろう。にも拘らず、何とかせねばならない、との思いが、政策決定に携わる人々にあるが、自身を省みてはどうだろう。倫理や道徳、今では、各職業に独自のものがあるかのように扱われるが、政治家のそれらは、一体どんな状況にあるのか。必要だからと配られた資金を、目的外のものへと流す心理には、罪悪感は微塵もなく、当然の権利と見做す。利害追求を第一とすれば、これもありと見ることができるだろうが、それこそが、人間が本来持つべきものから、離れてしまった結果なのではないか。大人の社会が荒んでしまったから、せめて子供だけでも、という企てに、歓迎する声が少ない。家庭も学校も、環境と呼ばれるものが、荒れ果ててしまっていては、何ともし難い状況なのだ。
備えが足りない、準備不足、何度も聞かされた言い訳だが、それらを発する人々の心理は、どんなものなのだろう。根拠の無い自信に溢れる人にとって、真の実力は、と言い出したい気持ちはわからなくもないが、それにしても、自分が抱える問題を直視せず、同じ言葉を繰り返す人々に、周囲の期待は萎むだけだろう。
できる筈のことが、できないという結果に終わった時、人はどんな思いを抱くのだろう。悔しさとか悲しさとか、感情的な表現を並べる人がいるが、多くは、同じことを何度も繰り返す。悔しいという思いが、次へと繋がらない理由は、できない本人が一番分かっているのではないか。にも拘らず、いつまでも同じ所に留まることに、周囲は苛立ちを隠せない。膨らむばかりの期待に対し、何の手立ても講じない人間に、次の機会は与えられなくなる。そんな事態に陥ってもなお、相も変わらぬ状況が続けば、切り捨てざるを得ない。昔なら、過度とも思われる圧力がかかり、苦しみ抜いた末に、打開策に辿り着いたという話もあったが、今は、そんなことをすれば、周囲が加害者として訴えられる。だから、見守るしかないのが現状であり、打開の道筋を模索するのも、個人の問題となる。過ちに気づき、それを繰り返さぬように、様々に方策を講じるのも、助言を頼むわけにもいかず、独力で解決せねばならぬ問題だろう。備えあれば、と願う人々も、何を準備したらいいのかさえ見出せず、結局、そのままの状態を繰り返すしかない。教育の現場も含め、教え育むための環境が、これほどに荒廃した時代もなかった。人の権利を論ずる前に、必要な手順に考えを巡らすことが、大切なのではないだろうか。
巷では、コミュニケーションの巧拙を問題とする意見が溢れている。コミュ障などと短縮化される、コミュニケーション障害は、その極端な例とされるが、多くの人は、身近な事例にその称号を授けるようだ。気軽に扱う一方で、深刻に悩む人々が居る。なんとも不思議な状況で、改めて自身のことを考えてみるのだろうか。
意思疎通に不可欠なものと問われれば、殆どの人が、言葉と返すのではないか。目は口ほどに、とは言うものの、言葉に勝る表現手段は、無いと思う。話し言葉だけでなく、書き言葉は長期で広範囲に渡る伝達手段であり、ヒトという生き物が身に付けてきた、最強の道具と言えるのだろう。だからこそ、それを失う事態に陥ることは、人生最大の難関と言われる。同業者で、厄年の頃に、その病に襲われた人を知っているが、それから四半世紀ほどを経て、彼には、その気配は微塵も感じられない。直後の惨状については、本人の口から語られることもあり、信じ難い状況に思われるが、頭の中で起きていたことについては、不確かな情報しか得られない。それでも、そのままの職業人生を、暫し放棄した上で、回復の手段として、彼が採用したものは、著作に耽ることだった。功を奏したことは、結果を見れば理解できるが、何が効果的だったのかは、定かにはならない。本人の努力以外に、挙げられるものはないようだ。一方、先日読んだ本は、ドイツ人の夫が同じ病に侵された後の、家族を含めた苦悩の道筋を、ある意味冷たい目で見つめた記録を残したものだ。教壇に立てる、立ちたいと願う夫と、それに適わぬ実態を心配する妻との間での、葛藤が記されていたが、気になったのは、彼女が語る大学の対応だろう。病前との格差に、責任を感じるべきとする妻の意見に、大学は、学生への責任を違う形で表明する。この意見のすれ違いには、今の学校が抱える問題が、表出していたのではないか。つまり、教壇に立つだけの能力のない者が、教える立場に就く機会を得て、学生たちに意味不明なものを撒き散らしている、そんな実情に悩む現場では、失語症という重い病に侵された人物でも、本来の能力からすれば、ずっとましと映ったのかもしれない。妻がそこに置いた責任論は、実は、現場では触れてはならぬものだったのではないか。
あれから1年ほど経過した。大々的な発表は、結局、虚偽に基づいたものであり、一面トップを飾った内容も、関係者の捏造であったと片付けられた。神聖な世界でないことは、既に明らかとなっていたが、それでも、試料が盗まれたと告発する動きには、強い違和感を抱く業界人が多いだろう。一部には、それが病巣の深さを表すとの意見もある。
何れにしても、失われた信頼を取り戻すには、などと訴える人々を眺めるに、更なる違和感を催す。一部の人々が、功名心に駆られて、人の道に外れた行為をなしたことに対し、全体が責任を感じる必要はない。組織論を好む風潮は、個人主義の台頭と並行して、歪んだ形で強まっているが、このような対応にこそ、大きな問題が潜んでいる。科学への信頼は、かなり以前から失われつつあり、その恩恵に浴していることが明らかなのに、不信感を露わにする人がいることに、異常さを感じる。だが、そんな暴論が通用することにこそ、時代が抱える問題があり、他人を貶めることで、自らの地位を守ろうとする風潮が、強まっているのだろう。そこには、功成り名遂げることへの妬みに似た感覚もあり、歪みきった心の持ち主が、確たる地位を占めることによる、問題の大きさを感じさせる。発覚した途端に、全てを明らかにしようとする動きが起きるのも、こんな歪みの表れと思うが、声をあげる人々は、追及することの重要性のみに心を奪われる。たった一つの過ちで、信用が失墜した時、悔やんでも始まらないと言われる。個人にとって、適用することは明らかだが、これを集団にまで拡張することには、抵抗を覚える。だが、今の社会は、それを当然と見做すようだ。何も考えない、あるいは、考えられない人に限って、こんな思考に囚われることに、現代社会の問題がある。その上、自らの過ちを決して認めぬ人々に、批判する資格はない。
早寝早起きが健康にいいとは限らない。健康志向の人々は、何かいいことがあると、すぐに飛びつくようだが、これもその一つなのだろう。ただ、そんな生活をする人が、必ずしも長命でもないから、事は難しくなる。人それぞれに、自分のしたいように生きることと、何かに縛られることの、どちらがいいのか、難しい。
なんとなく、こんな生活に入ってしまった人間にとっては、健康をなどといった感覚は殆どない。ただ、眠くなったから寝るのであり、目が覚めたから起きるだけなのだ。早朝の出張に、気が気でなかった頃と比べ、少し余裕ができたのかもしれないが。それにしても、先日の早朝の報道には驚かされた。世界で起きる事件には、時差という要素が入り込むから、此方の時間に合わせて、などということは起きない。彼方の時間で動くのが当然で、それが夜討ち朝駆けとなったとしても、何の不思議もないことだろう。ただ、受ける側も伝える側も、心の準備が整っていなかったのは、確かだろう。大震災の時と同じように、あたふたと慌てる様が窺え、後々反省の対象となる事柄も、目立っていたようだ。怒りの矛先は、あの連中に向けられるだけでなく、第一報を伝える連中にも向けられた。事実をそのままに伝えることが、重要な役割の一つとはいえ、それが何に繋がるかに思いが及ばぬ言動には、劣化の一途を辿る業界の実情を、目の当たりにする気がしていた。画像に加えられた言葉は、彼らが伝えたいとするものであり、それを別の媒体で拡散させるのは、片棒を担ぐこととなる。何度も繰り返される翻訳文に、早朝から気分を悪くした人も多かったろう。もう一つの劣化の証は、批判の矛先にある。先月読んだ本では、権力と対峙するのが役割との自負が語られていたが、何が正しいのかの判断を抜きにして、ただの批判を繰り返すのは、愚の骨頂ではないか。無思慮な言動に終始する業界は、権力を監視する役目を、果たしていない。