一方的な力関係が好まれる時代なのかも知れない。弱者救済に奔走する人々の姿が、これほどに取り上げられるのも、実は、強弱の二極化が明確にされているからで、ある時代に持て囃された中庸の考えは、既に過去のものとなったようだ。では、そんな社会情勢の中、自らの位置を何処に置くべきか、どんな考えが主流なのか。
特定され難いと言われる仕組みの中では、攻撃側に加わる人の数が、急激に増えている。ただ、彼らの心情としては、自らをちっぽけな存在と認め、弱者の側に属するものとなっているようだ。だからこそ、数の力を頼みにして、同じ言葉を繰り返し使うことで、攻撃の手を緩めぬように動く。病的とも思える程、反復を続ける行動には、自らの弱さを晒さぬように、との思いがあるのかもしれない。だが、標的とされた人々も、元々同じ心情を持つのであり、攻撃に晒される中で、逃げ場を失うことは、自らの存在を消そうとする決断に繋がりかねない。小さな存在であり、弱い立場にある人々は、全体を見渡すこともできず、瑣末な事に拘る訳だが、だからこそ、立場を入れ替えた場合を、思い描くことさえできない。強者が、共食いに似た状況を避ける為に、勝負が決した時に、手を止めるのも、強いからこその行動であり、弱者には、その芸当はできない。だが、弱者に与えられた道具は、そんな事情を汲むことなく、息の根を止めることさえ気付くことなく、破壊を続ける訳だ。人の心は、本来寛容さを持ち合わせず、残虐さがふとしたきっかけで表に出る。それが攻撃に加われば、最悪の結末を招くこととなる。だからこそ、倫理や道徳などが強調され、信心に触れることが多くあるのだろう。その歯止めを失ったら、互いを傷つけ合うことが更に高まり、自滅への道を突き進むことになるのではないだろうか。
小さな扱いで、気付いた人も少ないだろう。だが、当事者にとっては、自らの履歴についた、大きな傷として残る一大事である。資格の取得に向け、地道な努力を積み重ねる話を、何度か取り上げてきたが、広告で流れるような、一時の努力で達成できるものではなく、数年の積み重ねを必要とするものだからこそなのだ。
研究という世界では、地道な努力は当然のものとされ、その上で輝く業績を積み重ねることが、機会を得る為の唯一の手立て、とされてきた。だが、近年話題となることの多くは、捏造や改竄といった不正であり、事実ではなく創作とされた成果では、自らの職を失うこととなる場合もある。国内の頂点に位置付けられる大学での不正も、次々に発覚するばかりで、競争社会の歪みの典型とも目される。職を賭してまで、成果を追い求めることで、嘘に塗れた実験結果を提出した人々にとって、失うものは確かに大きいが、その陰で、出発点に立つより前に、自らの将来を断たれた人の存在には、人々の注目は集まらないようだ。三面記事の隅に置かれた、小さな記事では、研究不正の結果を基に、博士という資格を手に入れた人々に下された、厳しいが、正当な処分の報道が為されていた。上司の命令でとか、上司の圧力によりとか、そんな言い訳は通用しないが、集団として進められた研究では、教えを乞うた人々にも、加担の責任が問われる。微温湯とは違うだろうが、ある目標に向かって驀地に突き進む集団行動では、その正誤の判断力が失われることもある。だからと言って、職を得る為の資格を得ようとした人々にも、責任があると断定するのはどうか。恐らく、安易な決断によるものではなかったろうが、組織全体の責任としたのだろうか。はたまた、一度手を染めたら、その色を抜くことは困難で、その道を断つことこそ、重要と考えたのだろうか。何れにしても、欲に駆られた人々には、何が禁忌なのか見えないのだろう。
もっと気楽に考えたらとか、堅苦しい考えについていけないとか、そんな声が聞こえてきそうだが、本当にそうなのか。この独り言を書いていて、我ながら、世間一般の見方とは違うな、とは思うけれど、それが気楽とか堅苦しいとか、そういう感覚の問題のように受け取られると、見抜けぬ人々に、がっかりさせられる。
それにしても、結果さえ良ければ、という思いを抱き、不正を働いたり、規則を破る人が居ることに、多くの人は疑問を持たないのだろうか。周囲を見渡してみても、自らの利益になるのなら、不正に加担することも厭わない、と思っている人が多く、驚かされる。議論の道筋とは、論理的に処理をすることだけでなく、正常な手続きを経ることが、組織においては欠くことのできない条件となるが、それを無視してもよいと考える、傲慢な人々の存在に、多くの組織は悩まされている。法令順守を当然とできず、利害を優先して、決定事項を処理する姿勢には、個別に説得するような時代錯誤があり、詐欺まがいの行為さえ、正当化しようとする倫理観の欠如が目立つ。こんな状況だから、道徳観とか倫理観とか、人として持つべき見方の重要性が取り沙汰されるのであり、皆が、それを当然のものとして保有していれば、こんなことを改めて取り上げる必要もない。だが、多くの組織で、問題が噴出した際に検証されるのは、この手の不正に、何の罪悪感も無しに手を出す人々の存在であり、彼らにとっては、周囲に対して、好ましいと思われたことをしただけ、という思いしか残らないようだ。過ちを犯さぬ為と、様々に巡らされた手順に関しても、権力を持つ人々にとっては、何時でも無視できる存在としか映らないらしい。だが、所詮、不正は不正であり、悪行の果てには罰が待っているのである。それらに対して抱いた違和感を、ここで紹介することは、単に筋を通しているだけに過ぎず、現実の世界でも、それを実行しているだけだから、嫌われる存在となってきた。だからどうした、という思いしか持たないのだが。
互いの事情を考えた上で、決められた時期の変更の筈だった。候補としての要件を満たすかどうか、何の保証も無いのに、次の段階へ進もうとするのはおかしいとの指摘や、十分な教育を受けないままに、不安混じりの活動をすることへの懸念が、多方面から出されることで、当事者達が重い腰を上げたというのが実情か。
変更に対する不安は、誰もが抱くものかもしれないが、それを煽るのが役目なのかと、疑いたくなる業界の人々は、例の如くに扇動材料を並べ立てている。期間短縮により、十分な活動ができなくなるとか、それが原因となり、誤解を解く機会が奪われるとか、確かに、それぞれにはそれなりの説明が加えられており、納得できるものも多いが、基本姿勢として、不確定な要素を、一方的な決めつけにより、自分たちの主張への好材料として扱う。だが、確実でないものは、どちらにも転がる可能性があり、何の確証もないのだ。40年近く前には、最終学年の半ば頃に始められていた活動期間が、ある時代を境に、急速に早期化が進み、一部の不安を煽る形で、それを正当化する動きが大勢を占めてきた。だが、その根拠は希薄であり、何の意味も無く、早まるばかりの状況に、若者たちの心は振り回されてきた。結果として残ってきたのは、大したことのない人材の、まるでゴミの山の如くの状況であり、バブル期の負債は依然として解消されないままに残る。焦りを基本とした動きには、拙速ばかりが目立つこととなり、ごく一部に限られた好材料に助けられているに過ぎない。既に、ひと月が過ぎようとしているが、多くの活動は、例年と変わらず、できる範囲で始められている。それでも報道は、自らの誤りを認めるつもりはなく、小さな不安を巨大化しようとする動きは止まらない。情報に惑わされる若者たちに、明るい未来があるかどうかは、これを機会に、自分を見出せるかにかかっている。
世間知らず、と言って仕舞えば、それまでだろう。自分達の世界だけで通用する考えに、様々な問題が噴出した後も、しがみつく人の言動には、厳しい批判の矢が向けられる。正しい考えであれば、何の問題も生じなかった、とされてしまうと、おそらく反論の余地は無い筈だが、それでも抵抗を試みる姿には、違和感を抱く。
何の問題もなく、普通に業務が進められていれば、批判の声を浴びることもない。だが、発覚した後で調べてみると、何の問題もない、とされていた期間でさえ、多くの種が蒔かれていたことに気づかされる。後になって何故、と首を傾げる人々は、その最中に問題に気付くことさえなかったようだが、一部には、気づいていながら看過していた人も少なくない。本来ならば、これらの人々に対しても、批判が向けられるべきと思うが、一度起きてしまった問題に対して、殆どの批判が向くだけに、そちらに目を向けることは少ないようだ。ただ、こんな事例に何度も接すると、彼らの抱えてきた問題が、実は、気付かぬことにあるのではなく、気付いても知らないふりをしていたとか、気付いても問題となるとは思わなかったとか、そういった一種の責任感の欠如に似た点にあるのではないか。そうなると、気付く為の方策だけでなく、気付いたとしての対応策についても、もっと整備する必要があるとなる。あれもこれもと欲張れば、すぐには構築できなくなるとの心配もあるが、同じ轍を踏まない為にも、そこまで徹底する必要があると思う。当事者たちの能天気を批判することは簡単だが、内部だけでなく、周辺においても、気付きを忘れた体制や、問題指摘への躊躇を招く体制に、今一度目を向ける必要がある。一度失われた信頼を、取り戻すのが困難なのは、これほどに明らかなのだから。
再び、傲慢とか、無責任とか、そんな声が聞こえてくるのではないか。それとも、既に忘却の彼方へと去った話題に、今更何を、という声に変わるのだろうか。愈々退く時期が来たとの判断か、任期途中での会見の報道には、いつの間にやら後任の人事まで付け加えられていた。だが、真意は伝わらないままのようだ。
世間を騒がせた責任が何処にあるのか、喧しい人々は相も変わらず、同じ論調を保っている。互いに譲ることなく、平行線を辿る質疑には、相互理解の気持ちは微塵も感じられない。自らの信じる所に立ち、その姿勢を崩さぬ所長に対し、世論を味方として、自らの判断を検証することなく、走り続ける報道陣、どちらも自らは正しいと信じているようだが、その根拠には大きな違いがある。一方は、自らの考えに基づくものであり、些細なことでは揺るがないものがあるが、もう一方は、元々揺れ動きやすい大衆の心を拠り所とし、熱し易く冷め易いばかりか、些細なきっかけを端緒に、正反対の反応が生まれるのだ。それでも、未だに世論誘導は効果を保ち、会見の様子は、まるで悪者を吊るし上げるかの如くの様相を呈していた。ただ、世論がどうだろうが、庶民の考えがどうだろうが、あの世界の根本となる考え方に関して、当人の判断は揺るぐ筈も無く、同業者からは賛同の声が上がるだろう。だからと言って、全ての判断が正しかったとは言えないことも事実で、特に、発表とその直後の報道への広報に関しては、明らかな事実の歪曲と暴走にも似た姿勢があったことも事実である。この点に、件の人が触れなかった理由に関しては、推測に過ぎないが、隣の席に座っていた人物の、大きく言えば部下たる人間が、当時、任に当たっていただけに、批判しきれなかったのかもしれない。いつの頃からか、広報を重視する圧力が、上から降ろされ、その役にあたる人間を送り込むことさえあると聞く。この事件の元凶は、その人物にある筈だが、異動により別部署に移ったようだ。これこそが、あの組織の体制の問題と言うべきではないか。
友人関係でも同じことだと思うが、社会の対人関係において、「信頼」の二文字が、極端に重視されているように思う。信頼はあってしかるべきもの、との受け取り方は、最近の傾向として、ごく少数派となり、何事にも、まずは信頼を勝ち取る必要が強調される。だが、前提にないものだけに、確かなものにするのは難しいようだ。
その典型と考えられるのは、所謂、安全安心の保証に関する話だ。信頼関係の中で、均衡が取れた所に落ち着くのが、従来の考え方だったが、あの事故以来、極端な要求が異常とは見做されず、達成不可能な目標さえ、設定され続けている。現実には、事故が噴出のきっかけになったとはいえ、それ以前から、自己責任は果たす気のないまま、他者の責任には厳しい姿勢で臨む人の数が、急速に増えていた。本来なら、無責任の権化とも見える存在に、社会からの承認がなされることはなく、孤立した人々との図式が成り立っていたが、そこに、非常識な発言ほど、急激な勢いで拡散される仕組みが確立し、孤立していた筈の人々が、非常識という共通項により、繋がる結果となったことで、一気に勢いを増すこととなった。常識を構成する人にとって、このような流れは、まさに想定外のものだっただけに、不見識を戒める発言は、大多数の力により粉砕される。弱者や少数派が勢いを得ると、碌でもないことが起きるとは、流石に言い過ぎなのだが、一見、人権の保障という考えが、市民権を得たと思えるが、実際には、他の人権を奪おうとする勢力が、台頭した結果に過ぎない。「信頼」も、肝心の社会的基準ではなく、個人の偏見に満ち、揺れ動く基準により、判断されるだけに、それを得ようとする努力は、無駄になるだけだろう。確かに、悪事や不祥事に問題があったことは事実だが、それを是正する為の手立てを講じる際に、信頼を回復することを目標とすると、とんでもない結果に繋がる可能性もある。