パンチの独り言

(2月16日〜2月22日)
(議論、運、書評、誘導、自負、考える、定量化)



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2月22日(日)−定量化

 多い少ないとか、効果があるないとか、そんな表現が巷に溢れている。二つに分けることで、分かり易くすると言われるが、極端に置くことで、詳しい部分には目が向かないことになる。この手法の問題はもう一つあり、二つの境目に位置するものに対して、無理やりどちらかに属させることが、誤りの元となることだろう。
 性質で区別する方法は、時に、定性法と呼ばれることもあるが、本質を見極めるはずだったものが、表面的なものに左右される形で適用されるから、全く違った結果を産み出すこととなる。解析者の設定した性質による分類を基に、二つの群に分ける作業は、分かり易さを高めるように思われているようだが、現実には、本質から目を外させているのだろう。こんなやり方に慣れてきた現代人は、大した根拠もなく、二極分化の結果を信じ込んでいる。情報伝達に携わる人々は、断定的な結論へと導く為に、この手法を好んで使うから、恰も、これが正式で正当なものかのように思い込まされている。だが、その処理過程を見ればわかるように、多くの場合、分類の根拠は希薄で、都合が優先しているように思える場合もある。集計において、数値を扱うわけだから、定性法とは違う、定量法が使われているように思うかもしれないが、集計前の分類で、量を無視した扱いを施せば、折角の数値も意味が無くなることが多い。数値化できるものに対しても、それを覆う形で分類が行われたら、本来の意味は失われることになる。習慣的に行っている簡便化の一つだが、一部の当事者を除けば、その悪弊の罪に気付く筈もない。分析において、重要とすべきものに対して、このような扱いを続けていけば、自ら判断する機会を失うことになる。学校教育の段階から、基本的な扱いを学ばせないと、判断ができない人間を増やすことになる。

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2月21日(土)−考える

 生まれて以来、使い続けている言葉で学ぶことに、この国の人々は何の違和感も抱かない。そこにある問題を指摘し、母語で学習できることの利点を説いた本が、話題となっている。ただ、本質的な議論ができない人々は、このことの表層のみに囚われ、グローバル化への反論の一つと捉えているようだ。では、その本質とは何か。
 言語能力が優れている人でも、母語とそれ以外の言語では、頭の中での扱いが大きく異なると言われる。ただ、多くの人々は、その能力に優れているわけではないから、違いを実感することができず、議論が進むことはない。言語の比較論を専門とする人々は、それぞれの特徴を捉え、差異を際立たせることで、優劣にも似た位置付けを試みる。だが、言語を道具と見做すだけでは、伝達精度や使い易さばかりに目が行き、思考における役割を論じるには至らない。件の本の著者は、科学という営みにおいて、母語で学べるという利点に目を向けただけでなく、そこでの思考過程における、言語による違いを明確化しようと試みた。この考察に、結論を期待することはできないが、推測から、新しい見方が誘起されたようだ。言語の役割を論じ続けてきた人々にとって、新たな賛同者の参入は、大いに歓迎すべきものであり、それが多くの好意的な書評へと繋がったのだろう。ただ、肝心の著者も含め、自分たちの母語による思考が、なぜ、他言語によるものと違うのか、更に絞り込めば、世界共通言語として、グローバル化の必須要素と見做され、科学研究を推進してきた言語と、何がどう違うのかについては、まだ見通しが立てられていないように思える。輸入品として、訳語という仮の姿へと変貌した結果、何が変わったのか、また、翻訳前から存在した、論理構築を含む思考形式と、どう融合し、どんな変身を遂げたのか、的確に示すことは難しい。ただ、多くの賛同を得たことにより、少なくとも感覚的に、母語に拘る意味が見えてきたのかもしれない。

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2月20日(金)−自負

 誤りを認めない人に、強制的に認めさせようとする動きがある。土下座は、その代表格として扱われるが、元々の意味は違っているという指摘が出てきて、論理のすり替えにも似た、最近の人々の議論下手の表れかと思えてしまう。それにしても、謝ることが何故それほどに重要視されるのか。逆に言えば、謝らないのは何故か。
 過ちを認めることは、冷静な判断の一つと見做されるから、それ自体、悪いことではないのだろう。ただ、謝罪となると、別の見方が適用されるのではないか。人間としての誇りが、傷つけられるということもあるが、職業意識も含め、自らが守らねばならないものを、放棄することに繋がることもあり、そちらに対する抵抗感が強いものとも言える。謝罪自体に抵抗があるのではなく、失敗を認めることで、自らの力の無さを認めることに、嫌悪感を覚えるのだろう。この考え方に、異論を挟む人々は、おそらく、そんな形の自負を理解できず、別の言い方をすれば、責任さえ感じていないことになる。誇りというものは、形を成さないものだけに、それに対する意識について、理解できない人に分からせることは難しい。ただ、仕事の上で、様々なことをこなして行く過程で、徐々に、そんな感覚が養われていくのだ。この辺りの経過を、暖かく見守る環境は、以前であれば、ごく当然のものとして存在していた。その代わり、日々の接触は冷たいものばかりで、技を盗めとか、背中を見ろとか、訳の分からないことが押し付けられていた。これに対して、最近の傾向は、手取り足取り、丁寧に教えてくれるのだが、肝心の心持ちについて、何も伝えられることはなく、表面的な技術ばかりが伝達される。一見、成長していく姿があるようで、真の成長はないから、空っぽな人を育てているだけのようだ。心を入れることの大切さは、何処かで聞いた話なのだが。

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2月19日(木)−誘導

 戦後の批判で集中したものの一つに、大本営発表があった。戦況を伝える内容が、改竄され続けたことで、国民は正しい情報に接することができなかった、とされる。敗勢が明らかになりつつある中で、それを伝えないばかりか、反対に勝勢にあるかのように見せる内容には、極端な情報操作が明確だった訳だ。
 確かに、真実を伝えない情報伝達には、本来の役割は果たせず、国民の誘導が優先されたことが解る。だが、それに乗った人々の感覚は、どうだったのだろうか。批判は、発表側ばかりに集中していたが、その情報を受ける側が、何の批判も受けずにすむのは、どうなのだろう。当時は、改竄してでも、戦況が良好であることを伝えたかったのだろうが、最近の戦いでは、事情が随分と異なっているように感じられる。如何なる被害を受けたかを、特に強調して発表する姿勢には、勝敗が、単に戦果によってのみ決まるものでないことが見えてくる。戦争に、正しいやり方がある筈もないが、それでも、関わる人間だけでなく、非戦闘員などと呼ばれる一般人の被害は、あってはならないものとされる。だからか、そういった被害をことさらに強調し、敵の不当性を訴える。勝っていることを訴えるより、人道性の問題を訴えた方が、世界の人々の共感を得られる、という判断に基づくのだろうが、これもまた、情報操作の対象となる。要するに、情報を操ることで、自らの正当性を主張しようとするものなのだろうが、果たして、戦争そのものに正当性があるのだろうか。諍いの素は、様々にあるのだろうが、それが、言葉の上だけでなく、力の行使へと発展するようになると、制御がきかない暴力へと繋がり、不特定多数へとその範囲が広がる。当事者たちには、それぞれの主張があるのだろうが、見方の違いで、何とでも解釈できるだけに、身勝手な言動としか映らない。後ろめたさがあるからか、操作は盛んになるばかりのようだ。所詮、無駄な事だろうが、受ける側も注意せねば。

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2月18日(水)−書評

 読んだ本、を見て貰えば分かるように、本を読む方だと思う。但し、古書には手を出さず、新刊本に限るから、少しでも出費を減らそうと、金券店でカードを購入する。業界の苦しみは、様々な形で伝わるが、その多くは的外れで、自業自得の感がある。良い本を作れば、必ず売れるのではないか。そんな本を読みたい。
 都会に住んでいないと、本探しに書店を巡る訳にもいかない。立ち読みは好きでなく、買い物に手間をかけるのも嫌いだ。情報源は、まずは出版社のHP、新刊本が並んでいる。だが、数多ある出版社を全て巡るのも、面倒である。だから、推薦されるものから、目を通すことにしている。多くの新聞が書評欄を設け、週末の紙面に織り込んでいる。ある程度知識のある人々が選び、内容を紹介する訳だから、信頼できる情報源として、重宝する筈のものだ。読んだ本に並ぶものも、多くはそこから手に取ったものだが、信頼の程度は、玉石混淆といった感がある。有識者と呼ばれる人々の質の低下も、番組や紙面での言動を見る限り、著しいものと言わざるを得ないが、ここでも、その傾向は顕著に見える。読んでもいない本を紹介する話は、昔から取り沙汰されていたが、その割合は増えているようだ。持論を展開するだけのもので、本の内容には一切触れない、という極言は別にして、緒言か後書きに書かれた内容に触れるだけで、全体の1%も読んでいないものに、信頼ができる筈もない。そんな時の読後感は、虚しさのみが占める。特に、同じ本に、全く違った感覚を抱く時、書評の難しさを強く感じる。先日読んだ、科学論の新しい見方を紹介する本も、ある新聞の書評では、以前から同じ論を展開してきたとする大学教授が、持論を展開していた。肝心の本の内容には、少し触れるだけで、読み込んだ跡は見られない。それでも、耳目を集められるのは、ネット書店の売れ行きの変化を見ればわかる。また、騙されるだけとも思うが、肝心の本の内容に、書評に騙された人が、感化されるのであれば、それでいいのだろう。

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2月17日(火)−運

 戦闘地域の光景が映し出されると、平穏な国に住んでいることに、有難いという思いを抱く。攻撃への不安に、一時も気の休まる時間がないことに、心の平安は訪れる訳もなく、恐怖感に苛まれるのも致し方なし、となる。それに比べて、平和な時代、場所に住むことで、心の平安は当然のものとなるが、平穏無事は可能なのか。
 こんな時代、こんな場所でも、事故などで亡くなる人の数がゼロになることはない。交通事故の犠牲者の数は、様々な対策が功を奏して、減少の一途を辿っているが、それでも無くなることはない。詳しいことはデータを調べないとわからないが、この季節に、特に話題とされる火災の被害者は、もっと多いのかもしれない(実際には、半分くらいのようだ)。江戸の花とまで言われ、数十年ごとに大きな被害を及ぼした大火も、最近は起きていない。大震災後の区画整理により、当時とは全く異なる町並みとなったとはいえ、それだけでは対策は十分とは言えなかったのだろう。消火態勢の充実も肝心だったのだろうし、人それぞれの心掛けも重要だったに違いない。それでも、大地震の後の津波に端を発した火事では、手の施しようもない時間が過ぎていた。平和とはいえ、こういった危険に接する機会は、全ての人にあるのではないか。自分の経験を振り返っても、二三度、そんな危険を感じたことがある。一度は、火事へと繋がりかねない事態だったが、運良く目が覚めて、大事に至らなかった。煙だけで火が出ない火事は、特に注意すべきものとの指摘があるが、まさにその通りの展開だったと思う。ほんの少しの違いで、結果は大きく異なる可能性がある。そう考えると、平穏無事なことは、環境や備えによるだけでなく、運か何かに左右されるものなのかもしれない。

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2月16日(月)−議論

 後付けの考えは、言い訳などと指摘され、批判の対象となることが多い。だが、全体の流れを見渡し、その中から考えを纏める作業は、実は、思考の過程として重要なものではないか。始めから一貫して、一つの考えを持ち続ける事に、拘りを見せる人も多いが、これでは、考えを積み重ねることにはならないと思う。
 あやふやとか曖昧とか、変化を繰り返す過程では、様々に批判されるだろうが、全体として形作られた考えに、前と違うからという批判は当たらない。たとえ、紆余曲折があったとしても、それが一つのまとまりを見せれば、熟慮に基づく考えと評価されるべきだろう。ただ、こんな過程は好まれず、何度も変更があることは、その度に前のことが徒労となるだけに、そんな見方がされるのだろう。だが、積み重ねられたものに、一つの無駄もないのではないか。確かに、前のものを消し去り、そこに更なる上塗りを重ねれば、それまでの過程は全て否定されたかのように映る。だが、積み重ねには、前のことが必ず影響を残し、その過程は全体として、重要な要素となる。不慣れなことに挑むことに関しては、別の考えもあり得るだろうが、現状は、距離を置こうとする人が多いようだ。そんな風潮だからか、新たな試みの導入が図られている。集団での議論の場で、単に、言葉として発する形式は、どこか不安定なものと扱われるらしく、最近は、発言より、メモに書いた形で残すようにされている。これで、曖昧な記憶による議論や、誤解に基づく反論が、防げるのかもしれないが、何か重要な手順が、省かれているように感じられる。並べられた意見を比較し、その中から結論を導く作業は、試行錯誤も含め、目の前にあるものに縛られるように思う。実は、確実さを求めるあまり、自分の中の考えから、自由が奪われているのではないか。ああでもない、こうでもない、と考えることは、ある見方からすれば、如何にも無駄に思えるかもしれないが、それこそが、何にも縛られない自由な思考となるのではないだろうか。

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