賢く生きる、ということばかりを追いかける人がいる。そうできていないからこそ、そんなことを目標とするのだろう。では、彼らにとって、賢く生きるとは、どんなことを指すのだろうか。その様子を眺めると、失敗をせず、効率よく生きることが、それに当るように思える。まさに、傾向と対策の表れのようだ。
何故そんな目標を立てるのか。この問いに答えるのは難しい。失敗を恐れるのは何故か、当人に問い質したとしても、的確な答えは返ってこない。失敗したことのない人が、失敗を恐れることこそ、理解し難いことだからだ。重大な過ちを犯し、どん底に沈んだ経験の持ち主が、それを繰り返したくないと思うことには、何の疑問も浮かばないが、何の経験もない人間が、何故、それほどに恐れるのか、という状況は、不思議なものとしか映らない。経験という事柄も、良いこと悪いことが入り混じっており、それぞれに様々な影響を及ぼす。だからこそ、そこから学べるものが出てくる筈だが、それを避けようとすることは、一見、安全を目指すものに思えて、実は、単なる恐怖感からくるもののようだ。悪いことを避けるのが、賢く生きる術のように受け取る人々は、結局、避けきれない危機に見舞われ、そこから抜け出す術を持たない為に、這い上がることができないのではないか。様々な失敗を経験したからこそ、そこから脱する術を身につけ、生き残る手立てを講じることができる。これこそが、本当の意味での、賢く生きることと思えるが、はじめに取り上げた人々は、明らかに誤解しているようだ。それでも、安定した時代には、そんな危機に襲われることは少なく、自己満足に基づく賢さに、大した問題も生じないままに終わる。だが、予期せぬ変動は、いつ起きるかわからない。見かけの賢さに囚われていては、真の強さは身につかないのでは。
積極的に動き出さず、受身の態勢を崩さない、といった批判が、若年層に対して向けられるようになってから、随分と経過したように思う。その間に、状況はどのように変化したのか。教える側からは、積極性を引き出す工夫や自分から動く為の手法の伝授など、様々な提案がなされているが、好転の兆しは見えていないようだ。
実は、好転どころか、悪化の一途を辿っているとの指摘もある。つまり、消極的で受身の態勢はそのままで、所謂指示待ちの姿勢を崩さないばかりか、指示を正しく処理できない人の数が、増え続けている訳だ。指示を待つどころか、それを正しく理解し、正しく処理することさえできないのでは、指示を出すだけでなく、手取り足取り、その動向を見守る必要が出てくる。能力の低下に歯止めがかからず、手がかかるばかりの新人達に、現場は混乱するだけでなく、疲弊の割合が増すのだ。質の低下という意味では、単純に人材育成の問題だけとは言えず、他の面においても、影響が広がる訳だから、そのうちどうにかなるのでは、といった間違った期待を抱くのは、そろそろ控えねばならない。では、どのような方策があるのか。積極性を引き出すことを優先した為に、独自性を尊重する動きが高まったが、これが逆効果を招くこととなったのではないか。つまり、他とは違うことが重要であり、その正誤が問われることはない、という状況は、単純に間違った提案を繰り返すだけでなく、正しく理解することをも、忘れさせる結果を招いたのではないか。始めのうちは、あまり目立たなかった、指示を守れない行動も、これ程目立つ状況が出てくると、放置できないようになる。だが、独自性の尊重を維持したままで、改善を図ることは、主原因を放置したままで、解決を図るようなもので、無理筋というものだろう。まずは、指示を守る為に、最低限必要なものを与え、その上で、そこからの変化を促すことが必要だ。この話は、促成栽培のような方式で、手当てをしたことが、却って悪くした例として、反省すべきものだろう。
相互理解とは何か、今更こんな質問をする人は居ないのかもしれないが、国の間という大きな単位から、人と人の間という小さな単位まで、これ程に重視される時代は無かった。個人という単位で、小さな社会を相手にすれば済んだ時と違い、あらゆる場所が互いに繋がる環境では、大小入り混じる範囲での整備が必要なのだろう。
その為には、自分の考えを表明する力と共に、相手の考えを受け入れる力が必要とされる。所謂コミュニケーション能力と呼ばれるものだが、言語という道具を手に入れた生き物にとって、身に付けていて当然と思われるものが、必要なものと扱われることに、違和感を抱かないのだろうか。現状を眺め回せば、致し方ない状況にあるから、という話が聞こえてくるから、ここでも、傾向と対策に似た考えが、横行しているのだろうと思われる。だが、本来身に付けておかねばならないのであれば、それを学校や企業で、改めて取り上げた上で、訓練に励むのはおかしなことだろう。何を惚けたことを言っているのか、と厳しい声が聞こえてきそうだが、それでも、身に付けていて当然、という話を棚上げしてしまう態度には、もっと批判の矢が飛ばされてもいいように思う。なぜ、そんな事態に陥ったのか、という点に関して、議論が進められる気配は全くないから、誰も興味を抱いていないのだろうが、出発点として、このような事態を招いた環境要因を、吟味する必要はないのだろうか。自らの発言や書いた物が、どのような影響を与えるのか、考えを巡らすことができない人々に、どんなことを教え込んだら、改善が図られるのか、さっぱり判らない。単に、黙れ、と言っていることと、何も変わらないのではないか。どう表現したら、真意が伝わるのか、そんな考えが巡らされることなく、ただ単に、これはダメ、あれはダメと指示を与えるだけでは、沈黙という答えしか導かれない。
閉塞感から脱したいという一心だったのかと思う。若手登用とか、女性登用とか、無謀とも思える試みが、低い雲が立ち込める中に、光を差し込む動きとして、評価されることが多かった。新機軸が評価されるのは、物珍しさも手伝うからだろうが、本当の評価は、それが成果を上げたときに下されるのではないか。
そんな目で眺めていると、その後の変遷が、思惑通りには動かず、若気の至りとも思える暴走がある一方、意外な程の保守的な動きに、若さが必ずしも思い切りを産むものではないと、改めて考えさせられる場面が出てきた。女性の登用に関しても、見方の転換が、打開への道を拓くとの期待は、多くが裏切られたのではないか。要するに、停滞する環境下では、少しくらいの変化では、激変を促す程の効果がなく、多くの期待が裏切られた、ということなのだろう。落胆させられる結果に、多くの人々が、更なる疲弊に陥ったのだろうが、そのまま放置するわけにもいかない。別の策を講じる必要があるのだろうが、袋小路に追い込まれた感覚の中では、妙案は浮かばないようだ。だが、劇薬が効果を表さなかったとすれば、普通の処置に戻すのが一番なのではないか。つまり、今まで同様の体制に戻し、地道な努力を積み重ねるという、本来のやり方に戻すわけだ。変化を期待した動きで、それらの結果から気になったのは、特に、人は器で決まるという、能力に関する定番の考え方が、通じなかったことである。確かに、大きな変化を促すことには、ある程度の成功を収めたのだろうが、その多くが、的外れなものに終わり、逆効果に終わったことが大きい。それは、新たな試みという点だけでは、状況を的確に掴んでいなければ、通用しないことを示した訳だ。更に、運営そのものに関しても、不手際が目立つ結果となり、時に悪化を招いたことは、改革を目指し、若手登用を決めた人々にとって、衝撃を与えたらしい。だが、これも当然の結果と言えるのではないか。何も知らない人に、舵取りを任せることは、余りの無責任なのだ。少なくとも、最低限のことを学ばせる期間を置き、その上で、やらせてみるという道筋が必要だった。学ぶには、良悪両面を見ることが必要で、そこから自分なりの答えを導く時間が必要なのだ。
対話の大切さを強調する声がある一方で、黙り続ける人や無視する人の存在は、問題とはされない。個人の自由を尊重する風潮では、人それぞれの選択も、重視されるからだろうか。意見を主張する事の大切さも、強調されることが多いが、これも一種の個人主義の表れだろう。つまらぬ意見を褒めるのは、どうかと思うが。
個人を尊重する考えと、対話を重視する考えは、現状を眺める限り、両立しそうにもない。この原因として思い当たるのは、自分の意見ばかりが飛び交い、相手の意見を撃ち落とすような行為が、屡々見られることだろうか。耳を傾ける姿勢は見られず、理解しようともしない態度には、わかるように説明できない人への、批判の声が含まれる。だが、彼らには、元々、分かりたいという気さえ、無いのではないだろうか。知っていることをひけらかすような態度には、傲慢さだけが感じられ、そんな空気の中では、対話が成立する筈もないことが解る。その中で、何をどう運べば、意見交換が可能となるのだろう。試みるだけ無駄なのではないだろうか。確かに、個人の考えは尊重されるべきだろうが、それはお互い様の関係にある。一方的な関係しか、頭に浮かばない人々には、相手の考えを尊重する気は、全くないのだから。それにしても、自分を中心に置く考え方が、これほど多くの人に保持されていることに、違和感を抱く人はいないのだろうか。このまま進めば、集団で何かを議論する機会は奪われ、互いに孤立化するだけの状態を迎える。そういう人は、集まりから身を引けばいいだけであり、他人を排除する考えは、御門違いというものだろう。
理解できない、ということに不安はないのだろうか。安全安心を掲げて、極端な主張を繰り返す人々が、巷に溢れる時代には、無理解は大したことないものになるらしい。自分の考えに縛られ、他人の意見どころか、常識として人々が持つべき知識を、無視しようとする人たちには、無知に対する不安は微塵も存在しない。
不安を煽ることを常とする人々にとって、無知蒙昧な大衆は、勇気付けられる存在なのだろう。彼らの方だけ向き、彼らの味方の如く振舞っていれば、自らの価値が下がることはない。どのみち、忘れることを常とする愚衆相手なら、前言撤回は簡単で、事ある毎に変幻自在に移ろう考えに、怖いものなどある筈もない。原発事故の後、様々な懸念が飛び交っていたが、その殆どが否定され、膨らまされた課題は、急速に萎んでしまった。結果報告の多くは、文字通り、科学的な検証の上に立てられており、内容も、論理的なものとなっている。にも拘らず、受け入れる事を忘れた人々は、初めの考えを改める事なく、測定結果に基づく結論に対して、捏造や作為という礫で対抗しようとする。彼らにとって、信用できるものは何か、通常の感覚では想像する事はできない。最も適切な表現は、おそらく、自分だけが信じられる、というものなのだろうが、移ろい易い心の持ち主が、自分を信じる事には、危うさが伴うように感じられるのだ。科学とは何か、という点で、議論を進める人も居るが、一方で、その出発点で、既に違う方を向いている人々には、何を言っても始まらないのではないか。聞く耳を持たない人々に、どんな説得法があるのか、教えて欲しいと、日頃から思っているのだが、その答えを示してくれる機会は訪れない。このまま、平行線を辿るのか、どうだろうか。実は、それ以外の答えはないのではないか。
もう一度だけ、裁きの話題を取り上げたい。リンチが横行した背景には、西へ西へと移動する、成功を夢見る若い人々の集団、という年齢構成があったのではないか。人が群れを構成し、移動したり、定住したりする生活様式をとると、多くは、長老と呼ばれる人が、その中での裁きを担うこととなっていた。
夢見ることとの繋がりは、若年層が主体を占める集団を形成することとなり、長老という存在が無く、同じ考えに偏る構成が、極端な行動へと走らせる結果を招いた。だが、社会が成熟するに従い、偏りは不公平をも招く結果となり、構成員に共通する倫理観に基づき、法が定められることとなった。これが法治国家の始まりなのだろうが、長老の裁きを頼む相談は、裁判所へと引き継がれることとなった。始めのうちは、日常の紛争を、法律に照らし合わせた上で、裁くことが役割だったが、更なる成熟は、その適用範囲を広げ続けている。三権分立の考えから言えば、法を定める役は、別組織が担うわけだから、その整備が進んでいなくとも、裁きをする必要があると見られる。その範囲が広がり続けることで、対象外のものにまで、要求が及ぶようになった時、多くは門前払いという形で処理されてきた。それも、不当な扱いとの批判の声が高まり、裁くことを余儀無くされてくると、理解の及ばぬ範囲にまで、口を出す必要が出てくる。利害が関われば、何事にも裁きは必要とする考えが、大半を占める時代には、理解の及ぶ範囲での判断も、通用するものと見做されるようだが、その矛盾に気付かぬ人が多いようだ。庶民感覚を裁きに取り入れること自体、本来の役割を見誤っていることが明らかだが、それも庶民の味方になるとなれば、世論は後押ししてくれる。裁きにあたる長老が、誰かの味方をすること自体、不適格の証と思えるが、現代社会は、その歪に気づく能力を失っているようだ。多様な見方を必要とするのは、裁く側であり、それに気付かぬ愚か者に、批判する資格などある筈もないのだ。