何の役に立つかが示され、小手先の技術として伝授される。核となるものが無いままに、飾り付けられた代物は、傍目には眩いばかりの仕上がりとなる。しかし、所詮、中身が無いことには変わりがない。外から叩かれると、少しのことで簡単に凹むから、その杜撰な状況がすぐにわかる。それでも、化粧が大事な時代なのか。
手間を省いて、見かけの良いものを作るのは、まるで製造業の話のように映るが、現実は、人を教え育む現場の話である。見栄えばかりに目を奪われた人々は、粗悪品を綺麗な袋詰めにする気分で、せっせと包み込むようだ。製品においても、見かけばかりで、強度が足らず、すぐに壊れるものは、早晩嫌われる運命にある。一度は騙されても、二度目はないと言われるのは、そんな事情からだ。これが人を対象とする話になると、随分と違った経過を辿る。一度手に入れたものは、すぐには捨てられず、凹んだところも、何とか修繕を施す必要がある。だが、中身の無い皮ばかりの代物では、表から何かを被せても、また凹むだけのことではないか。そんな人材を、輝かせていた化粧は、時間と共に剥げ落ちて、傷んだ中身をさらけ出す。そんなことが、各所で起きているのだろうが、根本的な解決を模索する動きは少ない。見栄えを優先する時代には、もう、本質を重視する動きは、古臭いものとしか映らないからだろう。手っ取り早さや気軽さに飛びつく傾向は、子供達にはごく普通のものだから、大人達の甘言に、簡単に騙されてしまう。鍍金が剥がれると言われることも、すぐには起きないから、騙された子供も、暫くは順調に成長しているように見える。だが、社会に出た途端に、馬脚を現すこととなり、本質の理解が不足することに、大きな問題を露呈する。安易な選択をし、騙されるのが悪いとも言えるが、それを勧める大人達の罪は、見過ごしてはならないのではないか。本質を見極める力を、幼少の頃から育む環境は、子供ではなく、大人が築くものだから。
壁に当たった時の反応は、人それぞれなのだろう。だが、時代ごとの傾向は、何かありそうに思える。明治期の小説では、ほんの一握りの大学卒業者が、就職浪人になる話があるが、その理由は、今の同じ境遇の人とは違っている。あの頃は、言い表せぬ悩みを抱え、それとの折り合いがつかぬままに、社会へ出ることを拒絶していた。
では、今はどうか。社会に出たくない、という強い意思を持つ人でも、それ以外の悩みを持つわけでもなく、ただ、現実逃避を繰り返しているだけに見える。それより深刻なのは、悩みを抱えるという感覚もなく、ただ漫然とそこに居るだけ、という状態を続けている人々で、手を差し伸べる動きも出ているが、殆ど効果がないようだ。以前なら、こういう状態を壁という言葉で表したが、今は、壁さえも意識されることはない。件の人物の周りには、何の障害物も見えないが、本人が動き出すことはない。目に見えない壁があるとしたら、それは本人が築いたものであり、閉じ籠るという行為が、まさにその表れとなっているに過ぎない。それでも、優しい社会というものは、手を差し伸べるのが当然と思い込んでいる。身近な人々が手を出せない状態にあるのに、赤の他人が支援を申し出る事態に、意義を主張する人は多いが、どうかと思う。流石に、外に出られなくなった人々は、極端な例とはいえ、壁に関する見方は、多くの若者の中にあるように見える。そのまま立ち尽くしていれば、誰かが助けてくれる、と願う人は多く、自力での解決は、端から目指さない。努力という言葉も、口先で使うものの、それと真剣に取り組む姿勢は見えない。自力の重要性が、いつの間にか忘れ去られたのが、現状のきっかけとなったのかもしれないが、余計な手を出す動きにこそ、より大きな問題があることに、親切な人々は気付くべきではないか。
初めて職に就いた時、経験したことのない仕事に、戸惑ってばかりだったことを覚えているだろうか。それとも、初めから、何事も無難にこなし、上司の覚えめでたき対象だっただろうか。未経験なものに、どう挑むかに関しては、人それぞれに対処法があるに違いない。丸腰で、何の準備もなく、という猛者もいるのかもしれない。
準備と言っても、様々なものがあるだろうが、先輩達から何度も言われたのは、考えろ、ということではないか。何をすべきかを考え、何が問題かを考え、どう解決するかを考え、どう伝えるかを考える。どれを取り上げても、そこに思考が入らねば、先に進むことができないように見える。受身の勉強に慣れた人に限って、自ら動かねばならない状況に、戸惑うことばかりだったのではないか。それでも、徐々に仕事に慣れるに従い、考えることについても、押さえ所を意識できるようになれば、時間の掛け方も、想定の幅も、徐々に小さくなる。新卒者との違いは、意識できる程に大きくなり、自信も芽生えてくるだろう。後輩が入ってくる頃には、教えることも少しは出来てきて、成長を実感できるのではないか。順調であれば、誰も問題を抱えることはないのだが、この時期が、一つ目の壁となることが多い。最近は、傾向と対策が整備されているからか、この辺りのことも、在学中に済ませる人が増え、壁は除かれていると見做されている。だが、現実は、それ程甘くはないようだ。対策で示されたような理想状態はあり得ず、個別の例で異なる事態に、戸惑う人が出てくるし、訓練の気楽さと実戦の厳しさの違いに、心理的圧迫を感じる人も多いからだ。確かに、様々な想定を巡らし、準備万端の状態を築くことは、こんな時代を生き抜く為の方法の一つには違いないが、仮想と現実の違いに、人それぞれの反応は異なってくる。初めの話題に戻り、考えろ、という点に目を向けると、そこで戸惑う人の多くが、正しい答えを求めていることに気づかされる。現実社会では、各段階で正しい答えがあるわけではなく、妥当な答えの積み重ねが、最終結果に結びつく訳だから、それぞれに考えを巡らす意味を、もっと意識するようにしないと、萎縮するだけとなるのではないか。
真意を伝えることの難しさは、改めて取り上げるもなく、皆が理解していると思う。では、それは本当なのか、何かが起きる度に、違和感を抱かされるのは、必ずしも当てはまらないからだろう。ただ、それをどうすればいいのか、こちらの答えが見つからないままでは、問題点を指摘することも難しい。訳も分からず、首を傾げるしかない。
発言者はもとより、伝達者も真意を伝えようと努力する。誤解を招かぬように注意するだけでなく、要点を明確にすることが重要と言われるが、それが正しく伝わるかは定かではない。情報伝達において、誤りのない確実な方法は、実は存在していないようだ。答えの一つがあるとすれば、それは、発信者の問題ではなく、受信者の問題ということだろう。受け手が勝手な解釈を施すことに、悩みを抱く送り手は少なくないと思う。紙媒体を中心とした伝達では、受け手は孤立しており、一人が誤解をしたとしても、それが広がる機会は無かった。だが、誰もが送り手になれる時代には、誤解は瞬く間に広げられ、当初の発信物での真意は、いつの間にか捩じ曲げられたまま、的外れな解釈ばかりが独り歩きを始める。意図せぬ解釈でも、そちらの方が理解し易いとなれば、拡散は容易なものとなる訳だ。極端な解釈の方が、飲み込みやすければ、それが正しいものかどうかとは無関係に、賛同者が増えることとなる。これをも送り手の責任とされては、心外と言い返すのが精一杯となる。指導は見守ることが肝心であり、指示や命令を与えるような過剰な指導は、人を育てることにはならない、という主張も、鵜呑みを産みやすいものらしく、何が正しいかの判断も出来ず、ただ放置する傾向にある人々には、応援と映ったようだ。だが、手を出さぬという発言の裏には、その中で、相手の観察を続けていた状況が隠れており、その手間さえも省く人には、見えないものとなった。発言の真意が伝わらぬ世界で、曲解されたものが、発言者の名で拡散される。難しい時代なのだろう。
褒められて、悪い気はしない、と思うだろうか。最前線を走る人にとって、自分より格下の人間に、評価されたとしても、何の意味も無いのではないか。それでも、貶されるよりは、とする意見もあるだろう。一握りにも満たない、先端を行く人々にとって、どんな感覚があるのか、凡人には理解し難いものである。
だから、どっちでもいいのだ、という結論が精々かもしれないが、本論はそちらへは向かない。凡人を含む、一般大衆にとって、褒められることはそれ程重要なのか、という点に話を絞りたい。暫く前のことだが、褒めて育てる、という手法の紹介が、海を越えて運ばれてきた。舶来を過大評価する傾向を持つ人にとって、まるで三種の神器のように思える代物だったのか、注目の的となってようだが、その後の流れからは、単なる流行りに過ぎず、中身のない粗悪品のように思われる。格下の人間を扱うには、褒めることは重要な道具となりうるが、先へと進む人にとっては、一種、バカにされたようにしか映らないやり方に、能力のない人ほど興味を抱いたようだ。つまり、格下だからこそ、褒められたいと願うわけで、それを望む人には魅力と思えた、ということだろう。現実には、それぞれに見合った方法があり、海の向こうでも、力を持つ人に対しては、軽率な称賛は不適切と見做され、激励はあったとしても、批判を中心とした指導が適切とされる。その部分は、大きく省かれた形で、目下の人間を格下のままでおくための手法として、褒めることが専ら行われてきたのだ。その真意を理解することなく、上辺ばかりに目を奪われた人々が、流行の中心を成していたのだろう。今でも、この点に関して、誤解をし続ける人々がいて、育成において、邪魔を続け、障害を産んでいるが、彼らの言動に振り回される若者は、その程度のところに留まるしかないだろう。上を目指す人間にとって、批判は肥やしとなり、それを跳ね返す力こそが、次の飛躍へと繋がる。甘い言葉に踊らされる人は、所詮その程度と、自分を評価せねばならない。
「分からない人は分からない」という発言は、当たり前のことを言っただけだろう。にも拘らず、批判の矢を放つ人々の勢いは収まらない。この感覚の違いは、どこから生まれているのだろう。どちらの立場も、それぞれに確固たる考えに基づくものであり、何れが正しいのか、などと論じることは、無駄なのではないか。
但し、現代の風潮は、一方に加担しているように見える。弱者に与する社会では、分からない人が正しく、分からせない人は間違っている、という考えが主流を成す。その中で、分からないのは、本人の責任ではなく、説明する立場にある人の責任である、という考えが築かれた。一見正しく思える考えだが、これが異常な広がりを見せた結果、現在の社会が抱える大きな問題が生まれたようだ。無知を露呈しながら、我が物顔で闊歩する人が増えたことで、知らないことは恥ではなく、分からせられない人が恥を晒しているとする見方が広がった。確かに、知らぬことは恥でもなく、それを知る為に、自分なりの努力を積み重ねる、という考えは、昔からあった。ただ、そこには、自らの努力で、無知を放置しないことが、重要なものとなっていた。それに対して、今風の考えでは、無知は悪ではなく、それを無くす責任は、周りにあるとする訳だ。なんと傲慢な考え方か、と思う人がいるだろうが、いい大人達が、まさにそんな言動を続けていることに、気付いているだろうか。説明責任なる行為も、当たり前の解釈では、何の問題を生まれないが、彼ら独自の考えでは、自分達の考えに合致する説明こそが、その責任を果たすことに繋がるとなる。これでは、単なる同意であり、自らの意思で説明することとは、全く違う行為ではないか。結論を決めた中で、裁きをしようとする動きに対して、始めに書いた発言が出たことは、当然の対応と見ることもできる。分かろうとする気のない人々に対して、何をすれば理解を促せるのか、まるで、近年の教育現場を眺める気分さえしてくる。
人前で何かを発表することを、プレゼンテーション、短縮して「プレゼン」と呼ぶ。企業での営業活動だけでなく、様々な場面で必要となる手法だから、学校教育でも導入され、その能力の有無が、何か大きな違いを産むように解釈される。確かに、その巧拙により、伝わる割合が増減するし、魅力も大きく変わるだろう。
役に立つ技術を身に付ける、という現代的な考えからすれば、技術が全てであり、中身はどうでもいいものと映るのかもしれない。だが、現実は、正反対なのではないか。中身の無い話を、もっともらしく紹介したからといって、無い中身が現れる筈もなく、内容の無さを際立たせるだけとなる。技術の高さは、逆効果となるだけで、結果は惨憺たるものとなるに違いない。技術は技術、中身は中身と、区別して教え込むのがやりやすい、との思いが現場であるのかもしれないが、両立してこそ、意味があることに気付くべきではないか。堂々として、滔滔と発表をする人が、中身の無い話をしたとしたら、それは演劇の世界の役者でしかなく、誰かが書いた台本を、見事に演じただけにしかならない。流石の名優も、酷い台本では、見事な演技を見せることもできない。「プレゼン」では、本来、滑らかな発表が要求されるだけでなく、その中身が十分に整っていることが要求される。にも拘らず、技術ばかりを優先する風潮が強まり、肝心の中身を整えることが、二の次とされているようだ。知識を豊かにし、そこから考えられることを、十分に吟味する能力は、中身を整える為に必要となるが、前半はまだしも、後半は最近の学校教育では、不十分なままに終わっているようだ。時には、自由な考えに制限をかけることさえ起こると聞くと、本末転倒と思えるがどうか。