パンチの独り言

(5月4日〜5月10日)
(批判、衆人環視、我慢、多勢、無視、利害関係、多様)



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5月10日(日)−多様

 最適化が持て囃されたのは、どの位前のことだったか。いつの間にか、聞かれることが少なくなり、別の見方に入れ替わったようだ。その状況での最も良い状態に持ち込むことは、一見、最善の選択に思えたようだが、環境の変化への対応を遅らせる結果となり、却って、無駄な努力に終わることに、気付かされた人が増えたのだろう。
 生き物の進化上の変化を見ても、適者生存が論じられる一方で、その程度に目を向ける人は少ないが、実際には、適度な状況が当てはまり、そこから広い分布を示すことが、種の存続に大きな影響を及ぼすことがわかっている。俯瞰的に見れば、容易に辿り着ける結論も、一部を際立たせる見方を好む人々には、姿が見えないようで、最適化という言葉が一世を風靡していた。だが、その状況にしか当てはまらない状態は、多彩に変化する時代には不向きだったようで、特に、下り坂に入った状況では、対応が追いつかない事態を招いた。それでも、最高の状態を追い求めたい人々は、諦められないらしく、最先端とか最前線といった言葉にしがみつく。変化が当然の状況では、一つの状態を続けることは、決して良い状況とは言えず、個々の状態を変化に応じて変えるより、集団として、広い分布を持たせることで、変化に対応させる方が、より良い結果を産むものとして、受け入れられるようになっている。今更のような解釈に、自らの無知を恥ずべきと思うが、懲りない人々は、突如として、多様性を追い求めるようになった。最適化の反対の考えが、多様性と思う人がいるらしいが、現実には、個々と集団の違いに気付かぬままに、考えついた結論のようだ。一つの基準に対して、広い分布を示すものと、多様な基準を設けて、それぞれに見合うものを選ぶことは、全く違った結果を導くことに、無知な人々は気付かぬまま、また過ちを犯す。多様とは、一つの基準に対するものとしなければ、ただの出鱈目に過ぎないことになる。

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5月9日(土)−利害関係

 近くの河川敷に、白い花の房がぶら下がるのを見かける。その季節がやってきたのだ、と思いながら、運転を続けると、其処彼処にその樹が生えていることに気づかされる。外来種の一つとして、数年前に対策を講じる話が取り上げられていたが、その後は静かになってしまった。あの騒ぎは、何だったのだろうか。
 外来種に関しては、様々な問題を産み出すものとして、話題となることが多い。動物の多くは、人間が意図的に持ち込んだものであり、時に、愛玩動物として手に入れたものを、飽きてしまったからと放り出した結果さえある。欲に走る人の典型として、取り上げられることもあるが、別の事例として、自らの楽しみの為に、意図的に外来魚を放流した話もあり、身勝手な行為が招く結果は、もっと批判の対象としても良いのではないか。動物の駆除とは異なり、植物は伐採すれば簡単に片付くと思う人がいるだろうが、荒れ野に生えるススキを追いやった、泡立ちのような黄色の花を咲かせる外来種に、苦慮したことを思い起こせば、事がそれほど簡単ではないことが、判るのではないだろうか。一方で、騒ぎの中心は、全く別のところにあった。生物多様性の問題から、外来種を取り除こうとする動きが急になっているが、徐々に定着するに従い、他の生物への影響は、単に生息域の縮小だけでなく、依存性の問題を生じる場合もある。白い花の房には、蜂たちが蜜を求めて群がり、そこから収益を上げる養蜂家たちがいる。騒ぎは、単純に多様性の問題ではなく、生活の糧の問題へと繋がったから、安易な決定への異論も多くあった。その後の経過を見ると、おそらく、議論は立ち消えとなり、急激な措置は先送りされたのだろう。人間の欲が絡む話として、利害は複雑に入り乱れ、結論を導くことは難しくなる。生物多様性の問題自体も、実は、利害が絡む話のようだから、こんな展開が、当たり前なのだろう。

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5月8日(金)−無視

 昨日取り上げた話は、多分、何を指したものか判らなかったのではないか。勝手な考えは、それ程に世の中に溢れかえり、垂れ流されているだけに、どの話題を取り上げたのか、簡単には思い当たらないだろう。これは、大事故や大災害など、大きな事が起きた時に、どんな扱いが為されたのかを思い出してみると解るかもしれない。
 危ない事が起きた時に、多くの人々は、過剰反応とも思える行動を示す。特に、予期せぬものに対しては、大した考えもなく、異常とも思える反応を示すことが多い。その場では、当然の選択と思われたものも、後になって考えてみると、何故、と思えることが多いのも、深く考えずに行動した結果だからだろう。確かに、災害が起きている現場では、じっくりと考える暇もなく、また、精神状態も正常とは言えない場合が多い。だからこそ、後になって落ち着いてから、どうあるべきだったかを検証することが重要だが、その殆どが不十分なままに放置されていることが多いことに、問題があると思えるのだ。大層な論理を展開し、順序立てて解説した筈なのに、何故、再び感情的な言動に陥るのか、不思議に思える。同じ人間が、落ち着きと慌てぶりを同時に示すことに、眺める側は振り回されることとなる。その原因が、人々の利害に基づくとなれば、それを外した上で、言動を理解する必要がある。にも拘らず、鵜呑みを繰り返す大衆には、扇動に乗せられた結果、何かしらの害を被ったとしても、致し方なしとの判断をすべきだろう。特に、自然災害は、頭の悪い人類にとって、容易には理解できない事象だけに、それを予期することも、結果を予想することも、簡単にはできないばかりか、おそらく全くできないとさえ思える。それでも、傲慢な人々は、まるで、自分ならできるかの如く、説明を繰り返すのだから、始末に負えない。所詮、勝手な話と思えば、聞こえぬふりもできる。

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5月7日(木)−多勢

 身勝手な見方や考え方の問題を取り上げることが多いのは、社会全体がそういったものの集まりになっているからだ。個人の好みに応じて、様々な対応を施そうとする動きは、何か特別な扱いのように思え、人々はその魅力に吸い寄せられる。だが、全体としてどうあるべきかを考えないままに、こんなやり方が横行すると、おかしなことが起きる。
 現状はまさにそんな状況にあると思えるが、勝手な人々は、そんなことに目を向けることはない。それより、私利私欲を押し通し、何かを手に入れると、喜びを覚えるようだ。思い通りに進む展開は、彼らにとって、最適なものと映るようで、少しでも筋書きから外れると、大騒ぎを始める。そんな行動様式を示す人の数が、これほどに膨れ上がっている背景には、それを扇動する動きがあるからだろう。代弁者のような振る舞いに、常識を疑う場面が増えているのも、最近の傾向の一つではあるが、良識というものが失われてしまった事態に、誰も声を上げないのは何故かと思う。全体の流れが決められると、それに逆らうような振る舞いは、攻撃の的となるようで、それを恐るが為の行動にも思える。常識や良識を示すことが、これほどに責め立てられるようになったのは、何が正しいかという判断基準が見失われ、どの考えが多数を占めるかが基準となっているからだろうか。学校などのイジメの状況は、異常行動の一種として取り上げられていたが、実際には、社会の情勢を反映していたに過ぎない。さらに、それが悪化するのは、その構成要素となっていた人々が、未熟なままに大人となり、異常さを更に募らせる要因となったからだろう。民主主義が、いつの間にか、多数決によるものと見做されているのも、何が正しいかを判断するより、誰の考えが多数の賛同を得られるか、を拠り所とするからではないか。明らかに間違っていても、賛同者を得ればよしとするなら、利害こそが最大の要因となる訳だから。

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5月6日(水)−我慢

 休みの期間、大移動が繰り返されるのは、毎度のことだ。その中で、親族が集まり、一緒に食事をすることも、よくあることなのだろう。ただ、昔との違いがあるとすれば、田舎の家での食事ではなく、何処かに出かけるようになったことだ。車での移動が当然となれば、近くの町まで出かければ、食事処もすぐに見つかる。
 親子三代の集まりとなれば、誰の意見が中心になるかが、何を食べるかを決めることとなる。だが、店によってはかなりの待ち時間が必要となる。予約を受け付けるような場所ならば、そんな心配は無用だろうが、大衆を相手とする店では、そんな形式を取らない。元々、その土地に住む人から見れば、普段の生活では待つこともなく、ぶらりと出かけてもすぐに食べ物にありつける。だが、長い休みの期間となれば、より多くの人々が集まるから、普段とは違う光景が展開する。当然、待ち時間も長くなり、腹を減らした人々の心は落ち着かない。大人達は心の中で不満を並べるだけで済むが、子供らはそうもいかない。御馳走にありつけると期待してきただけに、待たされることに我慢がならなくなる場合もある。躾と呼ばれる準備が、十分に整っていさえすれば、心配ご無用となるだろうが、そうでない光景が目の前で繰り広げられる。誰もが待つことに慣れているわけではない。大人とて、空腹で苛立つ中では、我慢もならぬこととなる。それを目の前で騒がれては、苛立ちも更に募るものだ。少しは、我慢を経験させよ、と声を掛けたくなるものの、ここも我慢の連続となる。何とも言えぬ、修行の時間となってしまうが、さて、これでいいのだろうか。自らを律することは、子供達にも影響を与える。そんな態度をとりつつ、注意を与えることが、社会の仕組みなのではないか。幼子だからといって、大目に見るのが、必ずしも良いことには思えない。

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5月5日(火)−衆人環視

 長い休みに、何処へ出かけようかと考え込む。この国のこの時期に見られる、普通の光景なのだが、もっとずっと長い休みを取る国の人から見れば、何とも不思議な光景なのだろう。一週間あるかないかのものに、欲張りな計画を立て、忙しく動き回る。ひと月ほどの休みが当然の人から見れば、何とも気忙しく映るのだろう。
 だが、休みの過ごし方にまで、口を出されて平気なのか。自分のしたいようにすればいい、というだけのものに、何故、これほどに意見を突きつけられるのか。不思議に思うことはないのだろうか。これに限らず、兎に角、他人の意見を気にして、それを悩みの種とする人々は、どうして、自分を中心に考えないのだろう。ここまで書いてみて、ふと気付いたのだが、自己中心的な考え方をする人が大半を占める世代に、批判的な目を向ける人々は、他人の目を気にするばかりで、自己主張がないと言われる。これが世代間の違いのように見られているが、実は、国全体として見てみると、他を気にする傾向が全体にあるようだ。これは、情報媒体にも如実に表れており、一つの話題に関して報じる中で、必ずと言っていいほど、他国の見方を紹介する。他人の目が、気になるのは確かなのだろうが、それを、この場で取り上げる必要があるのか、不思議に思うことも多い。内容の吟味も十分でなく、垂れ流しに似たものが多いのも、最近の傾向ではないか。相手の意見を全部聞かずに、反論を展開するのはどうかと思うが、鵜呑みにするような流し方には、考えがないとの印象を覚える。批判に弱い体質が、こんな所にも表れており、他人の意見をそのままに流すのだろう。これもまた、他人任せの姿勢の一つなのだろうか。

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5月4日(月)−批判

 心の拠り所などではないのかもしれないが、国を位置付ける文言であることは、間違いないだろう。それにしても、毎年のように巻き起こる、批判の嵐には、一体どんな意図があるのか。成立の背景から、他人の言葉によるものとか、自分達が決めたものではないからとか、そんな理由が並べられるが、果たしてどうか。
 言葉の乱れが指摘され、文章による表現力の低下が著しくなっても、以前なら、一人一人が考えることとして、努力を促すのが精々だった。時代が変わったのだろうか、いつの間にか、教え込むことに精を出す人が多くなり、どうするべきかを指し示そうとし始める。まるで、以前のやり方は間違いで、正しい道を示しさえすれば、誰もが表現できるようになる、というような宣伝文句に、疑いの目も向けず、素直に従う若者たちは、どうなることを望んでいるのだろう。その中で、鵜呑みにせず、批判的に物事を捉える姿勢を、大切なものと扱っているが、初めに書いた批判と似た雰囲気があることに、現場の人々は気づいているのだろうか。他人を批判する姿勢は、批判という行為に馴染む為の第一歩となるが、その先には、自己批判も含めた考え方の確立がある。ところが、多くの批判は、他人へのものだけとなり、自分に対する目は、全く違ったものを持つ人が、世の中には沢山居る。その結果、身勝手な論理が展開されることとなり、他人との協調は得られないものとなる。それが、自己を確立する為の手段、と見る向きもあるが、いい大人がいつまで自分にしがみつくのか、疑問を抱かないのだろうか。表現力の話の中で、確かに道具を備える必要はあるが、その前に、表現すべきものを揃える必要がある。話術だけで生きる人と違い、多くの人は、自分の考えを持つことこそ、重要なのではないか。だからこそ、批判の目で、他人と同じように、自分も見つめることが重要なのだ。

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