株を始めた頃、情報の有無を問題にする人と接することがあり、戸惑いを覚えた。情報の価値は、その質によるものであり、量の多少によるのではない。だが、その手の人々の多くは、多寡によって判断しており、中身の信頼性に目を向けることなく、まして、それがどんな意味を持つかなどに、考えを巡らすこともない。
確かに、相場の動きを分析する人々の言動からは、細かな情報分析より、目を引くなどの話題が多く、情報の意味は、多方面から流れてくるところにあるように思える。内容の吟味をせずに、判断を下すやり方では、当たり外れが出てくるのは当然だが、これとて、確率なのだからという考えを持てば、大したことではないとなる。相場の世界だけでなく、あらゆる社会が情報を追い求めるようになると、情報への精通に差が生まれ、情報弱者なる集団が位置付けられる。強弱により、様々な面に影響を受け、それによって、勝敗が決まることで、生活水準にも影響を及ぼすとなれば、弱者を脱し、強者に属することが、何よりも重要となるのだろう。だが、ここでの強弱は、単に量の多少による区別であり、強い者が必ずしも正しい情報を手にするとは限らない。これほどいい加減な状況にも関わらず、強弱が論じられること自体、誤った情報の流布と言えるのではないか。そこに気付かず、正誤入り乱れる雑多な情報を、集めることに躍起になるのは、まさに負ける為に努力をすることになりかねない。集める努力より、吟味する力を磨くことにこそ、もっと目を向けるべきだろうに、拙い判断しかできない人々ほど、この傾向が強まるのでは、始めから勝敗は決しているのではないか。それを知った上で、弱者に対して情報の提供を申し出るのが、悪質な手法であることに、気付ける位の判断力は、生きる為の術であると思う。
只より高いものはない。昔はよく言われたことで、只と聞いて却って高くつくと、警戒したものだが、今は、それが当然との反応が返る。手に入れる為には何もしたくなく、更に、施されたとしても、その見返りなど考える筈も無い。身勝手な考え方と思うのは、古風な人々だけであり、今風の人には、それが当然となる。
逆に言えば、何かしらの対価を支払うと、更なる要求が通ると思う人までいるようで、対価とは何か、という点にまで、別の考えが被せられる。社会から受けるものは、全てが奉仕を基本とするものであり、構成員たる個人が、それに対して何かを支払う必要はない、という考えに、違和感を覚えるのも、古い人間の特徴のように扱われる。施しを受けるばかりで、自ら何かを奉仕するつもりのない人に限って、この考えに固執するようで、権利ばかりが主張され、責任へと思いを馳せることは無いようだ。こんな世の中では、貧富の差とは無関係に、全員が社会に無料提供を要求し、当然の権利と考える。その一方で、貧しい人々への無料提供こそが、社会が果たすべき役割のように伝えられる話には、どこか真実味が感じられない。何故なら、そういう制度が整えられた途端に、貧富の区別なく、全てがその恩恵を受けようとするからだ。社会での果たすべき役割を、それぞれの立場から分担することに、表向きは同意したとしても、そこでの公平感を主張する人達には、あるべき姿というものは見えていない。貧しいから要求するのが当然との考え方も、何かが違うのではと思うけれど、それより大きな問題は、豊かな生活を楽しむ人達にあるのではないか。考えるべきことは沢山あるけれど、実際には、目の前の損得勘定で動くから、先を見通した考えは出てこない。少しずつでも、良い方向に向けるようにしないと、何処かに追い込まれてしまうのではないだろうか。
自らの声が多くの人々に届くことに、快感を抱いているのだろう。若者達が、ツイッターなどのSNSに耽る理由の一つなのではないか。日々の感想を漏らすことから始まり、注目を集めてくると、徐々に過激な表現が目立つようになる。ゲーム感覚などと言われる所以だが、そこから生まれる結果には、悲惨なものがある。
知らなかったとか、こんな反響を産むとは思わなかったとか、大きくなった問題に対し、当事者は戸惑いを現す。だが、耳目を集めようとしたことに、何の意図も働かなかったか、と問えば、肯定の返事が戻ってくるだろう。善人達が、いつの間にか、悪人となる経緯に、本人の意識は深く関わっている。ただ、悪事を働こうとする意図はなく、単に、注目されたかっただけだから、ということで許して欲しいと訴えるのだ。一見、未熟な故の、暴走に過ぎなかったと思えるのかもしれないが、本当に、それで許すべきなのか、社会はそろそろ重い腰を上げるべきだろう。教わらなかったという言い訳に、厳しく対処しようとすれば、当然、教える必要が出てくる。しかし、年齢による適応力の違いが、そこに歴然とあれば、その体制を築くことさえ難しい。後手に回った結果、悲惨な結末を迎えた場合、その責任はどこにあるのか。無知な若者達に、責任を負わせようとする動きがある一方、依然として、許す動きは止まらない。結局、これらの暴挙の源に関して、考えを巡らそうとする動きが、鈍なままであるからだろうか。傾向と対策の考えから言えば、一つ一つの要因を特定し、それぞれに対策を講じるわけだが、次々に導入される、「便利な」道具に対して、そんなことを繰り返していては、先手を取ることはできない。人間の心理の本質を捉え、目立ちたいとの願望と、秩序を乱す動きとの、均衡を図らせない限り、先んじることなどできる筈も無い。
いつからこうなったのか、さっぱり解らない。そんなことは一杯あるとの指摘も、相変わらずの能天気ぶりで、信用できる筈も無い。問題は、数の論理に押し切られることであり、論理的な正誤に見向きもしない風潮にある。多数に属することが第一とされ、それが恰も正しい道のように扱われる。判断基準の誤りなのでは。
いい人でありたい、と願わぬ人は居ないのかもしれないが、では、いい人とはなんだろうか。誰もに好かれることだと思う人にとって、好ましく思われるとはどんな状態か、聞いてみたくなる。何故なら、彼ら自身が、誰かを好ましいと思う場面では、自分にとっての利害が中心になるからで、厳しい言葉や叱責に対して、喜びを感じる人は少ないからだ。褒めることを重要と見做す風潮では、誉め殺しとしか思えぬ言葉も、好ましく感じられるものとして、受け取られかねない。持ち上げておいて、梯子を外すやり方も、余り問題視されないのは、褒めることが優先されるからだろう。そんな雰囲気の中で、正論だからといって、安易に厳しい言葉を発すると、当然の如く、嫌われる運命となる。煙たがられ、嫌われる人について、人々は、本人が意図せぬ範囲にまで、誹謗中傷を陰で浴びせる。本人の発言の真意は、悪意を持って捻じ曲げられ、悪役としての地位に押し上げられる。彼らの思惑がどこにあるのか、此方側から見てもさっぱり解らない。心地好い言葉に飢えた人々が、こんな行動をとるのかもしれないが、それが社会を構成する大多数となるのだから、正論派はたまったものではない。筋を通すことも、様々な障害に見舞われ、簡単には進められない時代であり、横車がまるで縦に走っているかのように、世論が操作されるのでは、手の施しようもない。まして、正論を吐く人々に、まるで自分達と同じような、悪意に満ちた思惑を押し付けるようでは、世も末となる。とは言え、正論派は、そんなこと位では、めげないものなのだ。
通勤地獄という表現を、最近は耳にすることが少なくなった。では、そんな状態にないのかと見れば、そうでもないらしい。ぎゅう詰めの車両で、周囲から押されて潰されそうな体験は、多くの人が経験している。それでも、嘗ての状況に比べれば、遥かにマシとの声もある。各扉に、押し屋と呼ばれる人が居たのだから。
そうは言っても、毎朝、あの混雑の中、職場を目指す人々の苦労は、経験した者でないと理解できない。朝から、体力だけでなく、気力まで奪われるような状態を続け、仕事に身が入らない人も多いのではないか、と思う。職場の設置場所の問題だったり、住宅事情の問題だったり、各人それぞれに理由はあるのだろうが、これほどの圧力の下、それでも働き続けるのは、何故なのだろうか。最近の傾向では、困難を取り除くのが第一とばかり、環境整備が強く叫ばれているが、一方で、こんな状態が放置されていることに、皆はどんな思いを抱いているのだろう。特に、毎朝、この状態に押し込められる人々は、仕方ないと諦めるしかないのだろうか。転居が容易な年代であれば、通勤の時間と手間を考えて、住む場所を選択できるのだが、ある年齢を越えると、家族での移動が優先され、転居もままならぬ状態となる。その中で、自宅の周囲の環境を優先した結果、通勤が地獄と化したとしても、家族の為と主張するのかもしれない。いずれにしても、様々なことを天秤にかけ、何を優先するかを選ぶことで、自分の生活様式を決めているのだから、それで良いとするのだろう。たとえ、体調を崩したとしても、無理を承知で通い続け、最悪の状況に陥る人もいる。それとて、自らの選択なのだから、と片付ければ、済むことなのかもしれない。でも、と思うのは、命より大切なものがあるのか、少し考えてみたら、ということである。これとても、選択に過ぎないのだが。
下地と言っても、化粧の話ではない。何事にも基礎が大切という考え方には、下地塗りの重要性が出てくる。だが、上辺だけの化粧でも、下地より更に重要となるものがある。誤魔化しを表現する為に、化粧という言葉はよく使われるが、それを施す為には、基礎が重要となる。人の場合、中身が大切、ということか。
小手先の技術を教え込むことに、今の時代は、特に力を入れている。確かに、同じものを見せるのなら、少しでも艶やかにした方が、何かと有利に働くだろう。だが、同じものかどうかの問題に、多くの人の注意は向かっていない。根本とか本質とか、そういったものへの理解を棚に上げたままで、技法の習得に精を出すのは、実は、力の無さを誤魔化す為なのかもしれない。人前で話をする為に、何が肝心となるかについて、意見は様々にあると思うが、誰もが理解できる形にすることが、まずは第一となるのではないか。人それぞれに考え方が違うとはいえ、共通理解に至るための道筋には、論理性が最優先されるべきだろう。話の流れの中で、積み重ねが重要との意見はあるが、多くの人がその意味を理解できず、ただ、自分なりの論理で話を組み立てる。それが他人との共有となるものであれば、何の問題も起きないが、これについて、十分な思考を施さぬままに、自分の意見を押し通そうとする人が増えている。その中で、上辺だけの技法に目を向けさせるのは、本質を蔑ろにし、自らの理解を遠ざけるだけでなく、他人を説得しようとする、肝心の役割さえも無視することとなる。何故、どうして、と考えることが、更なる思考へと結びつくが、そんなことに目を向けず、見栄えの良い方へと、自分を進めていくことに、疑問を抱かぬ風潮には、真の意味での人材育成は、見失われていると言うべきだろう。今一度、大切なものが何かを、真剣に考えるべきなのだ。
別れの季節が近づいてきた。と言っても、学校では既に終えている所もあるようだ。何でも早目にという考えか、終えるのを早くする所があると思えば、始めるのを早くする所もある。まだ、終わっていない内に始めて、何をしたいのか理解できないが、何かしらの考えがあってのことだろう。素直な人々を巻き込んで。
別れに際して、寂しくなる気持ちを表す人は多い。仲間が別れることは、確かに、それまでの付き合いが終わるのだから、同じ気持ちではいられないのかもしれない。過去に縛られる訳でもないだろうが、将来への不安を隠す為にも、寂しさに目を向けているのではないか。だが、過去は所詮終わったことである。これから始まることに、不安を抱くことは、その半面で期待を抱いているのだから、そこから目を逸らしても仕方がない。直面する課題に、真剣に取り組む為にも、過ぎたことを振り返ってばかりはいられない。この考え方に、異論を唱える人は多いと思う。折角築いた友人関係を、失いたくないという気持ちもあるだろうが、一時の別れで失うような関係なら、無かったものとしても良いのではないか。脆く崩れやすい関係を、何とかして維持しようと工夫するのが、癖のようになっているのかもしれないが、弱い関係は、どんなに工夫しても強くはならない。そんなことに心を奪われては、肝心の課題に取り組める筈もなく、結局、何も手に入らない状況に陥る。そんな時の為の友人を、という思いは、逆に道を見失った途端に、消し去られるのではないか。感情を優先する考えは、一部の人の心を占めているようだが、それが仇となることも多い。天秤にかけるのではなく、単純に、自分にとっての意味を考えるだけで、その場その場の行動は、自ずと決まるように思う。それが、寂しさを表さなかったとしても、悪いこととは限らない。