皆がそうだとは言わないが、成果を発表する機会に、動機を述べる場面での発言で、何とも不思議な状況が生まれる。大多数を占めるのは、何故やりたかったかと言えば、興味を抱いたから、といった主旨のことを滔々と述べているのだ。これでは、やりたかったのはやりたかったからだ、と言っているに過ぎないのではないか。
ただ、この考え方がいけないという訳ではない。何かを始めようとした時、やりたいという意欲が先に立つのは当然であり、それに興味を抱くのも当たり前のことだからだ。何がいけないかと言えば、それは、いつまでも始めの考えに囚われているからで、その後に様々な試みをして、紆余曲折の末、成果を得たとしたら、始めに描いた道筋とは違う、曲がりくねった道を歩んできたのだから、それを含めた形で、動機や目的を考え直す必要があり得るからだ。その上で、当初と同じままであれば、そのままに説明すればいいが、積み重ねてきたもので、変わってしまったことがあれば、それを含めた説明が適切となるのではないか。この風潮が強まっているのは、時代背景として、動機を重視する見方が優先され、やる気を見出すことに皆の目が向いているからだろう。但し、始めることを重視する余り、その後の展開を自分なりに吟味する過程を、軽く見る傾向が強まってしまった。その結果、やりたいからやる、という当たり前の説明でも、そのままに受け入れることとなったのだ。考えが複雑となり、その整理が必要となれば、その時々に、考えを巡らす必要が出てくるが、その癖が付いていない気がする。一方で、この傾向を問題視する人の中に、動機の時点でよく考えてみることを勧める人がいるが、これはこれで、やり過ぎの感がある。考える習慣を身につけさせないままに、背伸びをさせることに、彼らは違和感を抱かないのかもしれないが、自分の経験を振り返れば、その道筋は自ずと明らかになるのではないか。どちらも極端に走る傾向にあり、拠り所となるのは、自分の経験しかないのだが、肝心の記憶があやふやでは、心許ないことである。
病名が分かったからといって、安心に繋がるとは限らない。症状から推測されただけの区分けであり、原因が不明なばかりか、治療法も定かではないものがあるからだ。死に至る病の場合、その時点で諦めるしかないのかもしれないが、少しでも症状を和らげようとする治療も、病人にとって救いとなることがある。
一方で、死とは直接結びつかないとはいえ、重篤な症状に悩まされる病気も多い。重い障害を抱えたまま、生活を続けることに、大きな悩みを抱く人が居る。外見から、はっきりとわかる障害であれば、周囲からの援助も受けやすいのだろうが、内面的なものだと、身勝手なものと映ることさえある。悩みを抱える人にとって、一番の苦しみであり、周囲の理解が得られないことで、障害そのものより大きな影響が出ることさえある。健康な人から見れば、病は気から、なのだからと言われるかもしれないが、当人にその気はない。だからこそ、障害であり、病気なのだということになる。世の中には、そういったものが沢山あるようだが、多くは知られていないようだ。一方で、病名だけが知られているものの、実態は不明確なものも沢山ある。こちらには、気そのものの病が多く、症状から一括りにされるが、多くの差異が混在し、一つの病とすべきか、さらには、本当に病気であるのかさえ、はっきりとしないものが多い。それでも、一部の関係者は、病と括られることで、納得に繋がると言われることがある。親にとって、先天か後天かが重要と見られることもあるが、これも理解に苦しむ所だろう。落ち着きのない子供、と呼ばれていたものが、ある病名を授けられた途端に、薬を与えられたり、排除の対象となることさえある。当人にとって、迷惑千万な場合も多く、周囲の勝手に呆れる例も多いようだ。これもまた、算術に長けた人々の影響と言えるのかもしれない。
原因不明の病気、と宣告されたら、誰もが落胆の色を隠せないだろう。だから、原因を明らかにする、という志を持って研究に打ち込む人がいる。原因さえ明らかになれば、治療法を見出すことも可能になる筈、という信念を抱き、精進を重ねるわけだ。ただ、事はそれほど単純でないことも、何となく分かっているのだろうが。
疲労感が抜けないとか、気怠さを感じるとか、病気かどうかさえも分からない、そんな症状に悩む人は多い。病は気から、という考えから、気の持ちようを指摘されるが、何をすれば解決するのか、見えないことの方が多いようだ。だから、という訳でもあるまいが、心の問題として、医者にかかったり、公的な相談所に通う人も居る。彼らにとっては、目に見えぬ相手に、悩みが深まるばかりだろうから、専門家から病名を知らされたり、可能性を指摘されるだけでも、救われた気になるのかもしれない。それに従い、服薬を続けるうちに、回復の兆しが見える場合もあるが、期待とは裏腹に、改善が全く見られないばかりか、副作用に苦しむ人がいる場合も多い。見立てが違っていた、と片付けていいものか、はっきりとはしないが、多くは誤診というべきものだろう。体の異変の中でも、心や精神の問題に関しては、次々と命名される病気の数が、他の分野と比べて遥かに多いようだ。僅かな違いを捉え、全く異なる治療法を施されることに、首を傾げることもあるが、専門家は、大真面目で取り組んでいるようだ。急性の病気への投薬の場合、一時的な体の均衡の崩れも、回復への糸口と見做されるが、慢性の症状を抱える人々の場合、長期的な投薬が、重篤な副作用に繋がることも多い。専門家がそこまで考えているのか、現状からは、怪しさしか見えてこないが、どんな展開が起きるのだろう。また、病名の百貨店のような状況も、意味の無いことが多く、収益を目指すものに見えるのも、信頼を失うことに繋がっている。
情けをかける、という行為に関して、誤解があるのではないかと思うことが屡々ある。同じように、優しさ、という感覚に関しても、勝手な解釈が横行しているのではないか。裁判でも、情状酌量なる言葉が度々用いられ、刑の軽減の主な理由として掲げられる。ただ、法律に照らした判断と、初めの二つは明らかに異なる。
背景は様々だとしても、集団や組織において、規則を設けることには、大きな理由がある。秩序を保つ為ということが、おそらく第一に取り上げられるだろうが、人が集まった時に、秩序保持が不可欠であることが、最近、理解されていないのではないかと思うことが多い。規則は破るものという猛者の存在は、昔ならばある程度見て見ぬ振りをしていたが、彼らが持つ矜持のようなものが、目こぼしの理由の一つとなっていた。だが、最近の違反者の多くは、全く違った意見を持つ。規則は、迷惑な存在であり、自分達の自由を奪うものだとするが、それによって、自らの権利が護られていることに気付く気配がない。様々に、言い訳を並べたて、如何に不幸な境遇にあるかを説こうとする。だが、勝手な論理であることは否めず、それを押し通せば、秩序は確実に乱される。にも拘らず、一部の訳知り顏の大人達が、ここで話題にしたい暴挙に出るわけだ。一生懸命なのだからとか、努力しているからとか、果ては可哀相だからなどと言い並べ、救いの手を差し伸べようとする。最低限の規則があり、全員がそれを守ることが約束される中で、簡単に例外を認める姿勢には、何の主張も感じられない。多くは、面倒は御免というだけのことであり、いい顔をしたいだけのことなのだ。そんな行動が、倫理や道徳を蔑ろにし、自らの立場をも苦しくすることに、愚かな大人は気付く筈もない。
従順であることを喜ぶ姿に、首を傾げることがある。反抗されて戸惑う親達が、第一に追い求めるのは、聞き分けのいい、従順な子供の姿なのだろう。だが、自分の言うことを聞いたからといって、それは必ずしも良い子とは限らないのではないか。親が間違う時もあり、それを正す反応が、子から出ることもある。
何が正しいかを見極めず、ただ盲目的に従う行動を、最優先にすることは、子育てにおいて、一部の親達が拘る部分だろう。その一方で、善悪や正誤の区別を明確にし、その判断を最優先にさせようとする子育てもある。結果として現れることに、本来は大きな違いは無い筈だが、親にとっての気分は、随分と違うものらしい。人は自分の過ちを指摘され、厳しく追及されることに、心穏やかには居難いものだろう。況してや、それが明らかな目下、身内の子供からのものだと、激しい反応に結びついてしまうこともある。それが嫌だから、従順な子供が欲しいと願うのは、どこか大切な部分を取り違えているように思える。善悪や正誤に関して、十分な説明ができるのであれば、たとえ、子供からの追及とはいえ、対応できるものだろう。それが答えに窮するのは、明らかな間違いを指摘されたからで、それを受け入れずに、反応を返そうとすれば、声も大きくなり、激しい言葉遣いとなる。圧力によって従わせれば、できないことはないのだが、それが何に繋がるかを考えるべきだろう。説明を省くことで、面倒を放り出せば、確かに楽な部分もある。だが、その跳ね返りが、子供の将来に起きるとしたら、どうだろうか。人の道を説くことは、簡単なことではない。時に、自分のことを棚上げにしつつ、正しいことを示さねばならないが、目の前の子供は、そういう所に特に厳しい。だから、声を荒げてでも、従わせたくなるのかもしれないが、ろくな結果に繋がらない。倫理や道徳を、教え諭すものと見做すことに、反対はしないが、その任に当たる人々が、適材と言えるのか、もっと厳密に確かめるべきだろう。説明なしに、極端な例を示す行動には、責任意識の欠如しか感じられない。
巨大なゴミとまで揶揄される連中に、馬鹿げた呟きを垂れ流す輩を、批判する資格は無いだろう。根も葉もない噂をばらまく、という意味では、大した違いは見えないからだ。だが、かたや、市井の人々が注目を浴びたくて、嘘を撒き散らすのに対し、公的な資格を持つ人々の、意図的な情報操作は、もっと厳しい目が向けられるべきだ。
それでも、業界内に自己規制のための仕組みを持つから、といった言い訳ともつかない反論が返ってくることがある。確かに、演出ばかりに腐心し、正確な情報伝達より、関心を集めることばかりに、目が奪われる人々は、仲間からも糾弾されることとなる。だが、まるで運が悪かったかのような振る舞いに、外の人々は、怒りを抑えることが難しい。あるべき姿がどうか、彼らは考えたことさえ無いだろう。矜持などと言われる言葉も、頭をかすめることさえなく、嘘が悪いなどという指摘も、必要悪の話へとすり替える。小賢しさばかりが目につく人々に、信頼は微塵も感じられず、鵜呑みにする人々だけを相手にすれば、何もが思うがままとなる。こんな状態が放置されるのは、何も業界人の腐敗ばかりが原因ではない。市井の人々の言動にも、大きな問題が露出しつつあり、便利な道具を与えられた猿どもは、自らを慰める行為に耽る。自己満足という意味では、何方も同じようなものであり、互いに強め合う雰囲気さえ漂う。何しろ、誤報だろうがなんだろうが、一度外に出されてしまえば、繰り返し張り出され、いつまでも発言は止むことがない。噂の終息は、以前ならば、この位と相場が決まっていたが、今の状況は、そうはならない。忘れた頃に、誰かが張り直せば、記憶の薄れは妨げられる。反復は定着へと繋がることからしても、この効果は、絶大なのではないか。何れにしても、ゴミと揶揄される人々が、それを止めない限り、こんな愚かな状況は、改められることは無い。
厳しい戒律に縛られるものがある一方で、ただ念仏を唱えるだけで救われるとするものがある。信じる処はそれぞれに異なるのかもしれないが、拠り所を求める心には、どれもが響く何かを有しているのだろう。死後の世界があるかは定かではないが、生きている間と違い、思い通りにならぬものとされれば、救いを求める気になるのか。
犯した罪に対して、罰を与えることに、何の違和感も抱かぬ人の方が、遥かに多いだろう。だが、人生の節目節目でのことと違い、終焉における罰には、改めさせる役割も、省みさせる機会もない。だからこそ、最後の審判に向けての心構えに、特別なものがあるのが当然なのだろう。しかし、日々の生活においては、罪と罰の関係は、人々の心を制御する上で、重要な役割を果たすのではないか。人はたとえ罰したとしても、変えられるものではないとする人々も、何かしらの働きかけで、道を誤った人々を導こうとする。心を開かせれば、何かが起きるものと信じるのも、一種宗教に似た所があるが、誰もが従う法則もなく、誰もが使える万能の方法があるわけでもない。様々な働きかけの挙句、何かしらの端緒を見出す人もいれば、苦しみぬいた挙句に、誤った道を突き進んでしまう人もいる。罪の意識の有る無しによらず、人の道を外れた行状に、当人はどんな感覚で居るのか。誰もが理解できる筈もなく、答えが見つかる保証も無い。だからといって、所詮無駄なのだからと、全てを見て見ぬ振りをしていいかとなると、賛成しかねる部分が大きい。小さな罪でも、大罪でも、それに対する反応には、一つの筋がなければならない。犯す側から見れば、ばれない限りという考えも、いかにも妥当なものとなるが、社会として見れば、罪は罪と片付ける必要があり、発覚せずとも罰せられるという考えも、時に必要なものとなる。