この国の言葉で表せば、私刑となるのが、リンチと呼ばれる行為である。近年問題視されている「イジメ」とは、異なる行為だが、法によらないものであることでは、大差ないのだろう。ただ、イジメは陰湿なのも含め、差別を意図するものであるのに対し、私刑は、裁くことが中心となる。時に、行き過ぎれば殺人に至る。
西部劇の映画の中で、大きな木から吊るされた縄の輪に、首を突っ込む光景があったが、無法者を裁く行為として、当然のものとされたようだ。さて、現代に戻ってみると、同じような行為が放置されていることに、気付かないだろうか。以前から、電波に乗せる形で、個人攻撃がなされていたが、彼らは、法律に縛られる部分もあって、制動がかかることが多く、行き過ぎは厳しい批判に晒された。それでも、実質的な罰が下されないのでは、自制心を失った人々に、効果を示すことはできないとばかり、自分たちが中心となって構成した組織が、目付け役を果たすような仕組みが取り入れられた。ただ、その効果の程は定かではない。様々に指摘され、自粛などの措置を行う姿には、何かしらの反省が表されるが、何度も繰り返されることからは、根本解決が成されていないことが分かる。公共電波という、法律に縛られた世界でさえ、こんな状態にあるのに、何の規制も受けない仕組みでは、極端な言動が罷り通るのは、仕方ないことかもしれない。人間の性、と言ってしまえば、それまでなのだろうが、ここまで凶暴さを増すのには、性だけで片付く話でもないようだ。普段の大人しい姿からは、想像がつかないほどの暴言の数々に、多くの人が驚く事例は、数え切れない程出ている。所謂、SNSを介した意見表明に、「死ね」とか「生きる価値なし」とか、その手の暴言が並ぶことも、最近は珍しくない。その上、それらが連鎖発言の仕組みを用いて、膨大な数に変貌し、絶えることのない誹謗中傷が続く。中には、誤解や捏造による、明らかな誤りもあるが、数はそれをも覆い隠す。確かに、批判の対象となった人の行為には、正当とは言い切れないものがあるだろうが、それを、こんな形で裁こうとするのは、例の西部劇でのハンギングと変わらぬものがある。これこそ、私刑なのだ。
眉をひそめたくなるような話題が、続出する事態に、世紀末は言い過ぎとしても、道徳や倫理の欠如が、人の生活を脅かしている、と考えたくなる。人として当然の考え方が、道徳や倫理の基本となる筈が、いつの間にか、とんでもない考え方が罷り通り、常識が通用しない社会となった。その中では、非常識が常識かも。
人が人を裁く行為に関して、リンチと呼ばれるやり方が通用した時代もあったが、個人の怒りに基づく手法は、社会制度が形成されるにつれ、忌避されるようになった。そこで登場したのは、当事者以外が裁く方法であり、それにあたる組織が裁判所と呼ばれ、そこで法律に通じた人々が、裁きという作業を担当することとなった。今や、当然の仕組みであり、法治国家を支える大切な組織であるとの認識が、世界中で持たれている。個人間の紛争から、国家間の紛争まで、小さなものから大きなものに渡る、様々な問題を裁く役割には、かなりの責任が伴うように思える。ところが、腐敗した社会における「裁き」には、大きく違った様相が見られることに、眉をひそめたくなるのだ。金銭が絡む問題で、有利に働くように、互いの代弁者が滔々と語る光景に、嘘も真となると呼ばれたこともあったが、それより不思議に思えるのは、利害の絡む問題を解決する役割で、何事にも首を突っ込まなければならない状況に、法律に明るいだけで判断ができるのか、理解に苦しむことがある。不明確な利害を対象とすることも、大きな問題だが、理解には専門的な知識が必要となる事例に関しても、庶民感覚で判断を下すなど、裁く責任を十分に果たしていないと思えることが多い。地震が起きないと主張した科学者を、有罪と断じた外国の裁判は、驚きをもって報じられたが、この国の科学者の言動に、大きな影響を及ぼしたことは確かだろうし、発明という業績に対する報酬を、その背景を十分に理解できない人物が、判断したことに賛否両論が起きたのも、この仕組みの問題を表したものと映る。そこに、原発再稼動差し止めの判断が下されたと報じられても、何がわかるのかと思うのは当然では無いか。それを、多様な見方を必要と、主張する人がいたとしても、愚かな行為としか思えない。
あれもこれもと要求されているのでは無いか。大学の役割は何なのか、そんなことを思うことも無い時代に、続々と押し寄せる要望に、現場は対応に苦慮しているように思う。世間の風が冷たくなった、との思いがあるせいか、吟味する余裕などなく、場当たり的な対応に終始する。その中で、本来の目的は、見失われたらしい。
手近な目標を設定し、その克服を目指すことが、世の趨勢になってくるにつれ、要望が寄せられることは、恰も良い状況のように受け取られるようだ。本来ならば、余裕を持って、要望の内容を吟味し、選別することから始まる手順が、どっと押し寄せる状況に、対応が追いつかず、ただ右から左へと仕事を流すような状況に陥る。選ぶことに時間がかけられれば、自らの役割についても、じっくりと考えられたのかもしれないが、その余裕もなく、また、場合によっては、その能力さえ持ち合わせぬ組織にとって、要望は金のなる木のように映り、熟慮することなしに、対応することに終始してしまう。最高学府などと呼ばれたのは、遠い過去のことのようで、何でも役に立つことをします、と思われているのではないか、と思う程に、本来の役割から外れたことまで、手をつける状況に、要望する側は喜び、現場は疲弊することになる。時代の趨勢と言えばそれまでだろうが、大切なことが見失われているのは、間違いないだろう。先日の記事でも、子供相手に、理科の重要性を訴える事業に、精を出す大学の話題が取り上げられ、さも重要な事業のように扱われていたが、これも的外れの典型に思える。自分が育った都市では、独自の活動として、小学生対象の野外理科教室が、半世紀ほど続けられているが、その中心は、小中学校の教師であり、町の専門家たちが支援している。子供の身近な存在としての教師たちの役割を、上手く活用するやり方だったからこそ、これほど長期間続いたのであり、また、これを経験した子供が長じて、教師になるという繋がりは、この事業の質の高さを表しているのではないか。それに比べて、一時の思いつきと、一時の流行に乗るだけの事業の、薄っぺらな動きに、目を向ける社会には、見極める力などある筈も無い。
そろそろそんな季節が来たのだろう。殺虫剤の広告が流され始め、花の便りを喜ぶのも束の間、虫が飛び交う季節の到来を予感させる。自然の豊かさを楽しむ人々も、刺されると痛みを催す生き物には、嫌悪感を抑えられず、薬の助けを借りたくなる。暖かくなれば、彼らの行動範囲も広がり、家の中に入ってくるからだ。
だが、広告を眺めながら、首を傾げた人が多かったのではないか。記憶によれば、効果が無いという結果が報告された物が、例の如くのふざけた調子で、宣伝されているからだ。ぶら下げておくだけで、虫が来なくなるという触れ込みに、魅力を感じた消費者は、家の周りに幾つも置いて、大丈夫と安心したものだが、効果の程を確かめた訳ではない。信じる者は救われる、とばかりに、ぶら下げただけで、安心しただけなのだ。ところが、煩い連中は、何でも確かめなくては、気が済まないからか、薬剤の効果を検証する実験が行われたらしい。薬剤そのものの効用は確かだったのだろうが、放置するだけで散布の効果が得られるかの検証には、不合格との結果が出されたとのことだ。拡散効果と呼ばれるものなのだろうが、確かに効果が得られる濃度に達しなかった、ということなのだろう。前の季節と同じ調子の広告からは、何の改善も感じられないばかりか、変化の欠片さえ訴えられていない。ということは、効能に自信があるからという解釈もあり得るが、触れられたくないからという見方もある。更には、あんないい加減な検証で、ケチをつけられたことに対する怒りの表れ、という見方があってもいいのかもしれない。検証に当たった組織が、どの位信頼に足るものなのかも、この際、考えてみることも必要で、すぐに影響されてはいけない、ということになるのかもしれない。いずれにしても、また、ぶら下がったものが、軒下に見られる季節が来るのは確かだろう。
自分は悪くない!そんな叫び声が聞こえてくることが多いが、実態は昔と変わったように感じられる。何かが上手くいかなくなると、誰もがその原因を見つけようと努力する。少し探しただけで、自分に原因があるのが判れば、すぐに対応すればいい。だが、はっきりしないままに探し続けることは、不安材料を増やすことになる。
そんな時、ひとまず自分を原因と考え、対処を施すことが、昔は多かったように思う。何度も工夫を重ね、その結果、問題解決を手にすることもあるが、複雑な事情がある場合、他の原因を疑いたくなることも多かった。ただ、先に進めない状況は変わらず、苛立ちは高じるばかりとなり、結局、最初に上げた言葉を吐いたこともあった。不安や不満が蓄積すると、その解決は更に難しくなることが多い。その状況は、昔も今も変わらないが、以前なら、自分に向けていた目を、最近は周囲に向けることが多くなったようだ。自身ではなく、他の人々に原因があるとすることは、状況の打開には直接繋がらないものの、自分に対する不安は解消できるから、ある意味、安心へと繋がる訳だ。自身を守る為の方策とも言えるものだが、他への悪影響は大きくなるばかりだろう。そんな状態にあるとしたら、組織としてはかなり危険な状況にあるのではないか。悩みに沈むだけでなく、精神的な不安定に陥ってしまった人々が、こんな行動に出ることから、様々な問題が生じていることに、今の社会は気付かぬふりをしているようだ。弱者保護を優先する考え方に、大きな間違いはないとすることに、そろそろ反論を向けたほうがいいように思う。自分は悪くない、という考えが、悪い訳ではないだろうが、全てを他人のせいにすることには、問題があるのではないか。弱った人を保護する為、と言えば、聞こえはいいかもしれないが、それが他の人々の立場を苦しくするだけなら、何かが間違っているように思えるのだ。
何故、これほどまでの拘りを見せるのだろう、と思ったことはないだろうか。自分より若い人々が現れ、その考えを披露してくれる度に、一つの考えに囚われ、他の考えに耳を貸さない人の多さに、呆れたことがある。強い主張を持つ、という意味では、いかにも重要な行動に思えるが、常に通用するものではないだろう。
例えば、新しい場所に移った時に、前の所では、といった話から始める人がいる。経験を紹介しているだけ、と本人は思っているのかもしれないが、今居る所に関して、どう思っているのか、と問い返したくなる。特に、経験の数が少ない人ほど、この傾向が強いことが、最近の状況のようだ。人は自分の行動を決める時に、常に、何かと比較しながら検討すると言われる。それにより、最適なものを選択しようとする訳だ。そこで、比較対象の数が多ければ多い程、また、その種類が多様であればある程、的確な判断ができると言われる。だが、経験豊かな人間から見れば、若輩者たちに、勝ち目があるようには見えない。それが、拘りを見せるだけの行動であれば、更に、勝ちを逃す可能性は高くなる。にも拘らず、そこに居座ろうとする気持ちには、どんな心理が働いているのか。この点に関しては、昔の人間には、理解の範囲を超えているとしか感じられない。一つだけ思い当たるのは、ここで何度も取り上げてきたことだが、傾向と対策に慣らされた人々、という点だろう。既存の事実を収集し、それへの対応を考えることは、上に書いたことと同じものであり、それによって成功を収めてきた人々には、最良の手段に見えることだろう。だが、定式によらず、様々な変化を伴う事象を相手にすると、この手法は、一気に無力化することとなる。しかし、このやり方しか知らない人には、他の手段は無いものと同じだろう。そんな中で、始めに紹介した行動を示す訳で、結局は、何もできないのと同じことだ。その意味では、一度白紙に戻し、何から始めたらいいのか、考える機会にすべきだろう。
対人関係の難しさからか、自分の世界に閉じ籠る若者が増えていると言われる。他人との関わりでは、様々な要素に目を配る必要があり、時に、相手の反応によって、一喜一憂することとなるだけに、心が揺さぶられることに対して、敬遠する傾向が高まっているのだろう。ただ、これでは、社会の中での孤立を招くのではないか。
そんな心配は、多くのところから発せられてきたが、孤立化の勢いは止まりそうにもない。自分の趣味に走る人々でも、同好の士に出会うことで、社会性を維持することができる。ただ、同じ趣味とはいえ、そこには違いが出てくることもあり、折角築けた友人関係も、ほんのちょっとしたきっかけで、崩れてしまうことも多い。気配りとか配慮といった感覚の薄い人々が、こういった状況に追い込まれる時代では、孤立化を妨げる手立ては、簡単には見つからない。一方、社会にとっても、この手の人々の数が増すことは、喜ばしいことではないだろう。人々がそれぞれに勝手な方向に走るのでは、全体として向かう方向は定まらず、社会制度自体が崩壊することさえ懸念される。税金や年金などの制度も、現状では、何とか支えられているものの、このまま歪曲された個人主義の台頭が続くと、根底から崩れてしまう可能性もある。社会の意味に関して、議論を必要とするような状態は、好ましいものではなく、当然のものとして扱われるべきだろうが、現状のままでは、崩壊の勢いを止めることは難しい。その表れとして、この時期に注目されているのは、所謂政治離れではないだろうか。選挙への参加が、声高に訴えられるようになってから、随分時間が経っているにも拘らず、参加者の数は減る一方なのだ。その理由は簡単で、投票行動自体の意味が見出せず、不満のはけ口が見つからないからだ。多数のうちの一つでは何も起きず、何も変えられない、と思う人にとって、手の内にある装置に、不満を入力する方が、効果が見込めることは、一票の価値を更に下げている。