島国の狭い世界では、自慢などで目立つことはご法度とされ、謙遜を美徳と捉えてきた。これを、誤った評価の根源と見做す人がいるが、どうだろうか。自慢も謙遜も、自分の位置を正しく評価した上で、出された判断と見ることもできる。だとすれば、そんな行為が、評価のできない原因とは、誤った解釈ではないか。
どちらの立場に属するにせよ、下り坂に入った頃から、自信喪失の状況が問題視されてきた。坂を駆け上がっていた頃は、不可能を可能にし、夢を実現することもできると、信じる人さえ沢山居たが、下りに入ると様相は一変した。確かに、国力は蓄えられ続けてきたが、大多数の人々は、ただ単にその場に居合わせていただけで、それに加担した人はほんの一握りにすぎなかった。国に対する評価は、成長に従い高まったものの、個人の範疇では、全てが適用された訳ではない。だからこそ、成長が止まり、衰退期へと移った時に、自信を失うこととなったのだろう。だが、この時期の自信は、本来、過信と呼ぶべきものであり、自らの力を過大評価した結果だったのではないか。ただ、その後の喪失感は遥かに大きく、失ったものも大きくなった。その後、地道な活動が功を奏したからか、徐々に回復の兆しが見え始め、自信も回復しつつある。それに乗せる形で、様々な分野での活躍を評価する動きが高まり、国の力を改めて認識する声が強まっている。この動きに対し、批判的な指摘も多いが、実情を正しく理解するものに対しては、的外れの感は否めない。ただ、その中で気になるのは、活躍する人が多いから、自分達も凄いとの声を出す人の存在で、なぜ、そんな拡大解釈が可能なのか、理解に苦しむ。そんな思いを抱きながら、最近の傾向を見直してみると、確かに、何の根拠もなしに自信を示す人や、やればできる的な表現を好む人の数が、増えているように感じられる。自信喪失の裏返しとしての、自信満々とは何か、不思議な心理としか表しようがない。
通じていないのでは、と思ったことはないだろうか。注意しても、指示をしても、「わかりました」との言葉が戻ってくるが、その後の様子からは、こちらの真意が伝わっていない、と思うことがある。相手は、言葉をかけられたとの意識は残るものの、何を言われたのか、という点に関しては、記憶に無いようだ。
返事の良さ、こんなことが重視されるようになったのは、何故だろう。分からなければ、返事をしなくても良い、という意味では無い。返事をすることは、分かっていようがいまいが、して当然のことなのである。その上で、中身を理解しなければならないが、簡単なことでは無いようだ。その場では分からずとも、考えを巡らすことで、何かしらの答えに行き着く。そんな当たり前のことが出来ないことに、何の違和感も抱かぬようだ。生返事が戻ってきても、うっかり信用してはならず、その後の成り行きを見守ることが、最近は必要になっている。責任は、指示や注意をした側にあり、それを受けた側には無い、といった感覚は、理解に苦しむものであるに違いないが、このままでは、事が進まない、となれば、放置する訳にもいかない。だが、未熟な相手は、変な自信はあるものの、何の役にも立たないから、何かしらの働きかけが必要となる。だがしかし、と思うことが何度もあると、どうしたものか、という思いも過る。根拠のない自信を抱く人々は、それが招く事態に関して、何の準備もしていない。だからこそ、注意や指示や更には助言までも持ち出して、何とか気づかせようとするが、効果は期待できない。自分で気づく以外に、解決法はないのだが、それを教えて欲しいと言い出すのでは、何も起きないのだろう。待つことの辛さは、こんな時に感じられる。
屁理屈やこじつけは、得意とする人にとっては、便利な道具になるのかもしれないが、付き合わされる相手には、面倒なものとなる。嘗てああ言えば何とか、と揶揄された人物は、今でもその道を歩んでいるようだが、馬鹿にする態度は、当時のままに見える。実りのない議論に、朝まで付き合わされた人々は、今どうしているのか。
当時も、下らない議論を物ともせず、議論の為の議論を続けた人々は、その多くが、所謂全共闘世代、と呼ばれる年代に属していた。批判の為の批判であり、それが目指すところは、発言者にも見えない、という事態に陥るような議論は、運動が盛り上がった時でさえ、一部の賛同者を除けば、冷たい視線を向けられていた。体制批判は、彼らの最も得意とする所だったが、興味深いのは、体制側に属するようになってからの、変貌ぶりにあり、敵を知る人々の、卑怯とも思える対応に、呆れた人も多かっただろう。団塊と呼ばれた世代を、言葉巧みに誘導し、数に力を得た活動は、確かに、国全体に大きな影響を及ぼした。しかし、所詮、的を射ることのない行為には、目指す場所さえ見出せない。悪影響ばかりが残る中で、ある年齢に達した人々は、漸く舞台を降りることとなった。だが、依然として、言い足りないと感じる人々は、相変わらず、体制批判という安易な道を突き進む。大きな存在に立ち向かうことの、意義を強く感じるからか、使い古された身勝手な論理を、何の疑問も抱かずに用いる。無益な議論に、この時ばかりと、挙って参加する人々の殆どは、現役時代に、自己中心的な考えに囚われ、破壊を繰り返しただけでなく、その責任を体制に転嫁することに終始してきた。今更、そんなことを正当化するための論を展開したとしても、聞く価値のない話には、興味が示されることもない。ただ、あの運動を知らぬ世代には、また、惑わされる人が出てくるのかもしれない。
相関とか繋がりとか、議論を進める上で、持論を支えるものとして、様々に入り組んだものを紹介する。多くの論者が用いる手法の一つだが、賛同を得られることがある一方、過ぎたるは及ばざるが如し、といった感が残るような、こじつけが目立つ場合も多い。当事者の思惑では、妥当な繋がりとなっているようだが。
議論の場が少なくなり、一方的な言い様が多くなるにつれ、自己中心的な論理展開が目立つようになっている。ところが、そんなことが半世紀ほど前には、ごく普通に起きていたことを指摘すると、驚く人が多いようだ。若手の批評家には、何ら関係のないことだが、その発言が重んじられる人々が、若き時代を思い出せば、何を指しているのかは明らかだろう。学校という括りの中で、激しい議論が展開された時代、自らの意見を補強する為に、様々な繋がりを明示する話術が、好んで用いられていた。だが、浅慮に基づく展開は、所詮、身勝手な論理の表れに過ぎず、激論中の興奮から醒めると、その綻びが見えるようになった。ただ、その時代には、興奮に包まれる中での議論ばかりで、冷静な議論は忌み嫌われたから、これはこれで、十分に通用するものだったようだ。その後、議論そのものが嫌われるようになり、自らの意見を披露することが、何らかの理由で憚られるようになると、結びつきも大して重要なものではないとされていた。だからこそ、唐突で飛躍だけの意見が、恰も価値のあるかの如く扱われるようになったのだが、その無駄は、一部の人には認識されていたようだ。ここでも渦中の人々は、発言機会の獲得という興奮に、酔い痴れていたようだが、冷静に見れば、無駄な廃棄物にしか思えない。一方、再び勢いを取り戻した、相関や繋がりを持ち出す議論も、制動の効かないものと化し、こじつけに気付かぬ論理には、冷静さは上面だけのものとなる。本質を見失ったからか、こんなことで正論を展開すると思い込めるのは、ある意味、幸せなことかもしれない。
悪賢いとしか思えない話は、聞きたくないと思っていても、何処かから流れてくる。当人は、自分の賢さをひけらかしているのかもしれないが、その内容には、倫理や道徳の問題に触れていたり、汚さが表に出ているなど、品格を疑わせるものが多い。これでは、信頼を失うのではと思うが、欲に駆られた人々には違って映るようだ。
節税とは、違法とはならない範囲で、納めるべき税を減らす工夫を指すが、大企業のやっていることからは、どんな工夫があるのかと、耳を疑いたくなるものがある。利益に対して課せられるものを、いかに少なくするかは、誰もが解る話として、利益を減らせば良いとなる。その通りだが、どうやれば、何桁も少なく出来るのだろう。簡単には理解できないもののようだ。個人の範囲でも、こんなことに精を出す人がいる。様々に編み出された節税策は、その多くが経費という形での申告だが、どこからどこまで許されるのか、素人には思いも及ばぬものもあるようだ。これも賢さの表れ、と見ることもできるが、皆が賛成するとは限らぬ範囲にまで及ぶと、さてどうしたものかと思う。金が絡む話ほど、意地汚さが現れるようで、無駄を省く技術の多くに、品格を捨ててまで、と思えるものがあり、口にするのも憚られる。だが、これに精を出す人々は、殆どが当然の権利と考え、悪いことなど何もない、と言い切る。始めの立ち位置が違うのか、と思える事態に、戸惑うことが多いが、結局は、厳しい批判を浴びせるしか、こういう人々を排除する手立てはない。賢さを誇示する人の多くは、多分、評判を気にする筈だが、自らの行為がどう見られるかについて、狭い視野しか持てないのだろう。知らせても無駄なのかもしれないが、放置することは、別の無駄を生じるだけだろう。
弱い者が勝つ時代である。弱者擁護については、様々な意見があることは承知しているが、それにしても、余りにも極端な状況に、余りにも多くの人が戸惑っているのではないか。強弱の区別を持ち込むこと自体、どう考えても受け入れ難いことだが、それが、巷に溢れるような形で、裁きを下されるのでは、と思う。
こんな世の中では、あらゆるものに強弱の区別が持ち込まれ、◯◯弱者、と表現される。それを勝ち負けに結びつけるなど、歪んだ精神が社会の歪みを導くこととなる。情報弱者という言葉も、何を示すのか、殆ど明らかではないが、好んで使う人がいるところを見ると、便利なものとなっているようだ。確かに、それに必要となる道具を持たない人は、そう呼ばれることもあるだろうが、多くの場合、道具を使えない人に対して、この呼称が用いられる。使えない人の中には、所謂コミュニケーション能力の欠如が著しく、情報を鵜呑みにするばかりで、その思惑や真意などに目が向くことはない。読み取る力とか、見抜く力とか、そんな能力の欠如は、平時の集団行動の中では、目立たないものの、何かが起きた時には、異常行動として反省の対象となる。扇動に乗せられやすく、すぐに騙される人々には、落ち着いて情報を吟味する力がない。こういう人々の特徴の一つに、情報収集に励むものの、その真偽を見極めることなく、全てをそのままに受け取る傾向がある。何かを読んでも、誰かの話を聞いても、反応を示すことなく、吸収しようとする。これでは、吟味する暇は見出せない。デマに振り回されるのが、この手の人々の特徴だが、それは単に鵜呑みにするから、だけではないようだ。これに加えられるのは、一度思い込むと、その考えに囚われ、他との比較を全くしなくなることで、聞く耳を持たない、と呼ばれることとなる。鵜呑みとは全く違った行動に思えるが、実は心の動きとして、同じ道筋に沿っているようにも思える。弱者となるには、その素地が必要なのだろう。
最低限のことをすることが、賢さの表れと思う人が多いのだろうか。必要不可欠なことをやれば、それで十分とする考えに、異論は出にくいもののようだが、彼らの行動は矛盾だらけで、所詮、何も生まれないことに気づかされる。勝手な論理を声高に訴える姿には、支持を得ようとする気も見られず、結局、どうでも良いのだろう。
最大の矛盾は、賢く生きたいと主張する人の多くが、趣味や好きなことであれば、止められるまでやり続け、時には、止められてもやめられない場合もあることだ。欲に走る人々にとって、自制することはできない。趣味や好きなことは、まさに欲の表れであり、それに関わる喜びに浸り、ほかのことを全て投げ打ってでも、と思う気持ちは、他人には理解できぬものだろう。引きこもりには、外部要因によるものもあろうが、一方で、こんな欲望の結果として、そこから抜け出せなくなる場合もある。こんな形で社会から遠ざかっては、賢さは微塵もなくなってしまうが、それさえも中途半端となり、何兎も追った結果として、賢さを追い求める人の数は、最近特に増えているように感じられる。だが、好きなことへの欲望は抑えきれないのに、肝心なことには最低限を求めることに、彼らは矛盾を感じないのだろうか。と言うより、彼らの欲の表れに、異常な偏りを感じるのは、こちらが全く別の考えを持っているからだろうか。最小限を求められるものの多くは、本来であれば、もっと多くのものが必要にも関わらず、それを求めては元も子も無くなるから、といった考えに基づくものが多い。大学の卒業要件は、その最たるものなのだろうが、学びたいと思う人の数が減り、資格を手に入れる為だけに、講義を受ける人が増えた結果、最低限の要件は、重要な線引きとなってきた。こうなると、現場でそんな人々の相手をするのは、非常に疲れる作業となるのではないか。やる気のない人を相手に、何を与えればいいのか、こんな疑問に対する答えは、見つからないようだ。