パンチの独り言

(3月16日〜3月22日)
(体裁、大衆主義、強靭さ、お薦め、岡目八目、呟き、無二)



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3月22日(日)−無二

 若者達の友達作りの「ココロ」は、何だろう。一緒に楽しめる仲間から始まり、何でも相談できる相手にまで発展すると、それを聞いた途端に、首を傾げざるを得ない。楽しむのは勝手にすればいいと思うが、相談相手に関して言えば、それを受ける側の気分を理解できるのか、大いに怪しいものではないだろうか。
 いつの時代からか、友達という存在に対する認識は、大きく変わったように思う。時代は繰り返すと言われるものの、この点に関しては、以前には見られなかった傾向が、今の状況にあるように思えるのだ。何が違ってきたのか、一つ挙げるとしたら、察することができない頭にある。個人主義の台頭が産んだ訳でもあるまいが、自己中心的な考え方が、異常なものと見做されなくなり、他人のことを考えない人が、巷に溢れる時代となった。特に、それが進むにつれ、若年層におけるその割合は、急速に増してきた。その結果、互いに互いのことを気遣わず、自分中心の考えをぶつけ合いながら、楽しく暮らすことを目指すようになり、歪みは大きくなるばかりとなる。それでも、自分のことしか見えない人にとっては、この状況さえ異常とは映らず、自分だけが良ければ良いという考えを、見直す機会は訪れない。友達もそんな考えに基づくものだから、自己都合だけで判断され、悪いものは排除すればいいとなる。相手の思いに考えが至ることはなく、何故理解されないのかと悩むのでは、正常な人間関係が築ける筈もない。そんな若者時代を過ごした人々が、いつの間にか、子育てに精を出さねばならぬ世代となり、子供との関係も、正常とは言えぬ状況に陥る。負の連鎖と見れば、まさにその通りなのだが、家族関係とは所詮その程度のものである。親を見て育つ子供達にとって、家の貧しさが問題と指摘する声もあるが、そこに金銭とは異なる指標があることに、この手の声は気付けない。幻想を追いかけるのはやめて、現実を直視する必要性を考えるのが、大人への道ではないか。彼らがこれに気付くのは、死に際なのかもしれないが。

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3月21日(土)−呟き

 誰もが発言できる環境に関して、称賛の声が止むことは無い。そのことに違和感を抱き、問題を指摘したとしたら、どんなことが起きるだろう。まず思いつくのは、所謂炎上と呼ばれる現象だ。発言の誤りを指摘するのが、自らの役割と思う人にとって、発言の機会を与えられたことは、喜ばしいには違いない。
 だが、それが「炎上」と呼ばれる極端な状況に結びつくことを、説明できる人はいない。過剰反応の果てのこと、という解釈はあり得るが、それが連鎖を産むことに、的確な説明を施すことは難しい。仕組み自体が、連鎖を招く形となっているから、というのは当然の解釈だが、それが一時急激な高まりを見せるのに対し、暫く時間が経つと、いつの間にか忘れ去られるという現象に、何がどう働いたのかを指摘することは難しい。庶民の声が世界中に届くことを喜ばしいと見做す人にとって、この手の副作用は、実は必要悪のように扱われる。この解釈について、賛同する人も多いだろうが、本当にそれでいいのだろうか。噂話でも、そんな経緯を辿ると見る向きもあるが、それは物理的な接触をする人々に限られ、不特定多数を相手とするものではない。そんな経験のない人々が、嬉々として耽る発言道具に、罪を押し付けてはいけないのかもしれず、無知を罰することさえ必要との意見も出てくる。組織の腐敗は確かにあったに違いないが、それに加えられる罵詈雑言の中には、根も葉も無いものだけでなく、悪意に基づく嘘や作り話さえ入り乱れる。何故、そんなことが愉快と思えるのか、本人以外には理解できないのだろう。でも、独り言なら、誰も聞かずに済むが、ネット上の発言は、誰の目にも触れる可能性がある。結局、人間自体をどうにかせねば、この事態を解決することはできない。自由と責任は、ここでも語られるべきものであり、意識せねばならない重要事なのだ。

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3月20日(金)−岡目八目

 組織腐敗の要因には、色々なものがあるのだろう。不祥事が重なり、倫理観の欠如などが問題になる程に、腐れ具合が深まってくると、組織自体に疲労が蓄積しているなどと指摘されるが、これは逆に焦点をずらす役割しか果たせず、本質的な解決を妨げることにしかならない。問題の核心に迫るには、照らす光を絞る必要がある。
 次々に噴出する問題事に、組織の問題を取り上げたくなる気持ちも、解らなくは無い。しかし、改革への道を模索する為には、問題の本質を捉え、そこに切り口を見出さねばならず、全体論に囚われては、肝心の道筋を見つけることはできない。そこでの選択として、度々犯される誤りは、問題の本質は当事者でなければ見出せない、という判断ではないか。正しい道を知るのは、その枠の中にある人だけであり、高度なもの程その傾向が高いと思う人がいるが、所詮人の為すことだけに、不祥事の原因となるような、道を外した行為に関しては、部外者とて簡単に見つけることのできる事柄が、散らばっているのではないか。それを見つける為には、その空気に慣れた人間では不適格であり、事情を知らないからこそ、散在する原因を発見できると思う。組織ぐるみの犯罪においても、ぬるま湯に浸かっていたことが、最大の問題であり、それに慣れた人々が、外からならすぐに見つかる原因を、見つけることなど不可能だろう。内側への道を案内するための人材は、確かに内部から選び出す必要があろうが、そこに散らばる問題を精査するのは、外の人間に与えるべき役目に違いない。世間体とか社会的責任とか、そんな言葉で外からの見た目を表すものがあるが、これらを使うと、実は、俗な話にしかならず、これもまた焦点をぼかすこととなる。確かな見識を持つ人を立て、それを中心に問題発掘にあたってこそ、改革の道筋が見えてくるのではないか。何も出来ぬままに、改革を謳うだけで終わる人々は、その多くが、戦略を違えたことに問題があった。相変わらず、肝心なことに気付かぬままに、声の大きさを誇るだけの人が居座るのは、社会全体として、要を見る目がないからだ。

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3月19日(木)−お薦め

 人物を推薦できるかの判断は、どう下しているのだろう。人それぞれに基準が違うにも関わらず、多くの組織はそれを要求する。このしきたりは、この国に限ったものではなく、どんな国にもある。ただ、その中身に関しては、かなり違ったものとなる。それを唯一の材料と見做すものあり、単なる儀礼的なものもある。
 推薦できることを書くのが推薦状と言われるのが、この国では常となっているが、必ずしもその範囲に留まらないものが、流通している国もある。人物の長所ばかりを書き連ねるものが、当然と見る向きが多いようだが、短所を書いてはいけない、というわけでもない。だから、厳しい意見も交えて書かれるものもあり、読む側が考慮なく処理すると、逆効果のように扱われることもある。だが、長所だけの人間がいないことは、誰の目にも明らかなのだから、贔屓目とはいえ、少し割り引いた形で受け取るくらいで、短所が並ぶ場合には、正直な意見と見做すことも必要だろう。それによって、推薦状の信頼性が高まるのなら分かるが、逆に、推薦されていないのだからと決めつけてしまっては、書いた人間の気持ちを蔑ろにすることになりかねない。形式だけだからとか、中身を評価するわけではないからとか、何の目的なのか分からなくなる話も多いが、たとえ儀礼だとしても、書く側も読む側も、互いを尊重する気持ちがないのなら、止めてしまった方がいいのだろう。これは一方で、推薦される側の責任にも及ぶことだろう。何を根拠に推薦されたのか、考えもしない人間が、ただ単に進路を切り開く為の方便のように、この制度を受け取っているようでは、これもまた止める理由となりそうに思う。

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3月18日(水)−強靭さ

 自分達は正しいことをしていると、いくら信じていたとしても、世間がそれを認めなければ、社会的には通用しない。こんな話は、いつもどこかで起きており、組織の認識の甘さを指摘する、批判の声が高まっている。時に、攻守交代となり、非常識を厳しく指摘していた人々が、矢面に立たされるのには、戸惑うこともある。
 それにしても、組織内から見ると、なぜ、その過ちに気付けないのだろうか。それぞれで通用する論理が、外で通用しないことに気付かないのには、何か共通した事柄がありそうに思える。そんな分析を繰り返す人もいるが、現実には、その度ごとに、全く違った様相を示すから、大して役に立たないことの方が多いのではないか。それでは、間違いが繰り返されるばかりで、それを避ける手立てが見つからない。と心配する向きもあろうが、実際は、外も内もなく、どこでも通用する論理を導けばいいだけのことである。それができるのなら苦労はしない、と反論する人の多くは、仲間とそれ以外を明確に区別し、その違いを取り入れることで、自らの論理を正当化することを繰り返す。仲間意識は、確かに重要な事柄には違いないが、それに縛られることで、過ちを繰り返すのでは、何の意味も無くなるだろう。情に流されることに、厳しい批判を浴びせる人に限って、自分が絡む話では、そんな行動を取ってしまう。その最中には、そのことにさえ気付かぬ訳で、結局は、冷静な判断をするだけの心を持ち合わせていないのだろう。仲間から冷たいと文句を並べられる人に限って、こういう時の判断は的確なものだ。その時になって初めて、その人の価値を見出せたとしても、結局は、大勢に影響が無いままに終わる。要するに、それまでの流れを断ち切り、急激な変化を起こせるほどに、人の心は強くはない、ということなのだろう。

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3月17日(火)−大衆主義

 流行の先端を追いかけることが、何よりも大切と思う人が居るだろう。時代の流れに取り残されず、皆と同じ所に居ることこそ、彼らにとっての大事となる。ただ、その多くは、それ以外の考えはなく、流れに乗っているだけのことだ。流れを作り出す訳でもなく、何か新しいものを産み出す訳でもない。
 それでも、流れに乗っていさえすれば、安心というのだろう。ネット社会でも、そんな人は数え切れない程居て、互いに刺激し合うかの如く、同じ話題を書き連ねる。話題に上り始めた途端に、その成長曲線は急峻となり、一時、止まる所が無いように映る。だが、所詮、限られた世界の中の出来事であり、その上、流行を追う人の移り気は、逆方向に一気に働き始めるから、あっという間に忘れ去られてしまう。特に、考えを加える人を除けば、多くは、単に流れに乗るだけだから、記憶にさえ残らぬことの方が多い。一方で、考えを加える側も、大したものでもなく、根拠もない反論や持論を展開するだけだろうから、話題にならなければ、興味も失われてしまう。こんな流れに乗せることに、一部の人達は躍起となるけれど、どれ程の意味があるのかと思ってしまう。本を読んだり、新聞を読んだりすることで、様々な情報が頭の中に入ってくるけれど、多くの人々は、その大部分をすっかり忘れてしまう。それでこそ、新たな話題に取り組めるとの解釈もあるが、果たして、本当にそうなのだろうか。どちらかと言えば、元々、何の興味もないくせに、勝手に祭り騒ぎに参加しただけで、そのこと自体に興味がある訳でもない。その程度の人を、こんな形で相手にしなければならないのは、一種の大衆主義なのだろうが、今の所、悪い面しか見えてこないのではないか。

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3月16日(月)−体裁

 誰も間違いを犯そうとする訳ではない。性善説のように扱われる説明だが、実際の所は、そんなに大層な事でもない。ただ単に、それぞれが、自らの正しいと思った事を為しているに過ぎないのだ。にも拘らず、何かの拍子に不祥事が発覚すると、まるで全てが誤りかのように扱われる。何故だろうか。
 不祥事は悪いことの結果だから、そこに間違いがあったのは当然、との解釈があり、それが全ての流れを決める。皆が当然と考えるのだから、この考え方に誤りはない、とされる所だが、常に正しいかと当事者に問えば、全く違った答えが返ってくる。彼らからすれば、正しいことの一つを選び、それをきちんと為したにも関わらず、間違った方向に歩む結果となり、自分達も何処で道を違えたのか、分からなくなっているからだ。だから、間違いはなかった、と結論付けては、過ちを正すことはできない。多くの人が、どんな意図があろうとも、善意の末の結果としても、間違いは間違いであり、過ちは過ちであるとすることに、反対はしない。それが世論を構成する訳だが、その先の流れとなると、少し事情が異なってくる。本来、過ちを正す為の改革と見做されるものも、世間への対応が優先された結果、実質より表面的なものが優先され、根本的な解決より上辺の変革が注目される。結果として、解決に結びつけば、何の問題も残らないのだろうが、表面の整備で済ませたことが、後々、別の問題の噴出で不備を指摘される訳だ。本質的な問題を放置し、化粧を施すように繕う形では、結果として、根本的な解決は達成できない。確かに、時間との戦いもあるだろうが、急ぐあまり、肝心な事を抜かし、応急処置に終わる話はどこにでもある。本人達にしてみれば、その場で全力を尽くした結果だから、何の批判も受ける筈は無いと思うのだろうが、問題の本質がどこにあるのか、時間をかけて掘り出す必要があるのだ。当たり前に思える手順だが、根深い問題ほど、こんな始末で終わってしまうことが多い。

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