生き難い時代である、という意見にどんな反応を示すか。欲しいものは何でも手に入り、様々な恩恵に満ちた社会、これほど豊かな時代は無い筈なのに、何故、生き難いのか。そんな筈は無い、との反論がある一方、確かに、生活の豊かさはあるが、精神的な抑圧や拘束が、これほど高い時代は嘗て無かったとの賛同もある。
それぞれの感覚の違いは当然のもので、各人の経験の違いにもよる。特に、抑圧や拘束は、感覚的な違いが最も現れるものであり、同じ事象に対しても、正反対の反応が生じる。ただ、社会的な規範が厳密に決められてくると、自らの考えが通用しない事例が増え、壁に当たる度に、縛られている感覚が高まるようだ。倫理や道徳に基づく筈の法律に関しても、個人の利害が入り混じるものへと発展すると、全てにとっての幸福や満足は成立せず、個別の例ごとに、利益を得たり、損害を被ったりと、結果が異なってくる。そんな時代が暫く続くと、各人がそれぞれの利害を考え、他人との関わりをその尺度で測ろうとする。その上、判断が例ごとに下されるとなれば、長い目で見たものは排除され、一時的な利害を優先する風潮が高まる。助言はすぐに役立つものであり、利益にしか目が向かない。これでは、苦言を呈する形での助言は成り立たず、褒めて支援するものしか認められない。良かれと思っての発言は、受け手の心の乱れによって曲げられ、その責任を問われることとなる。力の弱いものが最強の存在となり、無力の弱者は悲鳴を上げるだけで、強者を打破できる。力の無さは、能力の無さであり、知識や知恵においても劣ることが多い。それを指摘しただけで、糾弾されるのでは、忠告は無駄となる。ハラスメントと称する言動も、見方次第で支援となるが、受け手の判断のみで決まるとなれば、無言を貫くのが一番か。体調を労わる言葉も、妨害と受け取られては、生き難いのではないか。
微笑ましい光景とは、どんなものだろう。個人の判断に過ぎないものだが、子供らしい行為は、その一つになるのではないか。飽きもせず遊び続ける姿には、何かをしようとする心より、今を楽しもうとする心があり、汚れのない子供の心を感じる。ただ、最近の子供達の姿の多くは、それとは違ったものを感じさせられる。
電子機器を抱えたまま手放さぬ姿に、疑問を抱いていたのは、随分前のこととなってしまった。最近は、当たり前の光景となり、誰も気に留めないようになった。そんな思いを抱きつつ、車内の人々に目を向けると、若者達が子供と同じ行為に耽る姿が多くみられる。依存症とも言えそうな光景に、悍ましさを催す人は少なく、これもまた日常的な光景となったとされる。精神的な病気を次々と編み出す人々も、彼らを病気と見做すことは躊躇われるのか、取り上げられることは少ない。だが、飲酒や薬物への依存と、何処が異なるのか、素人にはその違いが判らない。子供と若者、更には大人の区別がつかない現状には、社会が抱える病のようなものが感じられる。全く違った現象だろうが、子供達の先取り制度も、らしさを失わせる原因となっている。乳幼児教育は、その極端なものとなり、早期に始めることが、肝心と見られている。ませた子供は、好奇の眼差しに晒されたものだが、いつの間にか、それが競争社会を生き抜く術とされ、らしからぬ行為を持ち上げる風潮まで出てきた。だが、早晩、ただの人に戻る運命に、誰も抗うことも出来ず、折角の先取りも徒労と終わる定めとなる。年相応の行為に対し、微笑ましさを感じるのは、人としてごく当然のものだが、それができない現状には、大きな歪みを感じる。背伸びをさせることも、時には必要だろうが、それが日常的となると、歪曲された人格が、後の崩壊へと繋がるのではないか。教え育む為に、何が肝心か、責任ある人々は、もっと考えるべきではないか。
次々に降りかかる課題に、対策を講じる人々は休む暇さえない。その中で、その場での解決を諦め、先送りする場合があるが、その途端に忘却の彼方へと送られるのは、当然のことかもしれない。多忙を極める中で、一時に処理できる数や量は自ずと決まり、その箱の中から出されてしまえば、そちらに目を向ける必要も無くなる。
増税で、あれほどの騒ぎに至ったにも拘らず、先送りとなった途端に、皆の興味が失せてしまった。税の問題は、日々の生活にも影響を及ぼすだけに、話題が盛り上がった時の騒ぎは、尋常ではなくなる。なのに、先送りを決めると、暫く忘れておけばいい、となるのでは、根本的な議論ができる筈もない。差し迫った課題だからこそ、盛り上がりを見せたとの意見もあろうが、期限が迫る中で、決断を下さねばならない状況は、判断を誤る原因となる。それに比べれば、時間的余裕を得たからこそ、議論を進める絶好の機会と言えるのではないか。そんなことに気付かず、毎回、場当たり的な議論のみに腐心するのは、それを担う資格のない人々と言われても、反論できないだろう。先日読んだ本では、消費税の欠陥を指摘しつつ、法人税を適正に納めぬ中で、更なる減税を要求する大企業の厚顔ぶりを、厳しく批判する著者の意見が述べられていた。税の構成に関する意見にも、同意できる部分が大きく、徴収する側の正論として、もっと評価が高まってもいいように思う。考えを巡らせることさえできない大衆にとって、目の前の動きしか理解できないのは、当然のことかもしれないが、そんな愚論を放置する仕組みには、呆れるばかりなのだ。法人税や所得税に、もっと期待する仕組みこそ、健全な国家へと結びつくものであることは、消費税のような仕組みを先行して採用した国々の、退廃ぶりからも想像できる。各人から集めることには、誤魔化しがきかぬことに、気付かぬままでは、国の成立が危ぶまれる。愚かな人々が、亡国への道を歩み続けている。
小手先の技術に注目が集まるのは、何故なのだろう。まるで、ブランド品で飾り立てる如く、キラキラと輝く技術を身につけ、それを自慢したり、売り込む人が増えている。流行の最先端を誇る人々は、飾り付けの世界では優遇されるようだが、付け替えが容易であるものと違い、人材はそのものを入れ替えるしかない。
つまり、技術の最先端を走る場合、それを追い続ける気力と知力が備わっていない限り、その時しか通用しないこととなる。小手先を飾り立てることは、確かに重要な面を含むだろうが、内面的な部分を確かなものにしないままに、そちらに力を入れると、いつの間にか、廃った技術にしがみつくだけの人材と化すのではないか。最先端を行くと言われる技術の多くは、確かに重要なものには違いないが、それを身に付ける過程が簡単になる程、安物の鍍金に似た様相を呈する。短期間で身につくとか、誰でもできるとか、誇るべき技術に確かさが感じられない。そんな人材育成に注目が集まることに、警鐘を鳴らす人は少なく、応援する側に回る場合が多いようだ。逆に見れば、潜在的な力も含め、力を測る方法には、確実なものが無いと言われる。記憶に頼る方法では、詰め込みが揶揄されるが、考える力を測ろうにも、それを見極める方法が見いだせないようだ。昔のやり方を真似たら、と旧制の入学試験を取り上げた時代もあったが、効率ばかりに目が向く風潮では、導入には至らなかったようだ。その中で、選択させるやり方とはいえ、徐々に、考えさせようとする動きが見られることに、評価する声が上がっている。小手先の技術も、丸暗記に似た能力を身に付けさせることのように見える。そんなことを考えると、現場の混乱は、暫く続きそうに思える。
感情の起伏の激しさに、苦しむ人が多いのではないだろうか。事件を起こした若者の多くは、報道によれば、怒りや憤りを抑えきれなかったとされる。だから、無難に生きる為には、そういった感情を押さえ付け、平穏を装うのが一番と思われているようだ。でも、と思うのは、感情の起伏が様々な動機に繋がることはどうなるのか。
波風を立てず、問題を起こさずに過ごすことが、長い人生を歩む為に、不可欠なことのように思う人が居るが、起伏の無い人生に、どんな楽しさがあるのか、理解に苦しむ。様々な障害を乗り越える為にも、上り下りに応じた形での心理的な取り組みは、重要な要素の一つとなる。にも拘らず、心の動きを小さくし、一喜一憂を少なくすることが、肝心なことのように扱う人々が居ることに、強い違和感を覚えるのだ。こういった指摘をする人の多くは、一時的に高まった感情を、抑えきれないものと見做す。感情の制御は難しく、その振幅を如何に小さくするかが、第一と考える人に、こんな見方があるようだ。たぶん、感情は爆発する前に抑えることは難しいから、そのものを小さくする方に向かうのではないか。それが最良と見る人々は、感情が占める役割に、目を向けていないのだろう。その動きが、様々なきっかけを与え、本人の可能性を引き出す力となりうることをも、否定することには、危うさが見える気がする。無難な生き方と言われる一方で、やる気をはじめとする積極性の喪失が、これほど大きく取り上げられる時代は無かった。基本となるものへの誤解が、こんな結果を産んでいるとしたら、もう一度考え直す必要があるのではないか。難を避ける為に、という目的にしか目を向けないことが、過ちの根源となっているように思う。
興味の有る無しで、態度が大きく変わることがある。相手にしてみれば、迷惑としか思えないかもしれないが、本人にしてみれば、興味の湧かないものに、関われという方がよほど迷惑なのかもしれない。興味を抱かせることの大切さは、そんな背景から強調されるが、人による違いは容易には崩せない。
つまらなそうな顔を見せられては、やる気が失せてしまうのも仕方がない。だが、それではいけないとばかり、世の中は興味を引こうとする動きで溢れている。魅力を訴える姿勢には、興味を持つことの大切さを認め、情報交換を始めとして、様々な遣り取りのきっかけを掴もうとする動きがある。でも、自分のことを考えてみれば、何にでも興味を持つことの難しさは、すぐに理解できるのではないか。他人を引き込もうとする動きに、手を貸す風潮が強まっていて、訴えるための手法の伝授や魅力を見出す方法が伝えられる。巧く進められた例は数多あるのだろうが、全てに当てはまるわけでもなく、同じ見せ方でも、人によって反応が異なってくる。興味などというものは、本来この程度であり、誰もが振り向くものがあるわけでもない。にも拘らず、何か絶対のものがあるように思うのは、何故だろうか。答えは見つからないが、元々、そういうものがあるに違いないと思い込むことにこそ、問題がありそうに思える。それぞれの違いを尊重すれば、こんな考えの馬鹿らしさに、気づける筈だと思う。それに目が向かない風潮には、何かが間違っているのではないか。逆に言えば、自分を強く意識すれば、興味の有る無しを、そんなに気にする必要もないだろう。一方で、他人の興味を引かねばならないと、思う必要もない。
器用不器用の話だけでなく、何事にもコツがあると言われる。それを無難にこなす人は、何をするにも問題なく、滑らかに事を済ませる。それと反対に、何をやらせても上手くいかない人も居て、こちらは滞るばかりで、前に進まなくなる。傍目からは、何が違うのかはっきりしないことが多いようだ。
だからと言って、仕方がないと片付けられないのが、大きな問題だろう。特に、同僚だったり、部下だったりと、同じ組織に属していると、無難は歓迎できるが、逆は避けたいと思う。人に物事を教える時に、相手がどちらに属するかで、手間の掛かり方は全く異なってくる。しかし、事前に選べるならまだしも、選択の余地なく目の前に現れた場合、どうにもならないこととなる。無難な場合には、気になることもなく、そのまま進めれば良いが、逆の場合は、どのような解決法があるのか、検討せざるを得ない。だが、それで事が片付く訳でもなく、解決の手立てが見出せる訳でもない。それぞれの資質による部分は大きいが、もし後天的なものがあるとすれば、コツを見出す能力を鍛えてこなかったという点だけかもしれない。興味の有無を問う話は多くあるが、これもその一つであり、興味を抱き、そのつもりの目で見ていれば、何かが見えることもあるが、その気の無い人には、そんな機会は訪れない。ここに違いがあると言っても、それも資質の一つではないか、と指摘する人もいるだろう。だが、興味の抱かせ方、という観点からすれば、少しは違ってくるのではないか。遊びには目が向くのに、肝心なことにはどうも、という人には、この点が分かれ道となりそうに思う。本人の意識だけでは、どうにもならない部分で、仕向けてやる必要がある点だろう。とは言え、簡単なことでもなく、周囲の辛抱も必要なのかもしれない。