花の便りが次々と届いたのだが、その後、寒の戻りがあって、悩まされた人が多いようだ。季節の変わり目に特有の不安定な天気に、春の訪れを喜んだのも束の間、仕舞いかけた衣服や暖房器具に、再びお世話になることとなった。自然は期待通りにはいかない、ということは、頭ではわかっていても、体はついていかない。
急変に体調を崩す人もいるだろうが、同じ環境にほんの少し前まで居たことを考えれば、それ程気にすることもないのではないか。それこそ、体は徐々に慣れるけれど、頭がついていっていない感じさえする。春の便りが届いたのだから、ここからは暖かさが増すだけ、と思い込んでいたところに、急激な気温の低下と雨に襲われ、不安定な状態に追い込まれる。これを精神的な不安定と結びつけるのは、少々乱暴な話だが、そんな落ち込みを経験する人もいるのではないか。元々、木の芽時と言われ、心の不安定に見舞われる時期だけに、体の不調を来すような変化には、敏感になる人もいるだろう。ただ、こんな変わり目に思うのは、変化に一々対応しようとせず、暫く様子を見るくらいが、適当なのではないかということだ。あれこれと考えることも、時には重要なのだろうが、季節の変化は、必ず起きることであり、それから外れたことがあっても、どこかで戻されると思えば、無理に反応するまでもない。不安定だからこそ、そんな反応を繰り返し、体の疲れだけでなく、心も疲れさせることで、落ち込んでいくとしたら、始めの部分で無理をしないことが、重要になってくるように思う。確かに、寒くて暗い日々が続くと、心まで影の部分に追いやられる気がする。でも、気にせずに待てば、日が差してくるのだから、ただ、そのままに待てばいいだけのことだ。
大衆の感覚とは、との思いが過ぎったことの一つに、例の万能細胞の作り方に関する、研究結果の捏造事件がある。忘れ易い人々は、もう全てを過去のものとして、記憶の奥底にしまいこんでしまっただろうが、あれほどの大騒ぎを演出しながら、不確かな報告しか流れてこないことに、苛立ちを覚えた時もあったのだ。
夢の技術とまで呼ばれたものが、実は、研究者の作為による捏造であったことは、大きな期待を抱いた人々からすれば、裏切られたという感覚のみが、残ったのだろう。だが、その経緯が検証される中で、決定的な事実が発表されたとしても、その責任が誰に帰するものなのかが、語られなかったことに、不満が残った人が多いようだ。特に、何故、そんな間違いを犯したのか、という点に関して、答えを望む人の数は非常に多い。その状況に、一番大きな戸惑いを覚えているのは、研究者なのではないか。何故、間違いを犯したのか、などという考えに囚われることは、この手の人種には、殆ど経験がないことだろう。得られた結果が正しいかという検証を、様々な方法で行うことは、当然の手順と見做す人にとって、その中で、違いが出た原因は何か、という項目に関しては、常に興味を持ち続ける必要があるが、そこに、人の心が介入するような話は、殆ど意味を持たないからだ。夕食は何にするか、などといった、他のことに気が奪われて、失敗を犯したという話はあるかもしれないが、それを確かめたところで、何かが解る筈もない。更に言えば、捏造を実行する人々の心情を、何かしらの手段で確かめたとしても、そんなものは、研究を行う上で参考にできる筈もない。こんな当然のことを、躍起になって追い求める人々の頭には、凶悪犯罪や重大犯罪を実行した人々の、裁判の上での「動機」の検証があるのだろう。何かある度に、何故それをしたのかと確かめるのは、日常ではよくあるが、犯罪の動機を、大衆が知ることに何の意味があるのか。理解に苦しむ。
自分の選択は正しかったのか、そんな考えに囚われる人が、そろそろ現れ始める時期ではないか。決断を経て、今の自分があるのだと思っても、戸惑いを覚えると、心が揺らぎ始める。闇雲に突き進む性格の人を除けば、誰もがそんな思いを抱くのだが、それに縛られてしまうと、先に進むのが難しくなるらしい。
何が正しいのか、それを決めることは簡単ではない。正しさを検証することは、一つ一つの事例に関して言えば、できない訳ではないだろうが、やり直しができない中では、検証も空しいものとなりかねない。当人は、悩みに沈んでいるからこそ、そんな考えに囚われるのだろうが、周囲から見ると、もう少し様子を見てはどうか、となる。時間が解決する場合も多く、経験者ほど、その点を強調するが、渦中の人間にとっては、この考えは救いとならないことが多い。安易な選択と見做されることが多く、親身に相談してもらえていない、と思うことさえある。人との関わりが濃くなることで、この辺りの関係は難しさを増している。以前なら、見て見ぬ振りができたものでも、最近は、声かけを始めとして、関わりを持つことが要求される。上に立つ人間だけでなく、周囲の人間全てが、その範疇に入れられるから、自分のことだけ考えていればいい、とはいかない訳だ。時に、それが悪影響を及ぼし、自分だけで精一杯の人間が、他人の悩みを引き受けることとなる。他人の為に、という考え方は、確かに重要なものだろうが、手一杯な人間が、そんなことに手を出したとしても、負荷が増すだけだろう。優しさが好まれる時代には、無視することは禁忌の行為と思われるようだが、実際には、見守ることの大切さを忘れがちなのではないか。見守る為に声かけを、というやり方もあろうが、遠くで見ているだけでも、気持ちが伝わることもある。強すぎる依存が、様々な障害を産み出している時代なのかもしれない。
様々な場面で、能力の有無が問題となる。特に、最近の傾向は、右肩上がりの上昇を実現するための能力より、下降を防ぐ能力や窮地を脱する能力に注目が集まり、活躍の場を与えられた時より、土壇場に追い込まれた時の振る舞いにこそ、真の力が発揮されると見做される。どちらにせよ、必要な力があるのだろう。
混乱の中で必要となる能力には、色々なものがあるのだろう。問題を見出す力は、解決へ向けての手立てを講じる為に、なくてはならないものに違いない。それまで、放置され続けてきた課題に向き合ってこそ、解決が目指せる訳で、目標を定めぬままに進めば、迷走が繰り返されるだけとなる。解決を急ぐ余り、見極めを怠ったままに方策を講じれば、逆効果も含め、多くの過ちを繰り返してしまう。ここでも、急がば回れと言われる如くに、暫しの時間をとってでも、問題を列挙する必要がある訳だ。時間さえかければ、それなりの結論は見出せる、と思う人はいても、それが実行に移せないのは、決断力と呼ばれる力がないからだろう。能力と言っても、技術的なことばかりに目を向ける人が多いが、実際には、決断力を始めとする、心の力というものによることが、多くあることに気付いて欲しい。議論においても、強引な進行を押し通す人がいるが、それが意図に反する結果に終わった時やその後の展開に痼りとして残る場合には、時に、引き下がることも必要となる。期限のあるものでは、特に急がねばならないことが多いが、だからと言って、慌てることは何かの失敗を招くことになりかねない。やり直すことも含め、議論を尽くした上で、好ましい結論を導く為には、押し通すことより、引き下がることが大切となる訳だ。そこでの決断は、自らの賛同者も含め、全体的な反対を導くこととなるかもしれず、失敗の烙印を押されることへの恐れが、踏み切ることを止めかねない。だが、そういった時こそ、何が重要かを見極め、時に、重大な決断を下す必要がある。この際に必要となるのは、小手先の能力ではなく、胆力と呼ばれる心の力なのだろう。実は、能力の有無が取り沙汰される中で、多くの場合、胆力の欠如こそが問題なのだ。
信用という感覚が、これほどに取り沙汰されるのは、未だ嘗て無かったことのように思われる。一方、詐欺に巻き込まれるなど、騙されたという事件が報道されない日は無い。だからこそ、信用が重視されるのだ、と解釈する人もいるだろうが、騙されたことは、本当に、信用の感覚と結びつけられるのだろうか。
信用していたのに騙された、と言う人の言葉に、同情の念を抱く人もいるだろうが、その一方で、なぜ、あの人のことを信用したのか、という疑問を抱く人もいる。誰彼なく、借金を申し込む人のことを信用して、金を貸したとしても、それが返ってこないことに、疑問を抱く人は少ないし、同情の声は起きない。人を見る目がない、とまで言われる始末に、被害にあった人は、自業自得と言われている気分になるだろう。昔は、こんな図式が描かれていたのだが、最近の騙される事件には、全く違った様相がある。見ず知らずの人間に騙されるのだが、彼らが身近な人間を演じることで、それに巻き込まれるから、信用という感覚を逆手に取られた、と言われることも多い。だが、確かめもせずに、鵜呑みにする行為には、信用という感覚の変化が感じられる。全面的な信頼といった感覚で、信用という行為を考える人たちは、結局、騙される運命にあるとしか言いようがない。昔も、困っている人を見ても、自分の力を超えるような援助には、厳しい態度で臨むということが行われていた。それにより、被害に遭わずに済んだ人も多かっただろうが、罵声を浴びせられたり、逆恨みにあうこともあり、心理的な圧迫はかなりのものだったのではないか。今、よく話題にされる中では、恨まれるよりは、金銭的な被害を、といった感覚が見られ、良い人でいたいという思いが、どこかにあるように感じられる。こんな人々には、他人に良い人とは、どんなものかを考えてみては、と言いたい。
限られた地域でしか動かず、同じ景色を見慣れた者にとって、少し足を延ばしてみると、大きな変化に驚かされる。国土の狭さは、今更言うまでもないことだろうが、その一方で、気候や季節の変化の豊かさに、この国の特徴が表れていると思う。特に、季節の変わり目は、地域による違いが著しく、その差が大きくなる。
トンネルを抜けると雪国だった、とは、誰もが知る小説の一節だが、まさにその通りの風景に、驚かされた。こちら側では、標高は高くとも、春の訪れを告げるように、咲き誇る花々が景色を埋めていたが、あちら側は、豪雪地帯の真っ只中とはいえ、人の背丈ほどの残雪が、景色を埋めていた。寒々とした光景には、春の気配も感じられないが、土地に住む人々にとっては、全く違った感覚があるのだろう。入学式へと向かうと思しき親子連れの服装は、春を思わせるものとなっていて、こちらの気分とはまるで違った様子なのだ。真っ白な背景の中で、新たな旅立ちへと向かう人々には、花散る中でその気分を盛り上げる地方の人々とは、全く違った感覚が芽生えるのだろう。国全体の繋がりが強まり、画一化が進んだとはいえ、やはり、気候や季節の違いは、歴然としているのである。その違いを無視して、何でもかんでも、一つにまとめようとする動きに対して、こういう地域の人々は強い反発を覚えるのだろう。表と裏と呼ばれた時代も、反発は強かっただろうが、その差別的な呼び名を使えなくした後でも、結局は、反発が弱まることはない。強引な施策が実行される限り、それに巻き込まれる人々の心は揺らぎ続ける。人の心への配慮が、これほどに重視される時代も、嘗て無かったと思うが、それが蔑ろにされているからこそ、強調されているのではないか。
危ない物が見つかった時、どうして欲しいと思うのか。多くの人が、誰かにきちんと管理して欲しい、と思うのではないか。他人任せ、と言ってしまうと、まさにそのように思えるかもしれないが、危険物の管理に関して、国が定めた資格があることからも、社会として、そういう仕組みになっていると考えるべきだろう。
だが、そういう知識を持たない庶民にとって、危ない物は、遠ざけたいと思う以外に、何も考えることはないのではないか。爆発や火災など、大事故に繋がると思えるものは、人口密集地には設けないとされるのは、大した知識を持たなくても理解できる。だが、人間に悪影響を及ぼす可能性があるからと言っても、そこに在るだけでは、そんなことは起きない、という物まで、遠ざけようとする心理には、かなり違った感覚があるようだ。産業廃棄物も、置かれただけでは危険とはならないが、不適切な管理から、液体の漏出が起きたり、出火などにより有毒なガスが漏れれば、人的被害も出てくることとなる。管理する側の問題を、周辺住民が危惧することに関して、それを妨げることは難しく、また、想像の域を出ないことに関して、確定的なことを議論することは難しい。最近の傾向は、少しでも可能性があれば避けるべき、との考えが大勢を占めるのだが、避けることが続いたことで、時に、押し付け合いにまで発展することまで起き始めた。必要悪とは言いたくないが、明るい面を追い求めた結果、暗い面を受け入れなければならない、という事態が、起きているのだろう。放射性廃棄物に関して、管理を任されるのは、危険物と同様に資格を有する人々だが、その場所に関しては、管理区域に限定される。だが、事故により拡散したものに関しては、区域は限定できず、広がったものを集積する必要性が論じられる。ただ、世論として問題となっているのは、何処に集めるかに限られており、ここでも遠ざけたいという気持ちが、前面に出ている。この類の物質では、危険度を下げる手立てとして、集積より拡散を優先させてきたが、この問題では、それは選択外の手法とされる。一方で、毒物としての効果が時間経過と共に失われることも、理解を妨げる要因となる。専門とする人の議論ではなく、庶民の意見が優先される時代に、この辺りの遣り取りは、簡単には終わりそうにもない。